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大会が近くなると、マラソン、あるいはランニングに関する本が読みたくなってきます。
今週読み直したのは、「孤高のランナー 円谷幸吉物語」(青山一郎著、ベースボールマガジン社)。
今年7月に復刻され、一気に読み終えたのを、改めて読み直しています。
アベベの出現で、一気にスピードの時代に突入した東京五輪前夜の日本マラソン界に、
彗星のごとく登場した円谷幸吉さんの一生を、元新聞記者の著者が周囲の取材で綴っています。
初マラソンだった1964年3月の中日マラソンの30キロ地点。雨の中、トップ争いをしているのに、
給水のガラスのコップを捨てられず、伴走の報道車両に手をさしのべて渡したりとか、
7カ月後の東京五輪のマラソン本番で、国立競技場に入って、英国のヒートリーに背後に迫られた時に、
父親に幼い頃から言われていた「決して後ろを振り向くな」という言葉を守ったこととか。
円谷選手らしいエピソードの数々が紹介されているのですが。
しかし五輪の翌年から幸吉はレースに勝てなくなり、椎間板ヘルニアとアキレス腱炎に悩みはじめる。
本職の一万メートルで国体で敗れ、「オリンピックの円谷は過去のものです」と苦しい言葉を吐く。
ここからの幸吉のお話はまったく悲劇としかいいようがありません。
東京五輪前から交際し、式の日取りまで決まっていた恋人と、上官の反対で引き離されてしまい、
おまけに、長く二人三脚で歩んできた畠野コーチがこの上官に楯突いて左遷されてしまう。
起死回生をかけたヘルニアの手術の後も経過はよくなく、走り込みもできないまま、
メキシコ五輪の年の正月を故郷の須賀川で迎える。そこで幸吉は、かつての恋人の結婚を知る。
正月に須賀川の街をランニングした時、幸吉は腰と足の激痛で10分たりとも走れなかったそうです。
そして一週間後、幸吉は「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の遺書を残して自殺する。
もとはトラックの選手がマラソンに羽ばたいていくときは、辛い練習にも走る喜びに満ちていて、
それだけに五輪後の悲劇が、際だって見える。走り続けることは、こんなにも辛いことなのか。
こないだの「鴨の里」の時もそうだったけど、ぼくこの本読んでから、走っていて辛いときには、
「こんな辛いときに、円谷は何を考えていたんだろうなあ」なんて考えるようになっています。
もちろん立場は違うのだけど、「走る」ということの意味を考えるいい機会になりましたよ。
けさは武庫川河川敷を宝塚市役所まで21.0キロ。1時間56分。今月累計175.5キロ。体重71.4キロ。
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