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GWは単なる週末でした。

澁澤龍彦

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画像1:Salvador Dalí  1904-1989
『Young Virgin Auto-Sodomized by Her Own Chastity』 1954

金髪の娘が幾何学的な四角い窓にもたれて、窓の向こうに広がる渺茫たる青い海を眺めている。
うしろ向きになって上半身をかがめた娘は、靴とストッキングを身につけただけの裸体であり、しかも、その形よく盛りあがった臀部と太腿とが、四本の犀の角によって構成されている。
ダリ一流の、ダブル・イメージの効果を伴った、まことにエロティックな若い女性の裸体像として、とくに私の愛好する作品がこれである。
中略。。。
この絵に付けた短いコメントのなかで、ダリは次のように述べている。
「犀の角は、あの純潔の象徴たる伝説の一角獣の角である。
この若い処女は、かつての騎士道的恋愛の時代におけるように、
この角にもたれ、角と道徳的にたわむれることができる。」
中略。。。
生まれつきのフェティッシュ愛好家であるダリは、若いころから松葉杖や柔らかい時計のようなイメージを、しばしば作品のなかに登場させてきたのであるが、一九五〇年代以後になって、十七世紀オランダの特異な画家、フェルメールに対する限りない敬愛の念が芽生えるとともに、犀の角が新たなフェティッシュとして、彼の世界に登場するようになったのである。
中略。。。
ダリの言によれば、
「犀の角は動物界においてただ一つ、完全な対数螺旋によって出来ている角」
だそうだ。
このダリの説が果たして正しいかどうか、動物学者ではない私には何とも断言いたしかねるが、少なくともこの対数螺旋なるものが、幾何学上の一つの理想的形態ともいうべき、完璧な美しさを具現したものであるということは容易に理解できる。
中略。。。
身体中、堅牢な甲冑に覆われたかのごとき犀という獣が、昔からヨーロッパ世界で、動物学的好奇心の的になっていたということも知っておいてもよいだろう。
デューラーが銅版画で描いた犀の絵は有名である。
「ルネサンスへ還れ」と主張していたダリが、ルネサンスの自然哲学を新しい目で見直すようになったとしても不思議はあるまい。
略。。。

画像2:Albrecht Dürer  1471-1528
『The Rhinoceros』 1515
「犀」はリスボン港でのサイの評判を現地にいた友人から伝え聞いた情報によって描かれたもので、デューラー自身はサイを目にしていない。
サイ自体はリスボンから教皇庁へ向かう途中、嵐に出会って、、、
南無。。。
By Wiki
実物と違うけど、又聞きでも完成度の高さ。
ほんで、ダリの『犀』と似てる。
画像3:『Rinoceronte vestido con puntillas』 1956


暗黒大陸って呼ばれたアフリカ。
猛獣を生け捕りにするのも大変だったろうに、
そういやぁ、ルーベンスもハンティング絵画を描いてた。
画像4&5:Peter Paul Rubens 1577-1640
『Hippopotamus and Crocodile Hunt』 1615-16
『Lion Hunt』 1621
ライオンの方は人が喰われてるけど臨場感がイマイチ、
ひぽぽたますは迫力っ!
西洋人のハント好きとか、トロフィに対する執着は、やっぱ狩猟民族ってコト?!

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画像1:Max Ernst 1891〜1976
『The Clothing of the Bride』 1940

略。。。
ここに掲げた「花嫁の衣裳」は、作者の発見になるデカルコマニーの技法を部分的に用いた、エルンスト中期の浪曼的な秀作である。
デカルコマニーとは、すべすべした非吸収性の紙や木の上に絵具を流してから、
これに紙をあてて軽く押しつけ、流動する絵具の拡散によって生じる偶然のフォルムを利用する技法でフロッタージュとともに、シュルレアリストの開拓した新しい技法の一つとされている。
デカルコマニーによって生ずるフォルムは、森林のような、侵食された岩石のような、
あるいは衣服の襞のような、ふしぎな幻想を宿す。
中略。。。
第二次大戦の危機はようやく切迫し、この年、エルンストは敵国人として強制収容所に収容される。
そうした不安感が、この絵のなかにも反映していると考えるべきであろうか。
しかし、私にいわせれば、エルンストの超現実的な絵画世界に、そうした現実の反映を故意に読みとるべきではあるまい。
ほぼ同じ時期に描かれた名高い「雨後のヨーロッパ」にもいえることだが、エルンストの無意識界からあふれ出てきたイメージの数々には、あらゆる合理的な解釈を拒否するような、ひたすら瞑想的な詩人のヴィジョンから胚胎したものがあるように感じられるからだ。
それは不吉な動乱の時代における一種の黙示録、一種の神話だとしかいいようがあるまい。
中略。。。
「私は自分の作品の誕生に観客として立ち会う」とエルンストは告白している。
イメージは向こうからやってくるのである。
俗流幻想画家のように、わざわざ苦心して謎めいた雰囲気をつくりあげるのでは決してないのである。
そもそも幻視者とは、こういう資質をもって生まれた画家にのみ、賦与すべき称号でなければなるまい。
「花嫁の衣裳」は、私にいわせれば、エロティックで、豪奢で、悲劇的で、しかも浪曼的色彩がきわめて濃厚で、いくら眺めても見飽きない傑作なのである。

画像2:『Europe After the Rain II』 1940-42

氏はデカルコマニー&フロッタージュに触れてる。
両技法とも、作者のコントロールが効かない。
偶然の産物の模様は、鑑賞者おのおの何に見えるか様々。
ほらっ、あれっ、ロールシャハで作成される模様が心理学で利用されてる。
作者すら意図しなかった模様を利用して芸術に昇華させるエルンストは、、、
お笑いマンガ道場に出演した漫画家みたい。
急にテーマ言われて、サクサク描けるってすんごいっ!

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画像1:James Ensor 1860−1949
Strange Mask

略。。。
私の考える幻想画家の条件の一つは、その時代の画壇のあらゆる傾向や流派から超然として孤立しながら、自分一個の内面からあふれ出る幻想に思うさま深く沈潜するという、きわめて強い気質的要素を示すということであるが、この点でも、生涯結婚せず、オステンデの町のアトリエだけでひっそりと暮らしたアンソールは、幻想画家の条件にぴったり適うようである。
アンソールは、一般に仮面と骸骨の画家として知られているが、あの中世末期のスイスに多く輩出した「虚栄」や「死を思え」の骸骨作家とはちがって、宗教的雰囲気はあまり感じさせない。
また仮面といっても、たとえばジャック・カロのそれのような、バロック演劇の舞台を思わせる、洗練された宮廷文化の雰囲気にむすびつくようなものは何もない。
そう、アンソールの仮面は、カーニバルの仮面なのである。
略。。。
ここに掲げたアンソールの「奇妙な仮面」の登場人物たちも、どうやらカーニヴァルの参加者たちであるらしい。
それにしても、何という奇怪なマスクだろう。
表情は表現派風にねじれ、ゆがみ、毒々しく彩色されて、まるで死の国からやってきた不吉な、嘲笑的な使者のようではあるまいか。
彼らは、おそらく善良なオステンデの町の市民なのであろうが、カーニヴァルの仮面によって、自分でも思いもよらなかった、亡霊じみた存在に化身してしまったらしいのである。
略。。。
ゴヤも、ジャック・カロも、ルドンも、ピアズレーも、ノルデも、それぞれ仮面をかぶった人物を作品のなかに登場せしめたが、そうした風俗に属する面ではなく、仮面にひそむもっとも怖ろしい面、あえていえば地獄に属する面を、憑かれたように描きつづけた特異な画家は、このジェイムス・アンソールただひとりであったにちがいない。
「これら仮面をつけた連中は、まことに騒々しく、身ぶり手ぶりに溢れるばかりであるが、
それでも彼らの陽気さは物悲しい。
生者というより幽霊に近い。
お化けのように、彼らの多くは、長い襞のある着物をまとって歩き、お化けのように、彼らの顔は見えないのだ。
ビードロと絹で凝固させた顔を取り巻く、あのゆったりした頭巾のなかに、吸血鬼がひそんでいないとは誰にも断言し得まい。
あの屍衣のように羽織った、だぶだぶのピエロ服の下には、空虚と虚無だけしかないのではあるまいか。」
右の文章は、十九世紀末の麻薬中毒のデカダン作家ジャン・ロランの短編集『仮面物語』の一説であるが、アンソールの絵の解説として、これ以上適切なものはないような気がする。
ロランもまた、仮面の恐ろしい魅力に憑かれた作家だったから、その秘密には精通していたのであろう。

仮面の魅力かぁ〜。
西洋の仮面の物語って言えば、
宮廷の仮面舞踏会で、黒死病の仮面をかぶった男が推参。
なんて悪趣味な男だろって、皆がヒソヒソ。
ぢつはホントの病人だったためにっ、皆が罹患。。。

日本の仮面のストーリーといえば、、、
肉付き不動。
能役者が不動明王を演じるために、仏像を盗んで御顔を剥ぎ能面を造る。
顔に能面を付けたら、密着して離れない。
無理矢理剥ぎ取り、面裏に血肉がべっとり。
面打ち師は己の全てを面にこめる。
役者は己が全てを面にこめる。
数々の舞台を経て数百年、面自体が生命を得る?
う〜ん、脱線。
付喪神的な話をしたいわけぢゃない。。。

月は程なく入汐の
煙満ち来る小松原
急ぐ心かまだ暮れぬ
日高の寺に着きにけり
思えばこの鐘
恨めしやとて
竜頭に手をかけ
飛ぶとぞ見えし
引き被きてぞ
失せにける
祈り祈られ
撞かねどこの鐘
響き出で
引かねどこの鐘
踊るとぞ見えし
程なく鐘楼に
引き上げたり
あれ見よ蛇体は
あらわれたり

やっぱ、『道成寺』だねぇ。
鐘が失われていた寺に鐘楼が建立。
鐘供養の日、一人の白拍子が出現。
業因縁の鐘の前で舞う。
白拍子は、山伏に恋焦がれ蛇体と化した娘の怨霊。
僧たちと怨霊との法力対決。
白拍子は鬼女に変化。
己が吐いた火炎に身を焦がし日高川に。。。

衣裳の三角形は鱗で呪の意味。
六角形(六芒星)にも見えなくもない。
豆卍も。
スピ的な幾何学文様を纏ってる。
画像2:近江女
画像3:般若
画像4:蛇
道成寺で使用される面。
んでもって、「蛇」は道成寺の専用面。
「般若」は耳があるけど、「蛇」は耳がない。
「般若」より鬼度が高いってコト。
まさに、怨霊。。。
悲恋?鬼女退治?
解釈様々。
でもなんだぁ、女性性の悲しさがヒシヒシ。
和製ホラーとして考えるならば、仮面は登場しないけど、
雨月物語の『浅茅が宿』が好み。。。

能面画像は以下より。
http://www.noh-kyogen.com/encyclopedia/mask/women.html
http://www.nohmask21.com/index_j.html
『雨月妖魅堂』雨月物語の現代語訳
http://mouryou.ifdef.jp/ugetsu/ugetsu.htm#yaku

子供達が手を離れたら、相方様と二人和服着て、
能or人形浄瑠璃でも行きたいなぁ。

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画像1:ZUCCHI, Jacopo 1542―1596
『The Coral Fishers』 1585

昭和二十七年五月、三島由紀夫氏はローマに滞在中、宿の近くのボルゲーゼ画廊を訪れ、このヤコポ・ツッキの小品にいたく心を動かされた形跡がある。
「なかでもツッキの『海の宝』は、ギュスタアヴ・モロオの筆触を思わせるものがあり、
前景では多くの裸婦が真珠や珊瑚を捧げ持ち、その背後には明るい海が描かれて、
無数の男女の遊泳者が、さまざまのきらびやかな宝を海から漁っているところである。」
(『アポロの杯』より)
ここで「海の宝」と呼ばれている作品は、むろん、「珊瑚採り」のことである。
三島氏は、ロココやマニエリムスの文学的な絵画が非常に好きだった。
セザンヌ以後の近代主義の純粋絵画を固執するあまり、文学的な絵画をとかく軽蔑する傾きのある日本の美術批評界には、
おそらく、こういう大胆な、自由な鑑賞態度を保ちえるひとはいまい。
もしかしたら、三島氏は、ヤコポ・ツッキという十六世紀のイタリアの画家について発言した、最初の日本人だったかもしれないのである。
日本の美術批評界にとって、これは決して名誉なことではあるまい。
中略。。。

たとえば、近ごろ我が国でも急激に再評価されている、江戸中期の伊藤若冲の「貝甲図」などと、
このツッキの「珊瑚採り」を比較してみるならばおもしろかろう。
マニエリスティックなアレゴリー絵画という面において、
この二人は、時代と風土とを飛び越えて、
明らかに精神的な血族だということが理解されよう。
中略。。。

画像2:伊藤若冲 1716-1800
『貝甲図』1765
目をみはる伊藤若冲の『動植綵絵』 By 狩野 博幸 よりスキャン。


氏は「アモルとプシュケ」を紹介し、ツッキの研究&再評価を期待して、
ペンを置く。

画像3:『Amor und Psyche』 1589

若冲が再評価され一般に知れ渡ったのは1990年代後半以降。
最近ではミュージシャンのMTVでも使用されるメジャーな画家。
氏が『幻想の肖像』を「婦人公論」の口絵解説として書いていたのは昭和45〜47(70〜72)年、
当時の若冲は『知る人ぞ知る画家』だった。
そんな無名に近い画家を取り上げる氏のセンスに脱帽。。。

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Burne-Jones, Sir Edward 1833-1898
『The Golden Stairs』 1876-1880

「黄金の階段」とは、何の象徴であろうか。
キリスト教の伝説か、中世の説話か、それとも近代の文学者の詩のなかにでも出てくる言葉なのであろうか。
私は自分のしらべられる範囲内で、できるだけ綿密に、この言葉の典拠を探してみたのであるが、
残念ながら、ついにそれを発見することができなかった。
まことに申しわけない。
しかし、その寓意が解らなくても、必ずしも絵画の鑑賞に不都合が生じるというわけのものではあるまい。
中略。。。

「バーン・ジョーンズもロセッティも、画家であるよりはむしろ詩人である」とマルセル・ブリオンが書いている、
「牧師になるために勉強していた時代から、バーン・ジョーンズは、ピューリタン的悔恨にみちた、臆病な、内気な肉欲を決して失わなかった。
ヴィクトリア朝英国の時間空間の外へ脱出する時にも、彼は道連れとして、繊細華奢な若者や女たちだけを連れてゆく。
彼らの弱々しさが私たちを感動させ、自分では純潔だと信じている、その非肉体化した一種の無意識の倒錯が、私たちを魅了するのである。
オーブリ・ピアズレーがちょっと手を加えただけで、その倒錯はたちまち悪魔的に変形してしまうだろう。」(『ロマン主義絵画』)
このマルセル・ブリオンの意見の最後の部分が、私にはとくにおもしろい。
たしかに、あのビアズレーの悪魔的倒錯の芸術を最初に認めたのはバーン・ジョーンズであり、
ビアズレーは一時期、この先輩画家の模倣ばかりしていたのである。
彼らはいわば血縁関係にあるのである。

さらに氏は。。。

この「黄金の階段」の天使のような娘たちについて、私は前に、
「いかにも清純な感じの処女」と書いたが、もしこれをビアズレーが描けば、
もっと官能性が不自然に誇張され、悪魔的倒錯の傾向を帯びはじめるにちがいない、
と思われる。
いや、その傾向はすでに、ブリオンのいわゆる「非肉体化した無意識の倒錯」という形で、
バーン・ジョーンズの娘たちのなかにも、こっそり忍びこんでいるのではあるまいか。
中略。。。
ラファエル前派は、いまではすっかり忘れ去られ、美術史の後景に押しやられているような観があるけれども、かつては日本で非常に流行し、白樺派の世代を熱狂させたこともあったということを、おぼえておいてもよいだろう。
たしかに、この派の画家たちの象徴主義やアレゴリーは、いまから眺めれば単純かつ幼稚であるが、このあたりで、もう一度彼らを復活させてもよいような気がする。

ん〜、ラファエル前派の絵は綺麗過ぎっ。
活動したフィールドが、ヴィクトリア朝のイギリスだから当たり前だねぇ。
でもなんだぁ〜、氏はビアズレーも血縁関係って書いてるけど、ホントかぁ?
「なに気取ってんだよっ、美少女&美男も、屁だってHだってすんだよっ!」
な〜んて、英国人独特の当てこすりを感じるんだなぁ。。。
でっ、私はビアズレーをココで紹介する勇気はない。
興味を持たれた方は以下へGO〜。

http://www.all-art.org/er_in_art/08.html
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Aubrey_Beardsley


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