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ウニクス川越の屋上駐車場からひょいと見ると、鮮やかな
ピンクの色彩が! 以前より規模は小さくなったけれど、今
年も咲いています川越市新宿町一丁目のムギナデシコ畑。
この道は「旧河岸街道」 新河岸川の船着場へ
物資を運ぶための道であった。
小さな鳥居が浅間神社で、9月1日には「お焚きあげ」の神事
が行われている。
神社の来歴を記した案内板。元名主宅に伝わる「未の太郎公
物語」の文が記されているが、読んでもよくわからない部分
がある。「入間郡誌(大正元年)」で著者安部立郎も考察して
いるように神社の来歴というよりも、単なる伝説として捉え
ておいたほうが良いのかもしれない。
は、雀の森氷川神社西側の畑地において大正天皇による御統監が
行われた。
そのおりに雀の森で撮影された写真を特別公開
馬に乗っている人の中におそらく大正天皇がいるのではと思わ
れる。大演習から100年あまり経過した現在の同位置がこちら↓
よく見ると雀の彫刻が。
神社背後。かつては児童公園があり、撮影位置あたりは杉が
鬱蒼と繁って迂闊に踏み込めない林があった。排気ガスによる
杉の立ち枯れが写真入りで新聞報道されたのは40年ほど前のこ
と。伐採などによって遥かいにしえには喜多院の森と続いてい
たと伝えられる森の名残は消滅してしまった。
神社西側の旧河岸街道と西口大通りの交差点。旧河岸街道は
この先野田町方面へ向かう。交差点渡ってすぐ左には渡辺精肉
店があったが、ここのコロッケはギトギトした油っぽさがなく
て味もよかった。もう長いこと食べたことがなく、またブログ
で紹介しようと思っているうちに肉屋をやめてしまい、思い出
の味になってしまった。併設盛業中の「とんかつハウス」は利
用したことがないが、メニューにコロッケはあるのだろうか?
画像左の和菓子店「紋蔵庵」を左折するとすぐに「御野立の
森公園」がある。
陸軍特別大演習時に大正天皇が御統監された場所がここである。
その当時の様子がこちら↓
が、当時は人家など見当たらず広大の畑作地帯であった。御統
監はよく晴れた初冬のの日で、烈風が吹き荒れ富士山や秩父の
山々がよく見えて絶景だったという。
参道になっているが、かつてはこのあたりに「雀の森ストアー」
があった。八百屋・肉屋・魚屋・菓子屋・乾物屋などの寄り合い
マーケットで、子どもの頃のクリスマスにチキンを買ったことが
あった。閉店後はたしか仏具店で、大通り拡張時に小仙波のほう
へ移転した。マーケット時代の乾物屋は新宿町6丁目へ転出し
た。
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川越の資料
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詳細
コメント(10)
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ビニール製の川越観光案内風呂敷です。
昭和49年頃に作られたものと思います。百万灯まつりか川越祭りのときにスタンプラリーみたい
なことをやっていて、小学生だった自分は友人とスタンプの置いてある店をまわっているときにど
こかでもらったおぼろげな記憶があります。
川越観光協会推奨とあり、小さく総発売元として包装材料店名が入っているので販売されたもの
なのでしょうか。
まだ川越が現在のような観光地となっていない頃で、蔵造りが紹介されていません。神社仏閣など
名所旧跡と官公庁が多く記載されています。
大雑把な地図で、よく見ると立門前の通りが省かれており、広小路の北側に出世稲荷の大いちょうがあるなど位置情報もあやふやな部分があったりします。
右よりに「滝下の堰」とあるのは現在の仙波河岸史跡公園のことでしょうか。このころは河岸跡
にあった釣堀も無くなって、鬱蒼とした森になっていたように思います。
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雑多のものを詰め込んであるダンボール箱から出てきた川越市営による宿泊施
設「戸田川越荘」のパンフレット。画像は表紙部分です。1985年前後のものでし
ょうか。料金や間取りの案内はありませんが、客室20室(収容104名)・大広間1・
中広間1・男女大浴場・駐車場有と記載されています。
戸田川越荘は格安で宿泊できる市民保養施設として1977年にオープンしました
が、後年赤字となり建物の老朽化も進んだことにより1996年に営業を終えました。
現在は売却されたもののそのままになっているようで、沼津市エリアのロケ地支
援の候補物件のひとつになっているようです。
↓駿河湾沼津FC「ハリプロ映像協会」の紹介頁↓
戸田川越荘を利用したことはありませんでしたが、戸田へは一度行ったことがあります。高校生のときに修善寺と戸田の間にある達磨山(だるま山高原)へキャンプに行き、バスで戸田へ行き松林の入江で海水浴を楽しんだことがありました。キャンプ場へ戻ってから夕飯の材料が足らないことに気づいてバスで再度戸田まで往復したり、台風の直撃を受けて暴風雨で揺れるバンガローの中でまんじりとせずに一夜を明かしたのも今では懐かしい思い出です。
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川越尋常高等小学校(現在の川越小学校)の先生宛に送られたもので、
写真の裏面に数人の生徒への短い文がしたためられています。
「○○さんへ おたよりありがとうございます。げんきで軍教につとめて
います。ごあんしんください。」
生徒たちが兵隊さんにに慰問の作文を書いて送ったようです。兵隊さんは
おそらくは先生のかつての教え子なのでしょう。封筒裏に「8.26」と書か
れてるのは日付と思われますが、年度は不明です。川越市内の尋常小学校が
「国民学校」と改称したのは昭和16年4月ですから、それ以前とも考えられ
ますが断定はできません。
兵隊さんのその後の消息は不明ですが、先生が戦後もずっと大切に保管し
ておいた便りなのです。先生は20年ほど前に亡くなりました。
裏面に「南部 三亜港」とペン書きされています。
三亜港は中国海南省雲州半島の南にある海南島最大の港です。
写真はお土産として販売されていもののようです。
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終戦70年ということで、川越市に関する戦争資料(図面の一部)をご紹介。
「川越野戦予備病院第一班第一半部開設要図」
孔版刷りの要図解説によれば、独立第一師団が上陸した横浜付近にチフスが発
生し防疫を尽くしたが、川越市まで前進した軽重部隊(約三千名)の約百名にチフ
スの症状が現れ、その後も増加する恐れが発生。師団軍医部長は急遽川越市の川
越中学校(現県立川越高等学校)に野戦予備病院第一班第一半部を開設することを
決定したとある。
この要図は数年前に存在を確認し、以来裏付けとなる資料が無いものかと探し
てみたが残念ながらこれまでになにも見つからなかった。川越高校の「百周年記
念誌くすの木」の年表などを見たが該当する記述はなかった。
要図解説には日付はあるものの年度の記載は無い。有事を想定して作成された
ものではないかと推定したりしてみるが、いずれにしろ詳細は不明である。
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