■なまず
残暑の中、斎場から寺を回って戻り、本膳料理となる頃にはにぎやかな談笑となった。
大勢の親類がひさしぶりに揃うと、昔話がひょいと出るものである。
メモリアルホールの広い窓からは、新斎場建設予定地の向こうに黄色の稲田が広がっている。
伊佐沼から流れ出る九十川の旧路が稲田の中に名残りを留めるが、父親が子どもの頃にここまで遊びに来たと話しはじめたので、こんな遠いところまでとびっくりした。自宅からは相当の距離である。話の様子では子どもだけで来たらしい。以前にも市内池辺の「おっぽりの池(巨人の足跡伝説の池で、今はわずかな痕跡のみ)」へ、歩いて行って釣りをしたと聞いて驚いたことがあったが、昔の子どもの遊びエリアは相当広範囲だったようだ。昭和20年代前半のことである。
九十川を少し遡ると「二枚橋」がある。大宮へ通じる街道の小さな橋で、今は新道ができたため大正13年竣功の橋梁は補修されてそのまま使われている。
ひと頃までこの橋のたもとにあった天ぷらやは、川越の人の昔話に頻繁に登場する有名な店。野菜と雑魚だけの品目だったが、味の良さで遠方から多くの顧客を集めたという。正式な店名はあったのだろうが、通称は「二枚橋の天ぷら屋」であった。店横には鶴川座と演芸館のビラが貼られ、九十の流れにビール瓶が浸けてあったそうだ。天ぷらで一杯飲ませたりもしたらしい。
父親らがこの天ぷらやのところまで来ると、九十川にたくさんのナマズがいたそうである。詳細を聞き逃したが、竹筒製の捕獲器なのか、流れの一部を単に竹で区切ったその中にいたのか、畑作地帯に住む子どもたちにはとても珍しくてはしゃぎながらナマズを捕まえた。もちろんナマズは天ぷらやの商売用。しかし店の人もすぐには注意せず、しばらくは子どもらを楽しませてからハイッそこまで!の寛大さ。 そして一匹か二匹土産にくれたそうである。おそらく見かけない顔なので、遠くから来たと聞いて親切に手土産を持たせてくれたのだろう。
のどかな時代の話である。
二枚橋のたもたから九十川上流を望む。
橋のすぐ脇を新道が通っている。戦前まで川越と大宮の間を走ったチンチン電車の橋は新道のあたりにあった。電車橋と人道橋があったことから「二枚橋」と名づけられたともいうが、本当だろうか?
大正生まれの叔母から、このチンチン電車に乗った話しを聞いたことがあった。大宮公園あたりに遠足に行ったときらしい。昭和10年頃のことで、西武鉄道の支線だったが、同社は並行して走るバス運行に重点を置いて、チンチン電車は数時間に一本くらいの運転だった。
本膳料理を食べているとき、私はほとんどの人に背を向けている位置に座っていたが、ふと振り返ると叔母が
壁際に飾られた叔父の遺影を眺めているところだった。叔父の亡くなった日に訪ねたとき、叔母は泣きはらした顔でよく来てくれたねとすがりついてきた。手を握ると小さくて羽二重餅のように柔らかかった。背も小さくなって、かわいらしい童女のようだった。数年前から気持ちのほうも童女のようになっているので、もうチンチン電車に乗ったことも覚えていないかもしれない。 |
この記事に
「二枚橋」いいですね。県内を自転車で巡っていると用水路や小さな川によくモダンなコンクリート橋が架かって、親柱の時代を見るとことごとく昭和初期になってます(個人的には「昭和モダン橋」と呼んでますが・・・)。色々、調べてみると面白いかもしれませんね。後全く関係ないですが、えのきどいちろうさんと北尾トロさんが、これも県内郊外では外せない「山田うどん」本を11月に出す予定があるそうです。
[ 久喜住人 ]
2012/9/21(金) 午前 0:12
返信するおはようございます。
今のウニクス付近に住んでいたので二枚橋付近はよく行きました。天ぷら屋さんは懐かしいですね。客として行ったことはなかったと思います。
学校橋あたりの九十川でよく遊びましたが相当汚れてました。当時の大人たちは子供の頃、九十川で泳いだと言っていて、信じられなかったのを覚えています。
2012/9/21(金) 午前 8:39
返信する以外と覚えているものですよ。昔の記憶ほど美化されて鮮明に…。
[ ブルドッグ ]
2012/9/21(金) 午後 9:11
返信する告別式となると皆が久しぶりに集まるなんて悲しいけど懐かしい時間でもありますから故人も喜ばれるでしょう。
[ keiwaxx ]
2012/9/22(土) 午前 8:10
返信するしんみりする話ですね。
私も小さい頃から年の離れた兄のような存在だった叔父が、昨年若くして(73)突然他界したので何となく共感できる気がします。
なまずを捕まえて遊ぶ子供達、今では見られない風景ですね。
あまり関連はないですが、学生でバイトしていた頃、川越工業団地の近くで、ナマズの天ぷらや唐揚げを食べさせてくれる「はや好」と言う料理屋があり、会社の人にそこで昼ご飯をごちそうになったことをふと思い出しました。
[ no-mean ]
2012/9/22(土) 午後 9:55
返信する久喜住人さん●「昭和モダン橋」いいですねぇ。昭和初期頃のデザインにはよいものがありますね。この二枚橋も県内のコンクリート橋としては初期の部類らしいですよ。埼玉県で最初?のコンクリート橋はたしか飯能名栗にある橋だったと思います。写真でしか見たことがないのですが、すぐれたデザインです。いつか行ってみたいものです。
北尾トロさんの本はタイトル忘れましたけど読んだことあります。「山田うどん」は埼玉では馴染み深いですね。子どもの頃に食べた懐かしい店です。どんな本になるのか楽しみですね。
2012/9/23(日) 午前 0:27
返信するyoshiさん●yoshiさんが子どもの頃にはまだ天ぷらやさんあったんですか!てっきり戦後まもなくには無くなってしまったのかと思ってました。昭和50年代くらいまであったんでしょうかね。
2012/9/23(日) 午前 0:33
返信するブルドックさん●自分の都合のいいように記憶していたりしますよね。自分はどうやら記憶力がよくないと最近思っています。幼い頃の記憶はかなりあやふやになってきました・・・悲
2012/9/23(日) 午前 0:35
返信するkeiwaxxさん●長年会っていなかったいとこたちにも会いましたが、なんだか浦嶋太郎の気分でした(笑)
2012/9/23(日) 午前 0:37
返信するno-meanさん●私は冠婚葬祭にあまり縁がなくて、火葬場にははじめて行きました。骨をみてあっけないものだと思いましたね。
「はや好」って知りませんでした。ナマズは甘露煮をどこかで食べたことがあるように思います。天ぷらで食べてみたいものです。
2012/9/23(日) 午前 0:40
返信する川越スケッチブックさん。「はや好」は私が大学生の頃にあったお店です(20年ほど前)。
川越工業団地に来るお偉いさん達の接待用だったのかもしれません。
ナマズの唐揚げ定食をごちそうになって、それがとてもおいしかったのを記憶しています(白身魚のような淡泊さで臭みもなく、柔ら無い肉は絶品でした)。
後日弟と母と訪ねたときは定休日でがっかりしたことも。
その後行く機会もなく、何年かして(そう言えば・・・)と思い、車で記憶の場所を探して見るも、確かこの辺だという場所は単なる空き地になってしまっていました。
元々人里離れた所にあって、バブルの頃でなければ経営が成り立たなかったのかもしれません。
[ no-mean ]
2012/9/26(水) 午前 3:24
返信するno-meanさん●店の流行廃りは激しいですね。このブログで記事にしたことのある川越の店もずいぶん消えています。ラーメン店・やきそば店・からあげ専門店・・
2012/9/28(金) 午前 11:11
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