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画像一枚目の3階建ての建物は熊谷市にあった「桜雲閣(おううんかく)」
熊谷町伊藤書店発行による写真はがきで、明治44年8月の消印が捺されている。写真中央の電柱に「四x三・四」と電柱設置年が書かれているから撮影時期が推定できる。
この建物は明治7年(1874)に「暢発(ちょうはつ)学校」という教員養成所として、熊谷町の高城神社境内に建てられたもので、当時の金額で3000円かかったという。
暢発学校は明治12年に廃校となってしまうのだが、建物はそのまま残っていたらしい。明治43年(1910)に現在の弥生町地内に移築されて「桜雲閣」となったのである。高崎線の線路際にあって、当時線路を隔てた南側は桜の名勝地で知られた熊谷堤があった。桜雲閣という名はこのあたりから来ているのだろう。明治39年に結成された桜の保勝会の事務所がここに置かれた他、熊谷唯一の公会堂として各種催事に利用されたらしい。
「熊谷案内(明治45年発行)」に『三層楼上より四顧せんか関八州の山河収めて眼底にあり』と紹介されている桜雲閣は熊谷名所としても有名だったが、大正14年(1925)の熊谷大火で焼失してしまった。この火災の影響なのか、熊谷堤の桜も衰退を始め昭和初年の新堤造成で姿を消した。現在春先に荒川土手を見事なピンク色に染めるのは新堤の桜である。
さて、この桜雲閣が川越城富士見櫓の建物だったらしいということを、以前に熊谷関係の本で読んだことがあるのだが書名を失念してしまった。言い伝えで事実かどうかは不明。本当だとしてもこの桜雲閣がそのまま富士見櫓といわけではなくて、解体した資材を流用したということなのかも知れない。屋根の上にシャチホコらしきものがあるのが、なんとなく城の建物だったという感じもする。
2枚目の画像は現在の川越城富士見櫓跡。土塁上には神社があるが、平成12年に富士見櫓再建の話しが出て後部に移動した。再建の話しは消えたのだろうか。
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