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相模家の久美子でございます。モダンな名前でございましょう。とても気に入っていますのよ。本名ですか?・・・あらやだ旦那、聞くだけ野暮ってものですわ。
川越も春と秋に赤松園の競馬が開かれるようになって、あちらこちらから人が繰り出してきて、それはもうにぎわいますけど、川越花街の評判はいまひとつのようで・・なにしろ北部遊園地には若い妓が4人しかおりませんし・・勝っても負けても楽しい川越の夜ですのに、みなさん大宮・坂戸・飯能なんぞへ流れてしまってとても悔しいですわ。秩父も所沢も中央の有名な先生に頼んで、粋な小唄を作って宣伝が盛んですし、ぜひ川越も奮起してにぎやかになってほしいものですわ。(昭和5年春)
*相模家・・・戦前の川越にあった。
*赤松園の競馬・・・現在の今成・石原町あたりにあった競馬場
*北部遊園地・・・現在の宮下町・志多町あたりには大正末期まで芸妓置屋と待合茶屋が点在していた。
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川越の資料
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(イメージ画像・本文とは関係ありません)
■明治の川越事件帖
消えた女ふたり
明治中頃の川越の町におきた出来事。妻子ある生糸商の男が、料理店で働く若き女と情を通じ、これを本妻に納得させた上で自宅に住まわせた。男はふたりの女の間に緊張の場面が生じることを懸念したが、驚いたことにはじめて会ったその日から本妻と妾は姉妹のごとく打ち解けてしまった。
仲のよさは近所でも評判となり、ふたりを褒め称える者もでるほどであった。ところがある晩に本妻と妾は手をとるようにして逐電してしまったのである。
驚いた男は、妻の実家である目抜き通りの呉服店を訪ねたのはもちろんのこと、店の手代を妾の実家のある東京へ遣わせたりもしたが、一向に消息はつかめず、藁にもすがる思いで警察へ届け出たという。
当時の新聞記事になった珍事件だが、その後の経過は不明である。
●参考資料
朝日新聞100年の記事に見る⑤奇談珍談巷談 上 朝日新聞社 1979年
*この本には新聞記事のままで紹介されています
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昭和17年頃に東武東上線川越・川越市間の線路上から撮影した写真で、川越市駅方向を望んだもの。ここは西武線を跨ぐために築堤になっており、当時は周囲に建物もほとんど無かった。
この写真は「車窓の日本・関東の巻(昭和17年)」の川越線の項に掲載されたもので、戦時下の粗悪な紙質のため印刷も不鮮明なのだが、画像右手にニョキッと高層建築があるのがわかると思う。日清製粉川越工場の建物である。
至近で撮影したものがこちら
日清製粉川越工場は、大正8年に創立された武蔵製粉が前身。製品運搬の便を考えて川越町駅(現川越市駅)と川越駅(現本川越駅)の間に、工場敷地が確保された。
まず本社建物が建てられて、武蔵水電に間借りしていた本社機能を移した。工場建物は念入りの設計がされて、地元川越の印藤順三造が請負落札し、大正8年暮に着工、翌年に5階建て工場が落成した。
上の写真は川越商工名鑑(昭和27年)の広告頁に掲載されたものだが、撮影は戦前の可能性がある。戦前の川越には高層建築はほとんど無く、昭和10年代でも第八十五銀行(現埼玉りそな銀行川越支店)・川越貯蓄銀行(現存せず)・山吉デパートくらいで、いずれも3階建てであったから、日清製粉工場は川越でいちばん高い建物だったのではないだろうか。
この建物が壊された時期は不明だが、昭和40年代にはもう無かったようである。
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