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★川越スケッチブック-埼玉都民の川越暮らし
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 ■旭町二丁目の「いなげや」付近の画像。背後のネットはエグサゴルフ。家々の間にスイミングクラブやスポーツクラブが点在するごく平凡な住宅地域である。旭町は昭和40年に誕生した町名で、それ以前は新宿町や脇田町に属する区域であった。

 もう記憶の彼方になりつつあるが、この界隈にはその昔「塩硝蔵(えんしょうぐら)」があった。塩硝蔵は川越藩の火薬庫である。元々は現在の本川越駅あたりにあったが火災で焼失したため、城下町から更に離れた新宿村地内に移転させられたのである。どういう構造の建物だったか定かではないが、近年発掘調査された金沢藩の塩硝蔵は瓦葺きだったそうだから、川越藩の塩硝蔵も同じような造りだったのかもしれない。
 戦前の地形図には「火」のマークがあって、近代になってもこの地に塩硝蔵が存在していたことが確認できるが、これは川越藩消滅後は川越鍛冶町櫻井銃砲店(現重要文化財田中家住宅)の火薬庫として使用されていたからだという。

 また「いなげや」から、市立川越高校あたりにかけてを小字名で「一本榎(いっぽんえのき)」と呼んだ。これはその名のとおり大きい榎の巨木があったからである。「入間郡誌(大正元年刊)」には明治期に伐採されたとあるが、昭和戦前まであったと証言する人もいる。武蔵野の境界を示す木だと伝えられているが、いささか疑問もある。しかし国木田独歩も書いているように、広大な武蔵野の北限は川越あたりまでらしいので、ひょっとすると境界の目安となる樹木の1本だったのかも知れない。江戸時代に連雀町立門前にあった榎も武蔵野の境界と言われたという。
 
 耕地と荒野だったこの地域も、戦前に工業地域としての区画整理が竣功すると横河電機やオモダカ製糸工場が進出し、昭和30年代からの急速な住宅の増加は、畑地もほとんど見当たらないほど市街地化してしまった。
 
 【参考資料】
 ●三芳野名勝図絵 川越文化財保護協会 昭和61年
 ●武蔵国郡村誌 

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