|
暑いので夏らしいデザイン画を。
小田急電車が発行したもので葉書大のサイズですが、裏面は葉書仕様にはなっておらず、
夏の日曜日は小田急に乗って江ノ島へ行きませんかみたいな誘いの文章が印刷されていま
す。
時代はおそらく昭和10年頃から20年代前半頃と思われますが、このデザインは今も充分通じ
るセンスがあって気に入っています。
|
資料
-
詳細
|
■昔のおもしろい写真
洪水で避難する人たち?
いえいえ違うのです。
時は明治40年代、場所は伊予の西条。
当時、西条付近の海は遠浅で、大きい船が接岸できませんでした。
そこで沖合いに停泊した船から、乗客を艀(はしけ)と人力車で浅瀬を岸まで運ぶという珍しいことが行われて
いたわけなのです。
千葉県の木更津での同様な写真を見たことがあり、この写真もてっきり木更津かと思ったのですが、
西条の吉川商店の名が印字されていたので、グーグルで「伊予西条 海 人力車」で検索してみたところ、人 力運搬を記した文章があって西条だとわかりました。
浅い港湾は町の発展の妨げになったことから、昭和のはじめに開削が行われ大きい船の入港が可能になった そうです。
|
|
■戦時下の資料
昭和18年に発行された「三越」の表紙。戦争前は流行品や季節の品を紹介するカタログ誌だった
ようだが、この号はB5版サイズ一枚を二つ折にしたチラシの体裁で、紙質も粗悪。
「戦う日本服」と題して、質実・簡素・活動に焦点をあてた婦人の服装の提案をしている。袖と
帯の型が写真と絵で示され、たとえば帯は「大和結び」「乙女結び」「興亜結び」などが紹介され
いる。
「三越」の最終面に掲載されている売場案内表の一部。
1階と地階の案内の一部だが、「皇軍慰問品」「防空用品」「代用品」「軍人遺家族製作品売り場」などが、戦時 下であることを示している。戦争前の地階は食料品売場だった。
「東亜旅行社」は現在のJTBである。戦前はジャパン・ツーリスト・ビュローだったが、戦時中は日本語表記に 改めさせられた。
戦争中は生活に関する様々なものが配給制であった。衣料品
は昭和17年から衣料切符制による配給となった。すなわち年間
ひとりあたり、都市部では100点・地方では80点分の衣料切符が
支給されたが、実際には現物の不足できちんと配給はされなかっ
たという。チラシ文中の衣料登録制は、配給登録された店のこと
らしいが、ネット検索で調べただけではどういものかよくわからな
かった。チラシは戦時中か終戦直後のもの。 |
|
■縣民二告グ 埼玉の戦争史料
昭和16年12月8日、旧日本軍がハワイ真珠湾攻撃を行って太平洋戦争の口火を切ってから、今日で70年になります。
「縣民二告グ」と題されたビラです。
戦争開始にともなう心構えを県民に説いた内容です。
当日に配布されたものなのでしょうか。詳細は
不明です。
こちらは真珠湾攻撃の模様を写真にしたもの。B5サイズ8枚
セットで、簡単な解説がつけられています。
おそらく当時販売されたものだと思います。
昭和17年公開の映画「ハワイ・マレー沖海戦」は真珠湾攻撃の様子を描いた作品で、当時大ヒットしたそうです。私は未見の作品ですが、監督は川越に訪れたこともある山本嘉次郎。真珠湾攻撃シーンの特撮は円谷英二が担当しています。軍部がほとんど資料を貸してくれなかったため、わずかな資料から真珠湾のミニチュアを作り上げ撮影したそうです。その精巧さは見た人に驚嘆を与え、これを実写だと思ったアメリカから戦後に資料としてフィルムの提出を要請されたそうです。
特撮部分のシーンをどうぞ。主役の藤田進が貫禄あり!
|
|
▲猛火による煙
小学生の頃は、1日の始業式で校長先生が必ず関東大震災(大正12年)の話をした。自身の体験談であるからなまなましさがあった。
埼玉県下では、粕壁(春日部)や草加など東部地域の被害が甚大だったが、川越は家屋倒壊などの大きい被害はなかったようである。それでも私の家などは、壁が全部落ちたそうだ。当時の詳細はあいにく伝わっていないが、修復など大変だったのではないだろうか。
アップした震災の画像は、粗悪な紙に印刷された写真で、大きい一枚に多数印刷して切り取ったもの。切り口もかなりいい加減である。震災一ヶ月後の新聞に「震災写真販売人募集」の広告が出ているが、この画像の写真も販売されたものなのだろう。
|





