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「熊谷空襲とその時代展」を見てきました。
終戦の前日、8月14日の熊谷空襲を永遠に忘れないための企画で、豊富な写真と生資料で構成されています。これまでにも熊谷空襲に関する書籍は何冊かあって、展示の写真はそこに掲載されているものが多いので、なんとなく馴染みがあるのですが、当時の配給切符・衣類・ビラ・道具類などは初めて見るものばかりで、生資料の迫力に圧倒されます。千人針の実物や猛火の本堂から持ち出された焦げ目のある仏像がとりわけ印象に残りました。またなぜ熊谷が標的にされたかに関するいくつかの推測には興味をひかれました。
展示は今月29日まで、熊谷市立図書館美術展示室(熊谷市立文化センター3階)で開かれています。熊谷駅南口から徒歩5分、入場無料です。
▲無料バンフ(12頁)もあります。
■特別企画 熊谷・ありし日の姿 熊谷市の戦前の景観を写真でご紹介。
【熊谷市街】*熊谷名勝案内より
昭和10年代の中山道沿い繁華街の景観。左の白亜のビルは昭和11年竣工の熊谷郵便局電話分室で、現在NTTのある位置。右の望楼と塔屋のある建物が熊谷警察署で、その向こうに見える大屋根が熊谷郵便局である。戦後の復興都市計画による区画整理で、市役所へ向かう大通りができて現在は交差点になっている。
西を望んだ写真で、突き当たり付近が現在八木橋デパートのあるあたり。
ほぼ同位置から撮影した現在の景観がこちら↓
【荒川大橋】
明治42年に木橋で竣功した荒川大橋は、大正6年に中央部のみがトラス橋となった。両端が鉄橋になったのは大正14年のこと。
写真は熊谷側から村岡方面を望んだもの。昭和50年代に新しい橋が架けられるまで使われたが、現在も村岡側に一部が保存されていたと思う。
【市役所と公会堂】
熊谷寺北側にあったもので、市制施行(昭和8年)に間に合わせて新築された。公会堂があることが市になる条件に含まれていたと思う。
とぢらも戦災で焼失。
【熊谷電気館】
大正14年の熊谷大火で焼失し、翌年再建された建物。開館当時の写真も存在する。これは昭和初年頃撮影と推定される。外観も内部も川越あたりの映画館よりも格段に優れていた。館前の立て看板に「鞍馬天狗大会」とあるのは、当時大人気だった嵐寛十郎主演のシリーズだろう。
昭和初年のチラシをみると、人気女優水久保澄子がやってきて舞踊を披露したこともあった。
【高城神社】
昭和初年頃の撮影。今もここはそれほど変化なし。
【熊谷射場】
昭和16年11月に竣功したもので、場所は吉岡地区らしいが詳細の位置は不明。
3枚ある写真の一枚で、ここで戦闘訓練をしたのだろう。
【東武妻沼線の工事】
画像が荒いのは戦時中の粗悪な紙に印刷されているからだろう。妻沼に向かっての線路敷設工事の様子で、東武鉄道発行「東武産報会報」の口絵写真に掲載された一枚。妻沼線は昭和18年暮れに開通した。
*掲載資料はいずれも個人蔵です。
■参考資料
大日本職業別明細図 熊谷町深谷町忍町行田鴻巣町妻沼町 昭和5年
東武産報会報 東武鉄道 昭和19年
共電式電話開通記念 熊谷郵便局 昭和11年
御大典記念熊谷交通図 昭和4年?
熊谷のすがた 1954年版 埼玉商工新聞社
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熊谷市




私の母は3月9日の、東京大空襲の、経験者でした。
子供の頃から、聴かされた、悲惨さが、今思うと、尋常では、無かった事が、分かります。
語り継がれる事が大切なのですね。
母は、昨年亡くなり、もう、話を聴く事ができません。
戦争経験者の、高齢化で、難しくなっていますね。終戦記念日が、くる度に考えます。
[ 由桜 ]
2010/8/13(金) 午後 9:59
熊谷の戦前の写真がよくありましたね。
画像に出てくる【高城神社】は、高校の校歌にも
出てくるので馴染み深いです。
[ きんや ]
2010/8/13(金) 午後 11:02
熊谷は祖母が住んでいるので、馴染みのある街です。
終戦の前日の空襲だったと、うっすらと記憶していましたが改めて思い出しました。
2010/8/14(土) 午前 0:53
由桜さん●おかあさんはたいへんな経験をされていたのですね。うちの親は空襲などの経験はありませんが、当時授業が二部制であまり勉強できなかったことや、食料の不自由さは今でもよく言います。些細なことでも語り継いでいくことは大事だと思います。
2010/8/15(日) 午前 0:35
きんやさん●熊谷の古い写真は意外に残されているんですよ。ただ他地域に何気なく残っているので、地元の把握が及ばない部分があります。
高城神社は年の瀬の祭り(酉の市?)に行ったことがありました。このあたりは空地だらけになっていますね。
2010/8/15(日) 午前 0:39
ゆうみんさん●壺井栄の児童小説「母のない子と子のない母と」に熊谷空襲の描写がでてきます。あと一日遅かったに終戦で、この悲劇からまぬがれたのに・・
2010/8/15(日) 午前 0:42
街の様子もずいぶんと変わったのがわかりますね。
戦争や火災で焼失した貴重な建造物も多くあったのですね。
しかも空襲が終戦の前日だったとは、当時の人にとっては忘れられない苦しさだったはずです。街の歴史にも残り続けるほどの悲劇のはずです。初めて知りました。
2010/8/15(日) 午前 1:14
こんにちは。
今日も熱い熊谷です。私も来週あたり、息子を連れて行ってきます。
昨日は熊谷空襲のあった日そして花火大会。会場から二キロ離れた荒川土手上まで行きました。
光と音に歓声をあげながら、ふと、(市内の高校出身なので)当時先生方から聞いた空襲体験を思いだし、一つ一つの光が犠牲になった方々の魂のように見えてきました。
2010/8/15(日) 午後 4:15
僕も昨日の花火大会に行ってきました。
会場のラグビー場へ行く途中に熊谷市立文化センターがありましたね。
調べたら熊谷花火大会は、 熊谷空襲復興を祈念して始まり今年で61回目。
1945年8月14日午後11時半ごろから15日未明の敗戦の日に行われた最後の空襲で住宅地を流れる星川には、負傷した市民が水を求めて集まり亡くなった。
犠牲者は266人だったそうです。
改めて平和を祈念します。
[ きんや ]
2010/8/15(日) 午後 11:59
Clip-Clopさん●当時の熊谷は川越よりも人口が多く、華やかな町だったようです。
被災された方々にとって翌日の終戦はさぞかし複雑だったでしょうね。
2010/8/16(月) 午前 1:19
yoshiさん●展示期間中に、当時の空襲を知っている方の話を聞く会とかあるようで、時間があれば聞きたいと思いました。
熊谷は郷土に関する展示とかがとても盛んでいいですね。
2010/8/16(月) 午前 1:25
きんやさん●熊谷の花火は一度も見たことがないんですよ。有料席まであるようですね。広い河原ですからさぞかしきれいでしょうね。
当時の星川は今とちがって市街地をくねくね曲がって流れていたようですね。
2010/8/16(月) 午前 1:28
この時期母上様に戦後や戦中の話を聞くときりがありません。。。
孫たちはまたか・・・と消えてしまいますが。。。
私達の時代の人間は消えることも出来ず・・・
聞き流してこの場を何とかしたいと思ってる人がほとんどだと思います。
でも・・・それも出来ないで耳の片隅で聞いていて。。。
「ばあちゃんまた同じ話してるよ・・・」って思いながら。。。
これを後に残さないといけないと思ってる人がほとんどなんじゃないかな♪
そんな一人が私です^−^
2010/8/23(月) 午後 11:21