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■川越 昔の映画チラシ
昭和初年の川越には、映画館「鶴川座」「演芸館」と劇場「舞鶴館」がありました。しばらく前に戦前の演芸館と舞鶴館のチラシを10数枚見る機会があったのですが、よくぞ今まで残っていたものと驚嘆しました。
上画像はその一枚で「演芸館」のものです。市役所そばの路地にある「川越スカラ座」の前身が「演芸館」です。大正10年に株式組織で発足した映画館でした。
チラシに掲載されている映画はいずれも大正15年に東京で公開されていて、川越での公開は翌昭和2年だったようです。阪東妻三郎主演「乱闘の巷」はバンツマ二役の時代劇で、この作品現在も15分ほどフィルムが残っていて、時折上映されてるようです。もちろん無声映画。画像では読みにくいですが「神山華翠独演」とあります。神山華翠は当時の川越映画界で鳴らした弁士。「乱闘の巷」は上映番組の目玉だっため、彼が受け持ったのでしょう。のちに演芸館の経営にも携わり、戦後は市議会議員になって多くの役職を勤めた人でした。
当時の演芸館は洋風2階建て建築で、2階席もあったそうです。
「乱闘の巷」の阪東妻三郎(ブロマイド)
田村正和の父上ですね。
「悩ましき頃」とは別の作品のブロマイドから松井千枝子(左)
右は八雲恵美子
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川越の資料
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■昭和11年 川越市各駅発電車乗合自動車時間表
昭和11年に新聞販売組合がスポンサーを募って製作した時間表です。大きさはA3サイズの厚紙。
色刷り印刷で見やすい作りです。こういう時間表は今でも地方などへ行くと、旅館の帳場や食堂の壁に見かけることがありますね。川越でもたまに製作されて新聞の折込に入ってくることがあります。
東上線川越市駅・同川越西町駅(現川越駅)・西武線川越駅(現本川越駅)・西武大宮線久保町駅(現廃止)の発車時刻と、川越から四方に路線を持つ乗合自動車の時刻が掲載されています。
時間表から西武線の部分をピックアップしてみます。
現在の西武新宿線本川越駅です。昭和2年に東村山から高田馬場に至る新線が開通して、川越ー高田馬場間の電化とあわせて直通運転が開始されました。それから10年あまりを経ていますが、電車本数に変化はなくほぼ終日48分毎の発車でした。48分毎では一本逃すとツライですね。私が高校生の頃は日中20分毎運転でしたが、それでも間隔が長くて不便に感じたものです。
国分寺線があるのに「東村山より自動車で国分寺連絡」とあるのは、国分寺線が未電化で本数が極端に少なかったためなのでしょう。
当時の終点は高田馬場で、西武新宿まで延伸されたのは戦後のことです。
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■川越中学校生徒の伊豆大島旅行記念写真
昭和10年頃の川越中学校(現川越高校)の伊豆大島旅行の写真。撮影場所は三原山。
昭和初年に東京ー大島の定期航路ができ、流行歌「波浮の港」のヒットなどで一躍観光のメッカとなった。
肩掛けカバン・白いゲートル姿に時代を感じる。おそらく東京を夜行の船で出航し、早朝に大島に着いたのでは ないだろうか。
この頃の大島には次のような遊具施設があった。
三原山滑走場のスライダー。
左のリーフレットによれば、世界最初の施設として作られたもので、外輪山頂上から敷設された約900メートルのレールを、制動機付き滑走機(スライダー)でスリルを味わいながら颯爽と降りるとのこと。滑走時間は2分ほど。
川中生たちもこれを見たのだろうか。旅行は鍛錬の意味もあっただろうから、おそらく乗りはしなかったに違いない。
昭和10年代の噴火などによって、この施設は戦争前には無くなってしまったらしい。
リーフレットのモデル女性は女優の竹久千恵子。東宝映画の前身PCLで活躍した人。国際結婚をして渡米したが、戦争がはじまって市民権が取得できず単身送還されてしまった。
軍馬として育てられる馬と娘のふれあいを描いた高峰秀子主演「馬(山本嘉次郎監督/昭和16年)」に母親役で出ていたのを観たことがある。 |
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▲2012年 ▼1965年前後
参考資料用に戴いた写真です。撮影者は不明。
1965年(昭和40年)前後撮影と推定される川越一番街の写真です。フカゼンさんの看板は今も昔も変らないですね。理容店銀巴里のところは、これより以前昭和30年頃の写真を見ると「サエグサ糸店」になっています。銀巴里の隣が太陽堂書店、自慢焼き富士屋と続くのは今と同じ。でも富士屋さんがこの当時「北京風中華料理」の看板を掲げています。現在秩父味噌店になっているところが建材会社。蔵造り資料館はこの当時すでに空家だったのでしょうか。
このころは西町商店街(現クレアモール)がにぎやかになりだしていて、一番街はどこか閑散とした雰囲気が漂っています。 |
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■豆腐屋の源さん
「婦人子供報知」は、昭和初年の報知新聞日曜版の附録です。附録といえどもA4サイズで40頁弱のりっぱな冊子。題名からもわかるように、クイズ・皇室の話題・家庭医学・芸能・漫画など婦人子供向けの内容で、価格は月々の新聞代に含まれていました。「のらくろ」で有名な田河水泡「蛸の八っちゃん」が連載されています。
この雑誌に川越の話題が出ています。
「事実美談 源さんの講談孝行」という話
川越の町外れに源さんという若い男が盲目の母親と暮らしていた。母親の楽しみは源さんに講談本を読み聞かせてもらうこと。毎晩大きい声で読むので近所でも評判になっていた。しかし日雇い職ゆえ、毎日の米にも不自由する生活だった。
ある日、川越猪鼻町の豆腐商美濃屋の主人が尋ねてきて、母親とともに住み込みで働かないかと言ってきた。主人はたまたま通りかかって講談本を読む源さんの声を聞き、自身も講談好きだったことから毎晩こっそり聞いて楽しんでいたのだが、母子の窮状を知って手を差し伸べたのである。源さんは美濃屋で七年間懸命に働いて独立し、川越でも指折りの豆腐屋になった。また母親が亡くなるまで27年間にわたって講談本を読み聞かせたことから、昭和4年に文部省から表彰された。
講談本とは政談や戦記物など、主に歴史に関する内容を本にしたもの。たしか川端康成「伊豆の踊子」で踊子が講談本を読んでくれとせがむ場面があったと思います(映画のシーンだったかもしれません・・)
このとき源さんが母親に読んでいたのは「義士銘々傳」で堀江安兵衛の高田馬場の決闘です。
この話は明治36年5月のこと。同35年発行の「埼玉県営業便覧」で調べてみると、猪鼻町通りに「生糸繭製茶豆腐商 美濃屋 峰岸傳吉」がありました。本文では名前が儀助となっているのですが、仮名を用いたのでしょうか。
かつて猪鼻町の名称だったあたり。現在の大正浪漫夢通りです。「埼玉県営業便覧」の位置情報が正確であれば、豆腐商美濃屋は左のシャッターをおろした空き店舗のところになります。昭和10年頃の案内図では所有者が変わって履物店になっていました。近年までは萬花堂化粧品店だったと思います。
そして源さんの豆腐店はどこかというと・・これがわかりません。源さんの本名も掲載されているので、昭和初年の川越商工名人録をたぐってみたのですが、該当はありませんでした。もしかしすると仮名なのかもしれませんが・・
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