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■川越最初の電話番号簿
川越に電話が開通したのは明治37年(1904)のことで、志義町(現仲町)にあった川越郵便局内に設置された官設の電話所である。電話をかけられる範囲は東京と近県のみで、この電話所へ来てかけなければならず不便なものだった。
「特設電話」は、電話の加入権や維持にかかる費用を加入者が負担する制度で、川越では明治41年(1908)に第一回の募集が行われ97名が加入した。これによって自宅から容易に電話がかけられるようになったが、当時は電話交換室へかけて相手先へ繋いでもらう仕組み。朝に申し込んでも通じるのは夕方だったり、混んでいると終日繋がらなかったそうである。この仕組みは川越では昭和30年代まで続いたという。
余談だが昭和43年(1968)公開の映画「濡れた二人(増村保造監督/大映)」には、ヒロイン若尾文子が旅先の伊豆から東京への電話を頼むシーンがある。ダイヤルを回さずに送話器を取ると交換手が出るので「東京○○番」と言い一旦置く。しばらくして通じると電話が鳴る仕組み。昭和40年代でも地域によっては交換式だったようである。
さて画像は川越に特設電話が敷設された記念に発行された「川越電話便覧」という冊子。第一回と第二回のもので、手帳サイズ40頁ほど。
特設電話架設までの沿革、特設電話規約。川越名所写真、川越市街図、汽車電車時刻表、加入者氏名電話番号一覧などの多彩な内容である。番号一覧を見ると、0番と1番は当然のごとく電話業務を行っていた川越郵便局。役場は111番。商業会議所が100番。110番もあってこれは松江町の商家にあてがわれている。
川越から電話のかけられる地域は、東京・横浜・川口・浦和・大宮・熊谷・高崎・前橋・足利・八王子・甲府などで機業地が多い。
この特設電話開通は県庁所在地浦和より2年早かった。
川越の町を歩いていると、今も軒先などに当時の電話番号を掲げた家を見ることができる。
そのいくつかをご紹介。
▲一番街で。 陶器製らしい。白地に黒でシンプルわかりやすい。
▲キリのいい300番。おそらく大正期に架設したのだろう。
残念ながらここのお宅は「売り家」になっている。
▲幸町の中成堂歯科。これは復刻版らしい
▲これは喜多院 昭和初年くらいのものだろうか?
まだ他にもどこかで見かけたように思うのだが・・・・・・・
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川越の資料
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コメント(4)
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17日の川越駅前
東日本を襲った震災から11日で一年がたちました。地震発生時、自宅の空き部屋の壁にかけてあった複製画を入れた額が、縁を残して中身が落下したのですが、じつは今もそのままにしてあります。地震を忘れないためなどの強い気持ちからではなく、なんとなく片付ける気にならないのです。なぜだろう?と自問自答してみるのですがわからないのです。震災直後半月ほどは電車に乗ると、春の暖かい陽射しが差す中、誰もが黙りこくってどんよりとした雰囲気が漂っていましたけど、静かな空き部屋に入ると、あの時の電車内の雰囲気をよく思い出します。
さて、今日3月17日は、明治26年の同日に川越の中心街が焦土と化した「川越大火」が起きた日です。昭和初年に小学生だった方がお祖父さんから聞いた話では、自宅のあった志義町(今の仲町・商工会議所があるあたり)から喜多院が間近に見えたそうです。
各地からたくさんの義捐金が集まりました。
これは当時の義捐金名簿です。県南の講中団
体の人々たちの救援の記録です。
天皇皇后両陛下からもお見舞金があり、その一部で再建された時の鐘は、太平洋戦争時に鐘の供出を免れた話は有名ですが、各地の多くの人からの救援が、大火で途方に暮れる川越の人たちを力付けたのです。
でもやはり胡散臭い話はあったようで、義捐金の用途に関して町長が糾弾されたりしたようです。
しばらく前の新聞記事に、これまでに集まった東日本大震災への義捐金の総額が出ていましたけど、公平に大事に有意義につかってもらいたいものですね
川越大火を記録した写真は残されていないようですが、昔の火災の写真ということで大正2年に発生した東京神田の大火を伝える写真をアップしておきます。
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■はみだし
昭和18年7月1日に都制が施行されて「東京都」が発足しました。
この地図は同年8月に日本統制地図株式会社によって発行され
たものです。
東京全域を収めた地図なのですが、広げてみると・・・
上部にはみ出てなぜか「川越市」が掲載されています。お隣大宮はしっかりカットされているのに。
まぁ他愛ないことなんですが・・
この日本統制株式会社の地図はなかなか精密です。
川越市部分をアップしてみると
十四万分の一なんですが、ご覧のとおり、まあまあまきちんと道路が掲載されています。
昭和15年開通の川越線がなく、久保町からの西武大宮線がまだあって、競馬場の記載もあることから昭和10年代前半頃の実測だと思われます。
よく見ると伊佐沼も北部が埋め立てられる以前のようです。
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★真冬の特別企画・リクエストにお応えして★
■ありし日の川越風景 1976年と2012年の定点観測
1976年の川越画像を紹介した過去記事を読んだブロ友フーバー氏からの「他にも当時の写真があったらぜひ」とのリクエストにバッチリお応え特別企画です。
と言うものの・・1976年の写真はこれまでに何枚か紹介しているんですが、それがいったいいつで書庫のどこにあるかすっかり忘れているので、これから紹介する写真は重複しているかもしれません。その点ご了承くださいませ。特別企画ということで現在との対比にしました。
●川越一番街(蔵造りの通り)
まだ観光地化がスタートしていない川越一番街の情景です。川越の中心街としての地位を長く保ってきましたが、衰退の陰りが兆してきたのは昭和30年代前半頃からでしょうか。その頃一番街に進出した衣料チェーンの長崎屋は、短期間で西町通り(現クレアモール)へ移転してしまいます。1976年当時は蔵造りの町並みの保存をめぐっていろいろ模索していた時期だと思います。この年の秋に蔵造り資料館がオープン、前後して民芸品店も開業しましたが、町並みが整備されて観光客が増加するのはまだ先のことでした。
●立門前商店街
蓮馨寺の門前商店街として古くから繁華でした。1976年当時はまだ建物が連続して建ち並び、様々な地元相手の店がありました。中央アーチの「立門前通」の立の文字が欠落して、向こう側の「映」の文字が見えています。アーチ上部の赤いデザインは映画会社「大映」のマーク。昭和30年代はじめに開館した洋画専門館「川越セントラル劇場」は、ほどなく「川越大映」と改名。映画の斜陽で昭和40年代前半には閉館してしまいました。それから10年近く経っても、看板だけは残っていたようです。
●川越銀座通り(現大正浪漫夢通り)
太陽の光が当たっていたのか焼いたら赤みを帯びていました。その昔は「いのはな町」 「銀座通り」と改称されたのは戦後のアーケード設置のときなのでしょうか。埼玉県最初のアーケード街だったはずです。小学校の授業で使用した社会科副読本「かわごえ」に、昭和30年代頃の銀座通りの写真が掲載されていますが、大勢の人が行き交ってにぎやかです。
昨今は昭和レトロが持てはやされていますから、アーケード街のままであったらそういう意味で評価されたかもしれません。
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■80年代の川越タウン誌
1980年代に発行されていた川越のタウン誌「コミート川越」です。
本屋で見かけると買っていたので、15冊ほどが手元にありますが、創刊号を筆頭に欠号がかなりあります。
当時の川越が抱えていた様々な問題や、昔の町のことなど幅広い内容で、今となっては80年代の川越を知る ための資料になりつつあると思います。
バイト仲間の姉が表紙モデルを務めたり、幼馴染がインタビューに答えていたり、さらには自分の投稿も一回 だけ掲載されています。
「全国タウン誌ガイド1985年版(NTT発行)」を見たところ、コミート川越は1981年5月の創刊。
内容紹介のところに「毎号、地元ギャルが表紙モデルに登場」・・ギャル!笑
いつまで発行されたかは不明です。
別冊「マチと地図の大特集」 サンロード(現クレアモール)・新富町商店街から一番街に至るまで
主要通りの商店が詳細に記載されています。今となっては消えた店もたくさんあり、1983年当時の
川越の商店街の様子を記録していて貴重ですね。 |




