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東京マラソンが近づいてきましたね。きょう、あす、東京入りされる方も多いと思いますが、
東京の日曜の予報は最高8度、最低0度。幸い、昨年のような雨は降らないようですが、
風には注意してくださいね。特に銀座を過ぎて海に向かう33キロを過ぎて、ぐっと冷えますから。
さて、東京マラソンに振られてしまったぼくとしては、まだ網走ねたが続きます。
流氷船やワッカと並んで、訪れるのを楽しみにしていたのはモヨロ貝塚でした。
市街地から近く、網走川の左岸河口にあり、妻の実家から20分のジョグでたどり着けます。
このモヨロ貝塚は、普通の貝塚とはちょっと違う。ただものではありません。
縄文時代から600年前ごろにかけての、長い時代の遺構が重なって見られるんですけど、
おもしろいことに、1500年前、日本の奈良時代のあたりから、800年前ごろにかけての地層からは、
土器も、埋葬された人骨の体型も、日本固有のものと異なったものが出土しています。
これらの土器はアムール川下流域のものに似ているだけでなく、
埋葬された人間の骨格も、このころの日本のものより長身で、頭蓋骨の幅が狭いそうです。
アムール川がかかわっているのは、流氷だけではなかったんですね。
つまり、航海術にすぐれて、漁労を得意としたアムール下流域の人たちが、
この時期に南下してきて、オホーツク沿岸で独自の豊かな文化を形成したのだそうです。
アイヌとは明確に区別されており、オホーツク文化人などと呼ばれます。
オホーツク文化を愛された司馬遼太郎さんの「街道をゆく オホーツク街道」(朝日文庫)によると、
モヨロ貝塚で出土した土器には、ワイン生成の過程でできる酒石酸という物質が確認されたそうで、
つまり、オホーツク人は古代から網走の地で山ぶどうから醸造したワインを嗜んでいた。
オホーツク人の存在を昭和初めに解明したのは、理髪師だった米村喜男衛さん。
在野の学者で、権威がなかっただけに米村さんの発見も最初は役所に相手にされなかったそうです。
その熱意がやがて東大や北大の学者を動かして、世に知られることになったのだとか。
ジョグの帰りに、この米村さんの収集物をもとに設けられた網走市立郷土博物館にも足を伸ばしました。
昭和初期の立派な建築で、米村さんの「網走の地に文化を」という思いがこめられたそうですが、
残念なことに開館当初から展示はそのままとみえ、氏の遺志を継ごうという気概は感じられない。
ぼく「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」(松尾芭蕉)という言葉が好きなんですが、
宝の持ち腐れとはこのことか、と、その夜、教育者でもある義父さんとはそんな話で飲みました。
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へぇ〜〜〜〜!!オホーツク人という言葉も初めて知りました。まして高度の文化的な生活を嗜んでいたのですね、驚きです。
せっかくの宝物を持っている博物館も大いにPRしてもらいたいものですね。昨年網走に行って来た母親も、知らなかったといっています。
2008/2/15(金) 午後 5:50 [ ★なまはげ ]
★なまはげさん、ありがとうです。
オホーツク人には謎が多く、北海道の考古学のミステリーだそうです。せっかくの資源と格式、博物館はもっと生かしてほしいです。これでは、いつ閉館してもおかしくない状況です。
2008/2/16(土) 午後 6:22
オホーツク人の土器はおおまかに円形刺突文、刻文、沈線文とソーメン状貼付文の3期にわたって変遷する。
その中で最も特徴的なのが北海道東部から南千島に分布するソーメン状貼付文土器である。
この土器はソーメン状の細い粘土紐を直線、波状にほどこしたものである。中には海獣、水鳥など動物を表現した貼付文もあるが多くはない。ソーメン状の粘土紐は一定の幅をもっているので動物・海獣の腸を乾燥させチューブとして粘土をひねり出した「チューブデコレーション」技法によるものと考えられている。
高圷、皿、異形土器などの土器はなく、あるのは底部が小さい割りに胴部は丸みをもった広口壼である。土器の大きさは小型・中形・大形・特大型にわけられる。用途に応じて使い分けしていていたのであろう。焼成はあまり良くなく、記面の色調は灰黒褐色である。
2016/10/1(土) 午前 9:17 [ 北海道にまた行きたいな ]