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■大日本職業別明細図 最新川越市街地図 昭和7年
「大日本職業別明細図」は、大正初年頃から昭和30年代頃まで東京交通社によって発行されていた地図です。官公庁・会社・工場・商店・寺社・名所旧跡等を記載した案内図で、全国の市町村を対象に作成販売されていました。商店・会社はすべてを記載しているわけでなく、発行時にスポンサーを募って協賛してくたれたところを載せたようです。
主要都市は単独での作成が多かったようですが、多くは複数の市町村を一枚に載せていました。川越版は戦前に四種、戦後に一種の発行が確認されています。川越版も所沢や飯能など周辺町村と一緒に掲載されていて、秩父地域や東京成増などが載った版もあります。その中で昭和7年発行のものは川越市単独で作成された珍しいものです。浦和や大宮の単独版は今のところ見たことがないので、埼玉県で単独発行されたのはこの川越版だけかもしれません。
すべての会社商店が記載されているわけでは無いので、たとえば業種構成を調べて商店街の成熟度を調べたりすることは不可能なのですが、当時どこにどんな店があったかなどを見るにはたいへん貴重な資料です。ただし縮尺がいい加減なため、商店位置などが正確でない可能性が高く、そのあたりのことは別の資料などで裏づけを取らないとだめでしょう。
上の画像は左が地図の袋、右が地図本体(一部)です。裏面は掲載商店なとが業種別に一覧できるようになってます。
地図の一部分を掲載してみました。現在の川越駅周辺です。JR川越線はまだ開通しておらず、東武東上線のみです。駅名は「川越西町駅」でした。所沢街道がまだ駅校内脇を抜けて、現在のクレアモールにつながっています。かつては西町と呼ばれたクレアモールに、懐かしい「鳩の湯」があります。現在のクレアパークの位置です。その左には今もある大橋歯科医院。ビルになるまでは平屋の洒落た洋館でした。
この頃の川越駅西口側に改札はなく、駅前は高い塀に囲われた少年刑務所でした。また左寄りの「養蚕取締支所」はのちに川越警察署と地方庁舎になる位置です。
同じ大日本職業別明細図の「広島市(昭和14年)」と「鹿児島市(昭和31年)」の表紙です。両方とも当時のものですが、このような地図は今日ではなかなか残っていないようです。資料性が高いため、近年は復刻されたりもしているようで、プログ記事を書くにあたって検索していたら、この昭和14年版広島市の地図は、つい先頃市内の書店が復刻版を発行したとの記事がありました。戦災前の広島を伝えるだけにやはり貴重なのでしよう。
なぉこのような地図は、東京交通社の他に、地域の書店や出版社などが独自に製作したものもあり、戦前の埼玉県においては川口・浦和・所沢・忍(行田)・鴻巣・熊谷などに大型で精密な商工地図が存在します。 |
川越の資料
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■爆撃の記録
この地図は、戦後まもなくに全国主要都市の戦災罹災状況を調査した資料の付図(掲載画像は一部)です。付図のみのため正式な資料名は不明です。
地図内の赤色数字が印されたところが被害を受けた箇所ですが、爆弾を投下されたようです。
▲赤色数字1 「東武東上線川越駅」
付図下段に赤枠で記された概略によると、昭和20年6月3日に爆弾投下され駅ホーム屋根に被害が出たとあます。死傷者はナシとあるのですが、川越市史などには乗客が死亡との記述があります。
▲赤色数字2 「川越少年刑務所」
現在の川越駅西口前には明治に移転してきた少年刑務所がありました。爆撃は昭和20年8月13日で、官舎が焼失し負傷者が出たとあります。軍需工場に間違われたのでしょうか?
川越は空襲こそ免れましたが、爆弾投下などはずいぶんあったようで、たとえば川越高校第三期生還暦の文集「おーぃ楠の木よ(平成6年)」を読むと、市内各所で米軍機による機銃掃射を受けた文章がいくつかあります。
私の自宅からわずか100メートルの畑地に爆弾が落ちたと、今でも父親は言います。当時近くに軍需工場があったので狙われたのかもしれません。郊外でしたが自宅庭には緊急に備えて防空壕もありました。農家ではありませんでしたが、兵隊にとられて耕し手が不在となった親類の畑を耕していたと言いますから、自宅で食べる蔬菜類には困らなかったようです。東京からの買出し客が大勢やってきたそうです。主食などは配給でしたが、酒の配給所がなぜか至近の酒店でなく、何キロも離れた市内の酒店が指定され、小学生だった父親は遠い道のりを歩いて往復したそうです。
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先月発行された、川越市立博物館「博物館だより第63号」に掲載されている「同盟通信社川越分室について(鳥居英晴氏)」は、最近読んだ文献の中でもたいへん興味深く夢中で読んだ。
戦時中に同盟通信社が川越の商業学校(現在の川越市立博物館の位置にあった)に疎開し、ここで原爆投下声明やポツダム宣言などの重要な外電を最初に受信したのである。しばらく前に新聞や広報紙などに簡単な記事が出ていたのを読んでいたが、博物館だよりにはより詳しく当時のことが書かれている。
戦争末期の日本の運命を左右した様々な外電が川越で受信されたことに驚くが、それよりも著者の地道な調査によって不明だった数々の事柄が明らかにされていく過程にとても惹かれた。60年以上も前のこと、ましてや戦時中ことを調べるのは容易でないと察する。人のおぼろげな記憶をたどり、裏づけをとって事実を確認していくことは苦労の連続である。同盟通信社川越分室についてはまだまだ不明な点が多くあるとのことだが、これから先少しでも解明がすすむことを祈りたい。
博物館だよりは市立博物館等で無料配布されているので興味をもたれた方はぜひ。
▲同盟通信社川越分室があった川越商業学校跡(現川越市立博物館) 今日は広島の原爆記念日。
いにしえの広島の写真をご紹介。
【原爆投下後の広島】
▲原爆ドーム
▲被爆前の原爆ドーム(産業奨励館)
▲原爆投下後の広島市(流川教会付近)
*昭和20年代に広島土産として販売されたエハガキ「原爆記録写真 高級原色版 平和都広島」より
【大正末期ー昭和初期の広島】
▲広島停車場(右の建物) 大正11年建築の鉄筋コンクリート駅舎 左の建物は郵便局
▲広島の繁華街新天地 突き当たりは「泰平館」 左手の大屋根は「新天座」 大正期以降に発展したところ
▲広島県商品陳列所(産業奨励館となるのは戦時中) 大正時代の展覧会で日本ではじめてバウムクーヘンが製造販売されたところ。
▲広島城天守閣(原爆で倒壊)
*広島土産として販売されたエハガキ「広島名所」より。広島□○堂発行。
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■埼玉で最初の路線バス?
越生町にあった西武自動車株式会社「時間及賃金表」です。地元有志によって設立され、大正2年10月に越生と川越を結ぶ乗合自動車(路線バス)を開業しました。バスといっても現在のものとは大違いで、せいぜい6人くらいが乗れる自動車でした。小型二つ折りの時間表は、ひらくと運賃と時刻が掲載されています。越生ー川越間1日6往復の運行で、注意書きに東京上野で開催されていた大正博覧会に合わせた改正とあることから、博覧会見物客の便宜を図ったものなのでしょう。
運行ルートは越生ー毛呂ー坂戸ー鯨井(現川越市内)ー川越でした。川越でのバス終点位置は不明です。乗客の要望があれば電車駅(川越電車久保町駅)まで延長運転したそうなので、町中心部か川越停車場(現本川越駅)だったのではないでしょうか。この会社はいつまで存続したのかは不明です。大正5年の営業報告書を見ると経営内容は苦しかったようです。大正5年当時は3台の車を所有していました。
「越生の歴史近代編(2000年)」には、越生自動車設立よりもわずかに早く川越町で、自動車会社設立の動きがあり、川越ー東京間の乗合自動車路線が認可されたものの本当に運行されたか不明であり、また埼玉県最初のバス路線は大正5年が最初とされているが、編纂時点ではこの越生ー川越間が最古の路線バスであると締め括ってあります。
「埼玉事始(東京新聞浦和支局/さきたま出版会/1987年)」には、埼玉県最初の路線バスは大正5年の鳩ヶ谷ー川口間だといわれているとあります。ただしこのことに関して確証となる資料はないと述べた上で「バス事業は各社が合併を繰り返しているので確かなことは・・」との埼玉陸運事務所のコメントを掲載してあるのですが、現在[埼玉県公式HPhttp://www.pref.saitama.lg.jp/site/bus-rekisi]では、鳩ヶ谷ー川口間が埼玉県最初の路線バスだと紹介されています。
【参考資料】
越生の歴史近代編 2000年
西武自動車営業報告書 大正5年
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■昔からずっと
三菱東京UFJ銀行川越支店もかつては違う場所にありました。
その場所はこちら↓
川越市元町の札ノ辻交差点。右側角のポケットパークにもなっている吉野屋肉店のところが、かつて銀行のあった場所です。ここは戦前は上州屋という箪笥屋で、川越の特産品だった箪笥や耐火金庫を販売していました。角地いっばいに洋風二階建ての店舗を構えていましたが、そのあとが三和銀行川越支店となったのです。
支店開業は昭和20年11月。終戦直後です。いわゆる都市銀行で川越に支店をだした最初だと思われます。混乱の時期に川越に支店を出した理由はなんだろう?と、以前三和銀行史を調べたことがあるのですがわかりませんでした。三和の前身である鴻池銀行は川越の有力旧家とも取引をしていたようなので、ひょっとしたらその関係があったかもしれません。
昭和32年当時の広告
札ノ辻時代の店舗(川越市制三十年誌より)
昭和40年に本川越駅前に移転するまで20年間使用されました。
移転後はきれいに改装されて肉店となり、昭和の終わり頃まであっ
たと思います。 |



