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「関東任侠新聞」・・・なんともキリリ?としたタイトル。 この新聞、歴とした川越の新聞なのです。 発行されていたのは昭和のはじめ。 新聞はわずか4ページ。内容は大半が川越地方の記事に割かれ、スポンサー広告が満載です。ローカル新聞に多い大げさなスポンサーよいしょ記事もあり、今日資料として参考にするのには慎重さが必要かもしれません。 画像の号は昭和4年発行。毎月一回25日の発行でした。 発行者は「刑務所秘話 駄々子感想録」という分厚い珍本も著しています。 戦前の川越には大手新聞社の支局や通信部が置かれ、地元ローカルの新聞も多く発行されていました。ほとんどは個人の発行によるもので、ガリ版刷りのお粗末なものもありました。 その中でも、この関東任侠新聞は意表をついたタイトルで異色の存在かもしれません。 |
川越の資料
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■日光修学旅行の栞 昭和9年に川越尋常高等小学校(現第一小)の生徒が、日光へ修学旅行へ行ったときの栞です。携行に便利な折畳み式です。 一泊二日の行程で、朝5時半に川越久保町駅集合で、日光馬返着が正午。華厳の滝と中禅寺湖を見学して老舗つたや旅館に宿泊です。 二日目は朝6時半に宿を出発。起床は5時くらいだったんでしょうか。昔の修学旅行はけっこう強行軍だったようです。神橋・東照宮などを見学して、午後1時すぎには帰途に着き、大宮からチンチン電車で川越久保町駅に5時着となっています。 おもしろいのは注意事項の箇所。 「朝起きたら神様や仏様に無事を祈って出発すること」 「くだらぬ歌を歌わぬこと(車中で)」 「乗り過ごしたらあわてず駅員に聞いて次の汽車で戻ること」 「ものを食べてばかりいないこと」 「川越に帰ったら早く帰宅して家人を安心させること」 などなど。 「宿屋では静粛にし、早く寝ること」ともありますが・・・ 楽しい修学旅行ですもん。無理だったことでしょう。 ちなみに私の小学校の修学旅行先は「箱根」でした。行きには鎌倉、帰りには富士急ハイランドへ寄りました。当時、市内の他の小学校は「日光」だったはずです。 日光は日帰り遠足で行きましたね。東照宮で外人観光客に友人らと写真を撮られた記憶があります。その後は中学の林間学校(中禅寺湖畔)・大学サークル合宿で行きましたが、以来すっかりご無沙汰になっています。
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■昔日の川越風景 11日のブログ記事「ここはどこの?・・細道じゃ」で『他に川越のエハガキがあったら紹介を』とのコメントをいただきましたので、資料用に複写させてもらっていた数枚を、所蔵者の許可を得てここに掲載します。 現在の仲町の通りです。西から東を望んだもので、右中央に見える洋館が昭和3年建築の武州銀行川越支店(現川越商工会議所)です。突き当たりに松江町の教会が小さく写っているのがわかるでしょうか? 左の荷車のあるところが松崎スポーツ店で、当時は砂糖商でした。女児二人の背後が現在の仲町交差点になります。当時はまだ中央通りが無くて、ここは市内最大のT字路でした。右端の自動車は松山行きの乗合自動車で、ここが発着場だったようです。この頃の川越はバス会社の発着所が市内各所に分散していてたいへん不便でした。 画像ではわかりづらいのですが、現在亀屋菓子舗の駐車場となっている仲町交差点角地は、この当時は川越郵便局です。 撮影位置の左あたりに、このエハガキを発行した早川アサヒ堂がありました。 旧市役所の位置から見た市中心部です。手前の瓦屋根は松村旅館。中央の洋館は川越演芸館(現スカラ座)で、大正10年に開館。一時期は東京の映画会社の直営でした。 演芸館の向こうに時の鐘。その左方に第八十五銀行(現埼玉りそな銀行)の洋館と、大きい土蔵が数棟見えます。演芸館左隣に現在ある太陽軒の建物がありません。昭和4年頃の建築だそうですが、上掲の昭和3年建築の武州銀行が写った志義町通りのエハガキと同時期の撮影だとすれば、このエハガキの撮影時期のおよその推定ができます。 川越城富士見櫓跡の土塁を写したものです。石段は現在と変らずですね。明治期の頃はまだ少なかった樹木がだいぶ増えていますが、現在は櫓跡を覆って見事な森となっています。伐採せずに大切にしたいものです。 荒涼とした冬の情景のようです。撮影位置が特定できませんが、沼の対岸に見える樹木が薬師神社であるとすれば、東南沼端地区あたりから北を望んだ景色になります。 他にも喜多院や氷川神社のエハガキがあったのですが、これは複写しませんでした。また機会があったら紹介しますね。
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昭和はじめ頃の川越風景をポストカード(エハガキ)にしたものを、市内の旧家で見せていただきました。 町並み・市役所・喜多院・女学校などで構成され、戦前に袋入りのセットで市内の書店で販売されていたものです。亡くなったこのお宅のおじいさんが大事に所蔵していたものだそうです。 その中に不思議な一枚を発見しました。 ↓↓これです。 キャプションに『(川越名所)縣社三芳野神社』とありますが、どう見ても三芳野神社じゃありません。街路樹の通りと家並みの写真ですが、当時の川越の町並みでもありません。 ルーペで隅々まで見ましたが、看板などもなくここがどこであるかの情報は皆無。左角の洋館は玄関前にポストがあることから、郵便局である可能性があります。郵便局は戦前のポストカードの画題によくなりました。その向こうにバルコニーを持った洋館があり、背後に市街地が広がっています。街路樹には葉が繁り、往来を行く人々はカンカン帽に白い背広姿が多いことから、夏の情景と思われます。 発行元は早川アサヒ堂。現在の川越市仲町NTT付近にあった書店です。宛名面の切手を貼る位置に東京のポストカード製作会社のマークが入っていることから、ここが注文を受けて製作したと推定されます。製作過程でこのようなミスプリントが発生したのじゃないかと思うのですが、不思議なのはこれが三芳野神社としてそのまま販売されたこと。 そして、ここに写された町は本当はどこの町なのでしょう。
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新年早々、ストリップの話題でございます。 終戦直後に新宿帝都座で始まった「額縁ショー」なるものは、その名の通り額縁の中に裸女がじっとしてるのを鑑賞するという趣向。動いたらその筋からお咎めを頂戴したそうです。しかし、すぐに規制は緩和されて踊ることなどが可能となり、またたく間に大衆娯楽として全国に広まりました。 このストリップ、川越にもやってきました。場所は立門前の鶴川座。この頃の映画館は、映画だけでなく歌謡ショーなどの実演がたくさん興行されました。 「おーい楠の木よ 川越高校第三期生・還暦の文集(平成6年)」を開くと、幸運にもストリップショーを堪能したという思い出話が出ています。踊り子の立つ位置に、スポットライトが当てられているだけで場内は真っ暗。少しでも明るくするため?にみんなが煙草を吸うためケムリモウモウ。そんな努力の中、登場した踊り子は30秒も踊らぬうちに、ハラリと胸を覆った布切れを落としてサッサッと退場。ほんのチラ見せでも観客のみなさん怒らなかったそうです。 さて、映画「カルメン故郷に帰る」は川越にストリップが来た頃の、昭和26年公開の松竹映画。国産フィルム使用の日本映画最初の「総天然色映画(カラー)」として映画史に残る作品です。監督は「二十四の瞳」などで知られる木下恵介。 ちょっと頭の足らないストリッパー(高峰秀子)が、信州浅間山麓の故郷に凱旋し、芸術家気取りでストリップショーを開催するという喜劇映画。もう一人のストリッパー(小林トシ子)と快晴の高原で踊り歩くと、放牧されている牛や馬が後を付いて来る牧歌的なシーンがあったのを覚えています。 高峰秀子と小林トシ子が、満員の村人の前で艶やかに踊るシーンがyuutubeにあったのでご紹介。4分間ありますが最後の1分が笑えます。もちろん18禁じゃありませんのでご安心のほどを。最初に登場するのが小林トシ子、あとからが高峰秀子です。 裸ダンス <Strip Show> 川越には昭和40年頃に「川越ミュージックホール」というストリップ劇場もありました。場所は鶴川座と同じ立門前。当時この界隈は映画館や飲食店が多くありました。
覚えている方も大勢おられると思います。お堅い仕事をしている知人の方が「よく覚えている、懐かしいねぇ」と言っていたことがあるので、いつかしっかり洗いざらい話していただこうと思っています(笑) ↑当時のチラシです。あられもない姿のおねえさんが写っているので全部お見せできません。俳優小沢昭一が、著書の中でこの川越ミュージックホールに触れているそうですが、残念ながらまだ読んだことがないのです。 |


