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■母校の桜
川越市立仙波小学校。私が通った小学校である。卒業してから数える気が失せるほどの歳月が流れているが、校庭に面した校舎の東寄り2棟は在学中にすでにあったし、プールも体育館もあったからそれほど雰囲気が変わっていないようにも感じる。校庭東側の桜も昔のままのようだ。入学したときこの桜の幹にアメリカシロヒトリがたくさん這っていたのを覚えている。薄気味悪い話だけれど、幼少時代の私はアメリカシロヒトリを腕に這わすことが平気だった。今ではぜったいにできないが・・
東側の門から撮影。右手前の鉄筋校舎は二年生と五年生のときに使用した。校舎前の樹木も昔からある。奥に見える体育館は在学中に完成した。卒業記念で体育館脇にタイムカプセルを埋めたが、さすがにもう無いだろう。校庭の左手にはプールがある。川越市の小学校最初のプールだったと思う。夏休みには字町(あざまち)ごとに泳ぐ日があって、自由時間が多いので楽しみだった。体育館の右手には用務員室と給食室があった。学校内で給食を作っていたのだが、食中毒発生事件と給食センターが完成したため廃止された。廃止記念に先割れスプーンをもらった。用務員室は木造の平屋で、ここにあった緑色の大きな琺瑯のヤカンをなぜか強烈に覚えている。用務員室そばには二宮金次郎像があった。
私は目立たない取り柄のない生徒だったが、音楽専攻だった担任の抜擢で、金曜日にあった音楽朝礼のときに、朝礼台に立って全校生徒の前で歌ったことがあった。眩暈がしそうなくらいドキドキしたのを覚えている。
こちらはおまけ。
木造校舎があった頃の仙波小。奥に見える鉄筋校舎が、上掲載画像の手前の建物である。
この木造校舎はおそらく戦前の建築だと思う。新入生がこのポロ校舎に入った。なにか不都合があって、一時的に裏手の別の木造校舎を使用したことがあった。二人ペアで使う木製長机(机上が蓋式で開けて文具などをしまう)を新入生がえっちらおっちら運ばされてたいへんだった。戦後まもなくは生徒が急増して教室が足らなかった仙波小だが、私が在学した70年代は仙波分校と呼ばれた武蔵野小開校で生徒が減り、このポロ校舎には空き教室があった。
写真右のジャンバー姿は私である。左の女の子はクラスメート。彼女のお父さんは有名出版社のカメラマンで、一緒に遊んでくれたこの日、何枚かの写真を撮ってくれたのである。岸町の新河岸川土手ではあれこれポーズを命じられて撮ってもらった。
もうずいぶん前に亡くなられたが、川越市長の選挙用ポスター写真も撮影した方であった。 |
一枚の写真
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アルバムに貼られた色褪せたこの写真、裏側に「昭和十一年 川越西町駅前」の鉛筆書きがなかったら、いったいどこを撮影したものかわからないに違いない。
現在のJR・東武東上線川越駅東口の在りし日の景観である。
駅舎前から撮影したもので、右端が菓子煙草商で看板に「川越名物いもせんべい」と書かれている。
その隣が昭和4年にできた埼玉・菖蒲・上尾の各バス会社による共同発着所。熊谷に本社を置く埼玉自動車はそれまでは川越市駅前に発着所があったが、西町駅前に移転するとともにバス便を増発し、新田町駅(現本川越駅)と西町駅での電車連絡を容易にさせ、川島・越生・坂戸エリアからの乗客の便宜を図った。
このころの東上線は日中はほぼ30分間隔の運転(川越市〜池袋)で、すべて各駅停車。朝夕に急行が2往復し、そのうち1往復は川越西町〜池袋間ノンストップ運転で所要時間は35分であった。
写真ではわかりずらいが、当時の駅前はまだ繁華でなく、低層建築ばかりで寂しい景観だった。駅前から市中心部に通じる西町通り(現クレアモール)は飲食店や食料品店などがまばらに並んで、近所の人が日常の買い物を済ませるところだった。
参考までに同年代の熊谷と大宮駅前の写真を。
▲熊谷駅前
▲大宮駅前 中山道交差点から駅舎(突き当たり)を望んだもの。
熊谷・大宮とも鉄道幹線沿いだったこともあって、駅前の景観は川越よりも近代的だった。
■参考資料
大日本職業別明細図川越市 昭和7年
川越商工人名録昭和9年版
東上線電車時刻表 昭和10年12月改正
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◆宮崎県日南市飫肥(おび)へ旅したのは1991年の夏のこと。前年に友人が鹿児島へ転勤したため、90年代の一時期はしばしば九州へ飛んでは友人宅を根城にして、近場の霧島温泉郷や水俣・阿蘇、さらには雲仙・長崎あたりを周遊していました。 「宮崎の飫肥へひとりで行ってきたがいい町だったよ」と友人から聞かされて、それまで通過ばかりだった宮崎にようやく目が向き、友人の案内で鹿児島から出かけたのです。青島観光とからめての日程にしましたが、飫肥へは初日に訪れたと思います。 宮崎市から日南線で1時間ばかりの小盆地の町。目抜き通りは広々としていて高い建物が少ないせいか、開放感にあふれた印象が強くありました。駅からレンタサイクルで、この広い通りを行くとほどなく旧城下町の中心部。 戦後まもなくの合併で中心機能が他地区に移ったため、早くから古い街並みを活した活性化への取り組みがされたそうで、1977年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 街を歩き、城跡や小村寿太郎銅像などを見ましたが、8月も終りに近い日でしたので観光客も少なめでした。しかし閑散とした雰囲気は、寂れているようにはまったく感じませんでしたね。人の少なさがとても心地よかったです。 飫肥で忘れられないのは「服部亭」という古い建物を利用した食事処。武家屋敷だと思っていたのですが、今回ネットで調べたら飫肥藩御用商人の邸宅でした。なぜ武家屋敷だと思っていたのか・・
ここで食べた昼の松花堂がこよなくうまかったです。御飯といい刺身といい忘れられない味でした。空腹だったからでしょうか。昼日中からのジョッキも五臓六腑に快感でした(笑) 服部亭の松花堂を食べたいために、もう1度飫肥へ行きたいくらいですが・・・・やはりちょっと遠いです。 |








