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★川越スケッチブック-埼玉都民の川越暮らし
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 ■龍池弁財天
 小仙波町四丁目の東、台地と低地の境目にあるのが龍池弁財天。この台地の縁は古代に東京湾が奥深くまであった名残である。すぐ近くには貝塚もある。この地の伝説の詳細は画像二枚目に任せることにして、遠い昔のすぐれた眺望も今や住宅に囲まれて失われ、バス道路の傍らに整備されて小公園となっている池の様子をご紹介。

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★忠臣蔵ゆかりの地

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▲見立寺本堂。川越の旧城下町エリアの寺は創建後に移転しているものが大半だが、この寺も古くは蓮馨寺境内にあったという。
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▲見立寺入口の紫陽花 盛りも過ぎてくたびれ加減

 ■地元ネタのブログをやっているわりには、じつは地元にあまり精通していないのが正直なところ(苦笑)。市内の寺社もほとんど行ったことがない。喜多院のような大規模な寺は別格だが、裏通りなどにある寺だとなんとなく入るのが憚られて素通りがほとんどである。

 高沢橋あたり新河岸川に沿った道筋は数えきれないほど通っているのに、橋際の見立寺(けんりゅうじ)の境内にも、一度も足を踏み入れたことがなかった。それどころかひと昔前までは「みたてじ」と思い込んでいた。お寺の人も開いた口がふさがらないに違いない・・

 その日も通りがかりついでに、川に臨んだ寺の傾斜に咲く紫陽花を撮影していたのだが、ふと境内にも紫陽花があるのではと思って、境内への坂をはじめて登ったのである。
 境内へ入ると右奥に本堂があり正面は墓地である。すぐ左を見ると「赤穂浪士」の文字が目に入った。

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 赤穂浪士四十七士のひとりである矢頭右衛門七(やとうえもしち)の妹の墓の案内標識だった。討ち入り実行前に母親と三人の妹を親類のいる奥州白河へ行かせる予定だったが、通行手形の不備でそれができなかった。討ち入り後に18歳で右衛門七は切腹したが、残された母親と三人の妹の窮状が世間に知られるところとなり、ようやく奥州白河の親類が迎えにきて引き取られると、やがて妹たちは嫁いだ。

 この見立寺に眠るのは次女で、嫁ぎ先の多加谷家が主君の国替えにお供して上州厩橋(前橋)へ移り、明和4年(1767年)に川越に移ると翌年に亡くなったのである。70代だったという。

 川越で没したのはかなり早くから判明していたが、墓が確認できたのは10年ほど前のことで、新聞にも大きく報じられたらしいが、うかつにも私はまつたく知らなかった。そのせいか妹の墓がここにあるということがとても新鮮に感じられた。へえ〜川越にねぇという感じで、しばらく六地蔵脇にある墓を見つめていた。視線を感じてふと横を見ると、飼われてるとおぼしき犬がうつぶせになって虚ろな目をこちらへ向けていた。

 なお、右衛門七の墓の所在は大阪市北区の浄祐寺である。

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▲六地蔵脇に墓はある

 1999年の大河ドラマ「元禄繚乱」では、右衛門七を今井翼、妹を篤姫でブレイクした宮崎あおいが演じている。

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▲見立寺参道から見た高沢橋
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▲三芳野神社参道。石畳が敷かれて整備されたのは明治30年代末のこと。

 今週の朝ドラ「つばさ」には三芳野神社が登場していた。それにかこつけて撮影したままお蔵になっていたこの画像もようやく登板。

 撮影は4月末。今は木々の葉も黒味を帯びて陰影がいっそうはっきりしていると思う。普段はさっさと通り抜けてしまう三芳野神社だが、ここが童謡「通りゃんせ」発祥地のひとつであることは周知のとおり。境内の隅には発祥地の碑まで建っている。ネットで調べたらこの童謡の詞の解釈にはいろいろあるようで、遊郭に登楼した解釈などはおもしろかった。

 通りゃんせで思い出したが、昔の角川映画に「この子の七つのお祝いに(1982年)」という柔らかな題名の映画があった。もしや川越の三芳野神社でも出てくるのかなと見たところ、目をつり上げた岩下志麻が人を殺める恐ろしい内容だった。一度しか見ていないので詳細はほとんど忘れてしまったが、冒頭に初代キョンキョンこと岸田今日子が出てきたのを覚えている。恐いながらも明治の女学生のような髪型で着物姿の岩下志麻はきれいだった。尚、岸田今日子を初代キョンキョンだと言ったのは小堺一機と関根勤である。

 もちろん映画に川越は出てこなかった。

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★旧本町

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▲旧本町の碑
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▲市役所前から札の辻方面

 川越市役所から西の札の辻にかけてはかつて「本町(ほんまち)」と呼ばれた。古くは「本宿」ともいわれて、川越草分けといわれる人たちが住み、川越市街の礎はこの本町あたりに形成された集落からだと推察されている。もっともその頃は家屋が密集しているわけでなく、町というよりもほぼ農村的景観だったらしい。

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▲大正元年頃の本町の家並み。
 現在の市役所南側駐車場のところにあった川越町役場から撮影したもの。板葺きの家屋もあるが、家並みが揃ってりぱな景観である。左側に「牛鳥洋食」と看板を掲げているのが「吉寅」 右側中央あたりには川越の地図などを発行した進愛舎活版所があった。
 右端上部に学校の校舎のような細長い屋根が見えるが、元の川越米穀外三品取引所の建物で今も残っている。その向こうの大屋根が小間物商近江屋で、背後に広済寺の屋根も見える。
 通りを行き来する人がまばらなのは朝早いのか、昼下がりなのか・・こうもり傘を差している人がいることから夏の情景らしい。おそらくは大正元年の夏の撮影だろう。

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▲市役所前から札の辻方面
 左角の建物は100年以上前の建築らしい。大正元年の陸軍特別大演習時には日本赤十字社埼玉支部出張所となった。
 朝ドラ「つばさ」のオープニングにさりげなく映っている建物である。

★光西寺のしだれ桜

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 ■光西寺のしだれ桜
 喜多院から南に歩いて五分ほど、中院に隣接して光西寺があります。境内奥の墓地にひときわ目立つ川越藩主松井家の墓所があって、そのかたわらに見事なしだれ桜が満開を迎えています。

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