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新庄直頼は1600年の関ヶ原の戦いのとき、西軍に属したため、戦後に摂津国高槻の領地を没収されていたが、後に許されて徳川家康に召し出され、3万石の所領を賜った。
第3代藩主・新庄直好は甥の新庄直時を後嗣としていたが、62歳という高齢になってから実子・新庄直矩が生まれたために、直時が一時は後を嗣いだが、直矩が成長すると、直時から直矩に家督が譲られた。ところが15歳で藩主となった直矩は、2年後の17歳のときに急逝してしまい、新庄家は無嗣絶家の危機に立たされてしまった。
しかし幕府は、別家を立てることを許されて3000石の旗本となっていた前藩主の直時に、その旗本領に7000石を加えた1万石の所領を与えて再勤を認め、存続することを許されたのである。以後、新庄氏の支配で明治時代にまで至った。
ウィキペディア(Wikipedia)より。
私と相方のの先祖は、戦国武将に引っ付いて西方から移動してきた。
現代と違って、藩は一つの国家だった。
ただ、私が推察するに、「茨城南部に小藩がひしめいてる」理由は仙台と水戸が江戸に攻め込んだ時の防波堤の役目であろうと思われる。
つまり、捨石。
人の移動&逆転不可能な身分制度の時代であったろう。
現在、陣屋後が小学校なのだが、眼科・産婦人科・内科*2と守るように昔からの御殿医が4軒も営業してる。
そう、小学校に近ければ近いほど『家柄が◎』。
そうそう、年寄りは家名に縋るしかなかった。
そうそうそう、喰えないくせにプライドだけは高い爺姥の過疎の町。
そこでは、戦後まで犬が三毛の一族同士が婚姻関係を繰り返していたのであったぁ。
実際、私は助清マスク被った無表情の子供だったし、、、
相方は、外と内の2枚の仮面を被り分ける高校の演劇部員だったし、、、
相方の家の家宝は甲冑と軍刀。
私の家では明治生まれの曽祖父が短刀にしたとかで残っていない。。。
曽祖父はどんな人?って聞かれれば、
2歳の時に亡くなったから覚えていない。
ただ、死んだ後も妻恋・草加・浅草橋って自分の子供より若い愛妾が私のパパより若いパパのオジを連れて死後のイベントごとにやって来た。
昭和40年代にBMWセダンが庭にやって来る家って異常だったかも。
そうそうそうそう、この土地は犬が三毛の一族が幅を利かせてた町なんだねぇ。
って、今は市になったんだねぇ。
遠〜い目。
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