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GWは単なる週末でした。

澁澤龍彦

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画像1:Hieronymus Bosch 1450-1516
『Triptych of Garden of Earthly Delights』(detail)
ネーデルランドで活躍した後期ゴシックを代表する画家。

長い茎をのばしたタンポポのような、あるいはイチゴのような不思議な植物の花托から、
ガラスの罅割れに似た筋目のある、大きな蒼ずんだ半透明の球が花のように咲き出ていて、
その球のなかに二人の裸体の男女が愛撫を交わしながら、恋の語らいにふけっているらしい様子を眺めることのできる、
この童話のような天真爛漫な情緒にあふれたボッスの絵の一部分は、私の好きな「快楽の園」の中央パネルにおける、
おびただしい裸体の男女の繰りひろげるエロスの大饗宴のなかでも、とりわけて、好ましいシーンとなっている。
略。

ボッス研究家のシャルル・ド・トルネーによると、フランドル地方の古い諺に、
「幸福とガラスは、あっという間に壊れてしまうもの……」
というのがあるらしい。
なるほど、そういわれてみれば、この世のしばしの快楽に我を忘れている愚かしい男女が、
ガラスの球の内部にいるという事情も、理解できないことはないようなきがする。
略。。。
ゲーテの『ファウスト』第一部「魔女の厨」の場に、一匹の猿が大きな球をもてあそびながら、
  これこれ、これは地球だぞ
  上がったり下がったり
  いつもぐるぐる廻っている
  ガラスのような音もする
  中は空洞だ
  そこはきらきら光る
  こっちはもっと強く光る
  まさに正真正銘の生きものだ
  かわいい息子よ
  勝手に玩具にするな
  下手をすれば、お前が死なねばならぬ
  球は素焼きだ
  つぶれたら粉々だ
と歌うところが出てくるが、これもやはり、ガラスの球によって現世のはかなさ、危うさを象徴しているという点では、
前に引用したフランドルの諺と完全に一致すると見てよいだろう。
略。

氏はボッス研究家のウィリアム・フレンガーの「ボッスはキリスト教異端・アダム派に属していた」という意見を解説。
でっ、以下のように結ぶ。

このアダム派の教義や理想を一枚の絵にしたのが、すなわちボッスの「快楽の園」であって、羞恥を知らない裸身をさらして、
鳥や獣たちと楽しげに遊びたわむれている男女のすがたは、画家の心の目に映じた、一つのユートピアの表現にほかならなかったのだ。
ボッスは、この裸体の男女たちを決して否定したり、諷刺したりしているのではなくて、明らかに共感をこめて描き出しているのである。
この十五世紀のアダム派のヌーディズム運動が、何となく現代のアメリカのヒッピーたちの、フリーセックスやロック・フェスティヴァルを思わせることに、お気づきの読者もあろう。
ボッスの幻想的な反世界が、そのような思想的基盤の上に立っていたと知らされるのは、いずれにせよ興味ぶかいことである。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。
そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。
第二の日である。
「水は集まれ。乾いた所が現れよ。」
「地には草と果樹を芽生えさせよ。」
「大空に光る物があって、地を照らせ」
水に群がるもの、魚類を作り、空には飛ぶ鳥をお作りになった。
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。男と女に創造された。
「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。
海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
見よ、それは極めて良かった。」
この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、
第七の日を神は祝福し、聖別された。
これが天地創造の由来である。

有名な「天地創造」の創世記の冒頭。
画像1:『Triptych of Garden of Earthly Delights』 (outer wings)
天動説を信じる当時の世界感&宗教感を描いた扉絵。
創世記3〜4日目を表現、海と陸に隔てられた地上には生物がいない。
でっ、この絵を観音開きに開けると、
画像3:『Triptych of Garden of Earthly Delights』
有名な三枚の絵が出現。
16世紀スペイン国王フェリペ2世によりコレクション。
左パネルが「楽園」、右が「地獄」、中央が題名の「快楽の園」。
左扉に描かれるのは、5〜6日目。
アダムとエヴァによる原罪の生まれる前を表す。
中央部分、一糸纏わぬ男女の入り乱れる姿から淫欲の罪orアダム主義。
右扉に淫欲の罪を犯し肉欲に支配され人間が堕落する様子、地獄の描写。
地獄ではボス作品の特徴と言える、幻想的な奇怪生物がたくさん。
画像4:『Triptych of Garden of Earthly Delights』(detail)
画家も登場。
自らも地獄に堕ちるほど罪深いって意味なのでしょうか?
性的な秘儀を重視するアダム主義とか、異端的な作品であるとするか?
人間の愚行と罪の告発、断罪を目的とした作品であるとするか?
作品の解釈が議論中。

う〜ん、快楽の園=現世?
正しく生きたご褒美として、死後の楽園。
信じ正しく生きた者は楽園へ、
罪深く生きた罰として、死後は地獄へ。
最近の殺伐とした新聞記事を読むに、、、
現世も地獄と変りない。。。

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外国旅行をしていて何より楽しいのは、思いがけない町で、思いがけない美術館に入り、
思いがけない魅力的な画家の作品を発見することであろう。
むろん、ヨーロッパ美術の専門家にとっては、発見でも何でもあるまいが、私にとっては、
つねに新しい発見なのである。
パリから特急の汽車に乗って、四時間あまりで着いたストラスブールの町は、
アルザス地方特有の、白い壁と木組に飾られた民家のある、古い中世都市の面影を残した、
まことに美しい静かな町であった。
運河に沿って歩いて行くと、屋根のある橋があり、ローアン枢機卿の城があり、
美術館があり、壮麗なゴシックのカテドラルがある。
略。。。

氏は紀行記風の書き出しで、ノートルダム美術館で出会った、
セバスティアン・ストッスコップスの『五感あるいは夏』との出会いを語りだす。
画像1:Sébastien Stoskopff  1597-1657
『Summer or the Five Senses』 1633
真横を向く夫人が抱える果物籠、天球儀、楽器、花瓶の花。
リュートの上に重なってる書物が旧約詩篇第七十六の楽譜。

たぶん、この画家が日本に紹介されるのは、これが初めてではあるまいか。
ここに掲げた「五感あるいは夏」という作品は、
ほぼこれと同じ大きさの「四大あるいは冬」という作品と対になっていて、
同じ部屋の同じ壁面にかかっていた。
略。。

氏は、真横を向いた女性美の魅力を、ピエロ・ディ・コシモ「シモネッタ・ヴェスプッチ像(前出参照)」と、ポライウォロ「横向きの婦人像」を引き合いに出す。

楽器やら天球儀やら、花やら果物やらを、細密なリアリズムで前景に描きこむのが当時の室内画の流行であった。
ここにはヴァイオリンとリュートが描かれている。
「四大あるいは冬」という絵には、やはり同じように、野菜やら魚やら台所道具やらが描きこまれている。
「五感」という作品の題は、この絵のなかに、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を満足させるものが、
すべて揃っているというほどの意味であろう。
一つの完全な世界を象徴的に表現しているのだ。
私がとくにおもしろいと思うのは、テーブルの上の花瓶に生けた花が、左右対称の完全な十字形をなしていることだ。
花には花の世界の霊妙な秩序がある、ということなのかもしれない。

氏は以下のように結ぶ。

中央のテーブルの上のダイスと将棋盤も、当時の風俗を考える上に、おもしろい資料となるだろう。
この絵は、作者のパリ滞在中に描かれたものなので、この婦人の服装も、当時のパリのブルジョワ婦人の服装だと考えて差支えあるまい。
見れば見るほど興味深く、私にとっては好ましい絵である。

この書庫の意味は、澁澤氏が文中で紹介した絵画をUPし、
氏が引き合いに出した作品をも探して掲載し、
氏の文章を私が再確認しようという意図を持ってる。
だが、氏が文中で「四大あるいは冬」とした作品が発見できない。
画像2:『The Great Vanity Still-life (detail)』 1641
ノートルダム美術館に所蔵されてるけど、
残念、ディテール画像しかない。
氏は骸骨には触れていないし、
野菜やら魚やら台所道具やらが描かれてるかどうか?
画像3:『Ščuka, čebula in vrč』−
野菜やら魚やら台所道具やらが描かれてる。
すこぶる美味しそうじゃないかっ!
画像4:『Krap, zelenjava in kositrna posoda』−
鯉っ!茨城では最近の鯉ヘルペス騒動で養殖場が打撃を受けた、、、
閑話休題。。。
http://www.ng-slo.si/default.asp?id=32&prikaz=galerija_avtorja&avtor=61

んでもって、ポライウォロ「横向きの婦人像」って複数枚存在。
どれを連想して文章を書いたのか?
画像5&6:POLLAIUOLO, Antonio del 1431/32−1498
『Portrait of a Young Woman』 1465
『Portrait of a Girl』 1467-70
う〜〜ん?
まぁ、この記事は私の知的好奇心を満たす事を目的とした我道。
御勘弁。。。

しかし、紀行記風の文章を読むと旅に出たくなる。
しかも、独りで、、、
BGMは、、、
知らないぃ〜街を歩いてみたいぃ〜♪
どこか遠くへ〜行きたいぃ〜♪
こりゃ、家出か?
『ばぁ〜か、所帯持ちは家出って言わねぇ〜のっ』
『蒸発だって!』
う〜ん、たまには一人孤独に浸ってみたいっ。
『黄色い救急車に迎えに来てもらってさぁ』
『BGMは、、、どなどなどな〜どぉなぁ〜♪』
笑えんし、洒落にならんっ。。。

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画像1:Pietro CAVALLINI 1273-1308
『The Last Judgement』(detail)  1290s
キリストが中央の王座に座り、光輪を放射。
周囲を七大天使、聖母、ヨハネ、使徒達が描かれている。
氏が紹介してるのは、キリストの左上部の天使。
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/cavallin/index.html

「天使たちはいったい、歯や性器を備えているのであろうか。
彼らはあんな重い翼、羽根の生えた翼、神秘的な翼で飛ぶのだろうか」
とジャン・ジュネが『花のノートルダム』のなかで、天使という奇妙な存在について疑問を投げているけれども、
このピエトロ・カヴァルリーニの描く、まるで極楽鳥の羽根のように華麗な翼をもった天使たちを眺めていると、
実際、私たちにも、ジャン・ジュネと同じような疑問が湧いてくるのを如何ともしがたい。

中略。。。

天使も悪魔も、もとは同じ天界の一族で、空を飛ぶ能力を有することに変わりはないのだが、
一方は、いかにも天国の神の使者らしく、鳥の翼を有し、
他方は、いかにも地獄の獄卒らしく、爬虫類の肢体と蝙蝠の翼を有している。
たぶん、当時の芸術家にとって、飛翔する鳥は崇高なもの、清浄なものを表し、
地を逼いまわる爬虫類は、逆に卑賤なもの、悪魔的なものを表すように見えたにちがいない。
だからこそ、彼らは天使の翼と悪魔の翼とを、このように二様に描き分けたのであろう。

このカヴァルリーニの天使の翼も、明らかに鳥の翼で、
暗緑色をおびた部分から薔薇色がかった部分へ、
微妙な色の階梯を経て、虹のように変化する色彩の交響が、いかにも豪華な感じを与える。
とくに上の天使は、頭部以外の部分が巨大な翼にすっぽり包みかくされて、身体は見えないのである。

天使の図像学&天使の階級、略。。。

天使といえば、読者のみなさんは、十五世紀のフラ・アンジェリコ(「天使のような修道士」の意味)の描いたような、
金髪捲毛の可愛らしい少年か、あるいはハンス・メムリンクの描いたような、さまざまな楽器で音楽を奏でる合唱隊の少年のようなすがたを、
ただちに想像なさるかもしれないが、少なくともヨーロッパ中世の美術においては、それは必ずしも少年のすがたではなく、
甲冑を着て悪魔と戦う戦士であったり、あるいは最後の審判で、善人と悪人の魂の重さを秤る裁判官であったり、
じつにいろいろな役割を果たしているのだということを、知っておいても無駄ではあるまい。
私は、キリスト教の創始した諸観念のうちで、神と人との中間に位置する霊的存在である、天使という観念をいちばん好ましく思う者だ。
アンジェリック(天使的)という形容詞が、しばしばモーツアルトの音楽に冠せられ、
また、ランボーの詩にも冠せられるのは、人も知る通りである。

画像2&3:Rogier van der Weyden 1400-1464
『Altarpiece of the Last Judgement』 (detail, central panel) 1443-46
確かに秤で罪の重さを秤る裁判官。
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/w/weyden/rogier/index.html

画像4:Jan van Eyck 1395-1441
『The Last Judgement』 1425-30
確かに甲冑を着て悪魔と戦う戦士。
http://cgfa.sunsite.dk/eyck/p-eyck4.htm
そして、以下のように氏は結ぶ。

カヴァルリーニの天使は、しかし、ゴシックの天使としてはきわめて人間的な、素朴な若者の顔をしてるように思われる。
私は最初にジャン・ジュネの文章を引用したけれども、
この若者の天使が、よしんばジュネの恋人であったとしても不思議はないような気がする。

う〜ん、天使の御仕事はメッセンジャーだけではなく、戦士&裁判官をも兼務。
氏の最後の一文の意味は、私なりの身勝手な解釈すると、
恋人でも、子供でも、創作活動に閃きを与えてくれたなら天使?
人間に霊感を与え素晴らしい作品を完成させたりするのも、天使の御仕事?
だばっ、デモーニシュな作品で有名なアーティストに霊感を与えるのは悪魔?
うーーーん、霊的不感症の私には感じられん。

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  「マドモアゼル・マリア
  あなたは懐妊あそばした
  あなたは夫もないくせに
  男のお子さんを生みになる。
  大きにお邪魔さまでした、
  ごめんあそばせ……」
  こう言って天使が帰ってしまいます。

堀口大學氏の翻訳したジャン・コクトーの詩「村へ来た天使ガブリエル」の冒頭の一節である。
この詩では、コクトー一流の軽妙な調子で、「受胎告知」の場面がおもしろく描かれている。

画像1:Simone Martini 1284-1344
『Maria Verkündigung』1333
マリアが椅子に座って読書中にメッセンジャーの訪問。
ガブリエルが持ってる橄欖の枝は身分を示す象徴らしい。
二者間の白百合は純潔を表す御約束。
さらに、二者の頭上をケルビム天使達が、鳩を囲んで輪舞。
鳩は精霊の象徴。

昔から「受胎告知」の絵には、マリアが読書中に天使の訪問を受けた、という設定のものが多いようだ。
フラ・アンジェリコもレオナルドも、そういう情景を描いているのである。
略。。。

画像2:Angelico, Fra 1387-1455
『Annunciation, painted』 1437-1446
画像3:Leonardo da Vinci  1452—1519
『Verkündigung an Maria』1472-1475
天使とマリアの頭光は、仏教の光背が伝わって描かれ始めたらしい。
レオナルドも頭光を描いてないマリアとキリストを描いて教会に睨まれたそーでつ。

中世からルネサンスへかけてのキリスト教美術の中に、この「受胎告知」をテーマとした絵は、
数限りなくあるけれども、ここに掲げたシモーネ・マルティーニのテンペラ板画は、
とくにその背景の黄金のビザンティン風な豪華絢爛さ、その人物の甘美な抒情的表現によって、
一頭地を抜いているように思われる。
シモーネの絵の中で、まず私たちの注意を惹く第一の特徴は、その若々しい男女の人物たちの表情の、
まことに甘美な、まことに艶冶な点であろう。
この美少年のすがたで表された天使と、
ういういしい処女のすがたに描かれたマリアの表情を、よくごらんいただきたい。
まるで東洋人のように細い目をして(流し目のようだ!)、
恥ずかしげに身をよじったマリアの姿態には、どこか日本の浮世絵の女の媚態を思わせるような、
そこはかとないエロティシズムさえただよっているようには見えないだろうか。

中略。。。
氏は絵画も画家も大絶賛。

実をいえば、私は、この画家の「グイドリッチオ将軍騎馬像」(シエナ、パラッツォ・プブリコ)
という作が好きで好きでたまらないので、いずれ機会があったら、
もう一度、シモーネを採りあげてもよいと考えているほどなのである。

画像4&5『Der siegreiche Feldherr Guiddo Riccio da Fogliano』1328

んでもって、以下のように結ぶ。。。

 雪が消えるようにして
 天使の姿は消え失せて
 また天国へ行っちまう。
 さすが娘は恥ずかしく
 両手で顔をおしかくす。
堀口訳コクトーの詩は、こんな風に終わっているが、ベレンソン(美術評論家)によれば、
シモーネの天使の衣服も、「雪に映える朝日のように」銀色に輝いているのだ。

TVドラマでは、『ウッ』ってシンクにダッシュしてエヨエヨョォ〜。
なぁ〜んてのが、一般的?
それとも、生理がないから検査薬?
そんなの『受胎告知』ぢゃなくて『妊娠兆候』だっつーのっ。
んだばっ、四十路を過ぎた男の前に、急に過去の恋人が子連れで出現っ。
そりゃ『認知』っ!
んー、私にゃそんな機能は備わっちゃないからさぁー、
想像空想妄想の域を出ないんだねぇ〜。
相方様から妊娠を告げられて、私は喜んだろうか?
反省しきり。。。

ふとっ?
マリアはイエスを愛せた?
ヨセフはイエスを愛せた?
イエスは自分を愛せてた?
これはもっと、想像もできん。。。

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画像1:DÜRER, Albrecht 1471―1528
『Portrait of a Young Venetian Woman』1505

この絵の中央上方に、漆黒のバックからほんのりと浮きあがって、
ごくかすかに、あのデューラー独特の名高い組み合わせ文字
(A&Dのモノグラム)
が見えるであろう。
そしてモノグラムの上には、1505年という制作年代の記入してあるのが見えるであろう。

中略。。。
1505年はデューラーが二度目のヴェネツィア旅行の年。

画像2&3:『Feast of the Rose Garlands』1506

彼がサン・バルトロメオ教会のために描いた大作「薔薇の花環の祭典」は、
すばらしい成功をおさめ、ヴェネツィアの貴族や市民は挙って、
この絵を見にやってきたという。
裕福な商業都市ヴェネツィアでは、絵の注文も多く、
同地の画家たちは、この腕のいい外国人を嫉妬するほどだったらしい。
なにしろ当時の美術界の長老ジョヴァンニ・ベルリーニが、わざわざ彼のアトリエにやってきて、
彼の絵を買おうとしたのである。
この「ヴェネツィアの少女」像は、そういう幸福な、得意の絶頂にあったころのデューラーによって描かれた、
この画家の作品としてはめずらしく明るい、のびのびとした傑作となっている。
むろん、彼はほかにも女性像を描いているが、そのドイツ・ゴシック的なリアリズムは、
多くの場合、醜さと紙一重のきびしい精神美の表現であって、いつも特有の堅さがあり、
ここに見られるような、魅力的な若さの溢れるばかりな表出とは必ずしもなっていないのである。

中略。。。
徹頭徹尾、絵を褒めているけど、
残念ながら、モデルの素性については書かれていない。
ガチガチのドイツ・ゴシックの地元から、明るく開放的なヴェネツィアに旅行して、、、
一皮剥けた?

私には、この若々しい少女像が、ともすると性別を越えているのではないか、
と思われるほどである。
デューラーくらい、その一生涯を通じて、エロティシズムに無縁であった画家は、
西欧の美術史を眺めわたしても、めったにいないのではあるまいか。
彼の女性美の規範は、エロースの領域にはなく、
エートス(倫理性)の領域にあったのだと思う以外に、
この問題は解き得べくもないであろう。

んー、性別越境。。。
両性具有のような絵画ってか?
言われればそうなのだけれども、
ボーイッシュな女性の肖像画?
と言っても良いんじゃないか。
まー、ヂューラーで私が一番好きなのは『兎』。

画像4:『A Young Hare』 1502
画像下のA&Dのモノグラムは落款。


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