ここから本文です
★川越スケッチブック-埼玉都民の川越暮らし
忙しすぎて更新ままならず・・すいません

書庫川越城

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

☆川越城の部材が転用されたという大日本武徳会埼玉支部(浦和市)の建物

 川越市立博物館展示図録『川越城−失われた遺構を探る(平成4年)』の「移された遺構を探る」の項には、廃城にともなって売却等された川越城の建物などの行方が記されている。
 その代表格は「本丸御殿家老詰所」だろう。ふじみ野市において民家として使用され、川越城の建物だという伝承を持っていたが、詳細な調査で家老詰所と判明し、本丸御殿裏に移築修復されている。

 同項では他の例も簡単に紹介されていて、浦和市にあった武徳殿すなわち大日本武徳会埼玉支部の建物も、川越城の建物の部材が転用されているとの伝えを持つとしている。

イメージ 1
【大日本武徳会埼玉支部武徳殿写真(明治末期/個人蔵)】
 掲載写真が「大日本武徳会埼玉支部」である。大日本武徳会は武道の振興・奨励・顕彰を目的として明治28年(1895)に設立され、後年財団法人化された。柔術・剣術・弓術を今日の柔道・剣道・弓道の呼び名に改めたのがこの武徳会である。

 埼玉支部は明治33年(1900)の創設で、武徳殿の完成は明治42年12月のこと。場所は埼玉県庁近くの鹿島台と呼ばれた一画であった。明治40年くらいに建築計画が発案され、会員に対して1円以上の寄付願いが出されている。このとき武徳殿の建築予定建物断面図も作成されたが、この時点では寺院本堂のような平屋であった。
 実際に竣工した武徳殿は、天井が高く設計されて二層風の外観である。

 展示図録には、この建物が川越城の玄関や骨軸などを使用したとの伝承があると書かれてある。
 そうすると明治初年の川越城廃城から、武徳殿建物として明治42年に再生されるまで、どこにどんな形で存在したのだろうか。このへんの事情がわかるとたいへんおもしろいのだが・・

 戦時中に政府の外郭団体となった大日本武徳会は、連合国軍最高司令官総司令部の命令によって昭和21年(1946)に解散したが、この建物は昭和43年まで浦和に残っていた。その後加須市の遊園地「むさしの村」に移されたものの、残念ながら現存しないようである。

 【参考資料】
 ○川越城−失われた遺構を探る         川越市立博物館  平成4年
 ○ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 浦和  国書刊行会    昭和58年
 ○浦和総覧                  京北振興会    昭和2年
 ○大日本武徳会埼玉支部武徳館略図                明治40年
 ○県都浦和の歴史               浦和郷土の会   昭和45年
 ○ウィキぺディア「大日本武徳会」
 

☆特別企画☆

初公開写真・明治時代の本丸御殿

■戦前の川越城本丸御殿の写真は比較的残されています。その中から初公開カットを1枚御紹介しましょう。
イメージ 1

■明治40年代に撮影された写真と推定されます。当時は「入間郡公会所」として使用されていました。
 写真には写っていませんが、この当時は御殿の左端前面に突き出して「目附詰所」の部屋が存在しました。図面を見ると6畳と4畳の部屋ですが、昭和42年の修理時に取り壊してしまったようです。
イメージ 2

■現在の本丸御殿。来年から長期にわたって修理がはじまるそうで、その間は見学ができなくなります。見ておくなら今のうちです。
イメージ 1
■川越城本丸御殿家老詰所の男子用トイレでございます。見えずらいですが、中には杉の枝が押しこまれています。

 こういうトイレを見ていて、ふと頭に浮かぶのは・・

 『急ぐとも 心静めて露落とせ あたり汚さぬマツタケの滴』

 アラヤダ!

 この句?は、中山千夏の旅行エッセイ集「旅はツレアイ」の『伊勢奥津・赤字線』の章に出てくるもの。
 彼女が伊勢奥津に旅して、雑貨屋を兼ねた商人宿に泊ったときに、この文句をしたためたビラがトイレに貼ってあったと相方(ツレアイ)に報告されて、おもわず見に行ってしまうのです。


イメージ 2
■【旅はツレアイ】中山千夏/日本交通公社/1974年
21編からなる旅のエッセイ集。飾らない文章がとてもいい。好きなのは「夏油温泉」「伊勢奥津」「ひとり旅ぎらい」「厚岸」「倉敷」などの章。
 学生時代にサークル内の文集編集を1年間担当したとき、いい文集タイトルが浮かばず「旅はツレアイ」を使わせてもらいました。感謝しております。

 この本は現在絶版。いつも図書館で借りていたのですが、数年前古本市で見つけてすかさず買い、時々読み返しています。

☆市民会館脇の坂道

 ■日頃何気で上り下りしているこの坂も、過去をたどれば川越城の名残のひとつ。坂上の川越小学校あたりは城内で屋敷のあった場所。坂の傾斜は土塁で、画像すぐ手前あたりが水をたたえた堀であった。大正9年に川越図書館が作製した「川越城址現状図」を見ると、堀は田んぼに転用されていて、市民会館隣の第一小あたりの堀はまだ水があったようだ。

 大正時代の地図にこの坂道は記載されいていない。昭和5年当時の地図にも無く、昭和11年の地図には登場する。現やまぶき会館の位置に、川越市立図書館が新築落成したのが昭和7年であるから、おそらくはそれに合わせて造られた新道なのだと思う。

 小学生時代の担任が「私の娘時代は市民会館横の坂は石がごろごろの砂利道でね、自転車で派手に転んで足を挫いたことがあるのよ」と話してくれたことを覚えている。
イメージ 1
イメージ 2

廃城後は刑務所が置かれた二の丸跡

イメージ 1
◆二の丸跡の建つ市立博物館◆↓大正時代の二の丸跡イメージ 4

■市立博物館と市立美術館のある場所が、かつての川越城二の丸。表面的な二の丸の遺構はまったく無し。博物館建設時の発掘調査で建物や井戸・堀の遺構が確認され、陶器などの生活用品や板碑の類が発見されている。
 廃城後まもなくの明治初年には浦和監獄川越分監がニの丸跡に置かれた。現在、市内大塚新田にある川越少年刑務所の前身である。明治43年に脇田(現在の川越駅西口前)に監獄が移転したあとは、建物が取り払われ芝地に松が点在する場になっていたようで、大正11年の市制施行頃は「川越公園」と呼ばれていたらしい。
 昭和2年に川越商業学校の校舎がここに落成した。戦後に旭町へ移転した後は、グランドとして使われていたようである。昭和50年頃は商業学校時代の平屋のボロい校舎が西側に一棟残っていたを覚えている。
イメージ 2
◆本丸御殿前から二の丸跡方面を望む
イメージ 3
◆博物館前の停留所に到着した小江戸巡回バス。立っている人もいるほど満員の状態だった。

*画像は5月27日撮影。

開くトラックバック(2)

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

mak**756*000
mak**756*000
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

検索 検索
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
友だち(8)
  • tako
  • しのゆう
  • かずみん
  • 伊達ろん宗
  • はいむ
  • 元気
友だち一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事