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市長の本棚への追加

久しくはっちの市長の本棚に本の追加をしてこなかったので、思い立って追加です
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これです

次からは、それぞれの本への「一口メモ」(一口で終わってないのも多いですが)

○「ヒトはなぜ笑うのか」 マシュー・M・ハーレー ダニエル・C・デネット レジナルド・B・アダムスJr.共著 片岡宏仁訳 勁草書房 2015年2月

 「訳者あとがき」から抜粋します。

・これはどういう本なの?
 本書は、計算認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムス)の共同研究で、ユーモアという情動の仕組みを明らかにしようと試みた仮説を提示しています。その仮説をものすごく簡略にまとめてしまうと次のとおりです。

:キレのいいネタを聞いたり絶妙な偶然の重なりがうんだ間抜けな失敗を目の当たりにしたとき、わたしたちの胸の内に―いや、腹の底に?―愉快な情動がわきおこってくる。このおかしみ、ユーモアの情動は、知識・信念に不一致を見出したときに生じる。この「不一致」とその条件は、きわめて限定されている[A]。不一致の発見で生じるおかしみ・ユーモアの情動は、一種の報酬だ。エネルギーたっぷりの果糖がもたらす甘さの快感が果糖を含む食べ物を探し求める動機付けになるのと同じように、ユーモアの情動は、知識・信念のバグをつきとめる作業をうながす動機付けになっている。これが進化におけるユーモア情動の適応的なはたらきだ[B]。ヒトの知性は、こうしたさまざまな「認識的情動」(epistemic emotions)によって制御・動機付けを受けて機能している[C]。

・読者にとってうれしいことはなに?
 まず、なによりうれしいのは、研究の意義がせまい専門的議論の範囲にとどまっていないことです。
 第二にうれしいのは、新規な仮説を提示するにあたって、先行研究を周到にサーベイして検討してくれている点です。
 最後に、もしかするといちばんうれしいことは、本書にはジョークとユーモアが満載だという点です。

・読者にとってあんまりうれしくないこと
 他方、本書もいいことばかりでもありません。なにより困るのは、この分厚さです。

・まとめましょう
 本書は、ジョークなどが引き起こすユーモア情動の仕組みについて、先行関連研究を幅広くフェアに検討しつつ新規かつ有望な仮説を提示しています。彼らの議論の射程は狭義のユーモア研究にとどまらずヒトの認識機構そのものまで及び、ひろい読者層の関心にこたえられるでしょう。分量こそ多いものの、ジョーク満載の議論は、まじめに読み進める読者の労力にユーモアと知的利得で報いてくれるはずです。

・・・という本です。

で、一言・・・「それでも、笑わせたい!」


○「差異とは何か―<分かること>の哲学」 船木亨著 世界思想社 2014年7月

 「むすび―反存在論的に」から抜粋します。

・差異とは何か―それが本書のタイトルであった。だが、それへの答えはない。なぜなら、差異は本質をもたないからである。
 「〜とは何か」という問いは、その主語に対して同一性を与える本質への問いである。本質は、それがそれであってそれとは違うものではないもののことであり、それによって主語の同一性を示すものである。ところが、そのようにして同一性が与えられる差異は、見てきたように、類比や数を応用しただけの特殊な差異、みせかけの差異にすぎなかった。

・特殊な差異を発見することが、「分かること」の実践である。ここでの「分かる」とは、「これこそこのものだ」というように、<もの>にはっとさせられることである。同一性に規定された諸事物についての言説を拒絶して、異なるもろもろの<もの>を、ただ異なると感じ、知ることである。何が異なっているかの「わけ」を知る、その意味では、異なるとは「ことが成る」、出来事が起こることに、みずからが関わることだともいえる。

・何であれ自分が成長し、できなかったことができるようになることは楽しいものである。「楽しい」とは不安をごまかすためにひとびとに集い、瑣末なことに集中するようなことではない。それは、確固とした思考と振舞と言葉を持つことであるだけでなく、生について知ること、感じられた不可思議な、ひとを無力にさせるものから、かえってそこから力を得ることのできるようなものを分かつことである。

・思うに、幸福とは、さらにもっと生きていようとすることであって、生きていることの「条件」とはまったく違う。生きるということのなかに「強度の差異」があって、生をより強く感じられる生き方がある。植物や鳥や、生きているものたちに感じるのはそれである。道端の草花を見てはっとしたことを、振舞と言葉と思考に反映させ、諸感覚の快を喜びに転換することである。

・しかし、エピクロスがいうように、だれも死んだことがあるわけではなく、ソクラテスがいうように、だれも死が何であるのかを知らない。存在の言葉によって差異がすり替えられたり、捏造されたりするが、われわれは徹頭徹尾生のなかにいる。死もまた生のなかにあって、生とは異なったものという資格でしか経験されてはいない。差異は存在の反対物ではないのだから、非存在でも無でもない。生とは死なないことではなく、場合によっては「死にもの狂い」でもあることであって、死は生きることの一部を成すのである。

・生の意味を産みだすというとき、自分で産みだしたものには客観性や確実性がないのだから、それによって自己を支えることはできないと考えられるかもしれない。だが、客観性や確実性は、世間のひとびとの評価基準であり、それを頼りにひとびとが事物を知覚しようとするだけのことであるのだから、産みだした<もの>が社会の既存の流通に乗るかどうか(価値基準に合致するかどうか)はどうでもよい。語り継がれ、歴史に名を残すことも、自分の「名まえ」がのちのひとが自由に語り得る物語の記号になることにすぎないのであれば、それもどうでもよいことである。何かを産みだすひとは、価値あるものと価値基準を同時に産みだすのであって、みずからが産みだしたものは、時間の推移するおかげで自分から離れ、どうやってか分からないままに、自分が産みだした以上は、必ずすばらしいものとして与えられる。評価の言葉は、その出来事を追い求めて語られる物語に過ぎない。

・人間は無知(ソクラテス)であり、その本性的愚かさに負い目があって無限定なものへと還っていくとはいえ、そのような諦観の言葉に自足すべきではないであろう。結論めいたこというとすれば、正しい言葉とは、意味を正確に述べてその真偽をあきらかにするものではなく、出来事に意味(方向)を与えその展開を変えるものである。それゆえ、言葉に対するある種の哲学的意識をもつべきである。すなわち、紋切り型のいいまわしを拡散したりするのはやめ、<いま>起こりつつある出来事を、みずからの生の全幅を掘り起こしつつ、<もの>語るようにつとめるべきなのである。

という本です。

で、一言・・・「やはり、産みだしたい!」


○「科学の発見」 スティーヴン・ワインバーグ

 歴史上名だたる科学者をまな板に載せ裁いています。現在の科学的基準というよりも、その当時知りえた知識からして誤っているという言い方で、すごく納得です。


○「日本人は何を考えてきたのか」 齋藤孝著 祥伝社 2016年3月

 副題は「日本の思想1300年を読み直す」です。

 「あとがきに代えて」の最後に、「ゴッホのこの言葉が私のメッセージでもあります」として次のゴッホの言葉が引用してあります。

 ―日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出合う。彼は歳月をどう過ごしているのだろう。地球と月との距離を研究しているのか、いやそうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いやそうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。
 ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つぎには季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりに短い。
 いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。
 日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。
(『ゴッホの手紙』中 岩波文庫)

 改めて、日本人はすばらしいと思わせていただきました。


○「シンギュラリティは近い[エッセンス版]」 レイ・カーツワイル NHK出版 2016年4月

 改めて映画「2001年宇宙の旅」や「ブレードランナー」を観ても、そのころ想像した未来の今はさほどでもないなという気にもなりますが、この本読むと、わがiPhoneのSiriに、「ばかやろー」とばかりは言っていられないような気になります。


○「人工知能の核心」 羽生善治著 NHK出版新書 2017年3月

 天才棋士羽生善治の人工知能開発の最先端の現場ルポです。


○「ソーシャル物理学」 アレックス・ペントランド著 草思社 2015年9月

 副題は「『良いアイデアはいかに広がるか』の新しい科学」です。

 社会の動きの分析や将来予測、計画作りに、これまではアンケートなどの統計手法を用いてきたが、一つ一つの動きすべてを把握するやり方が可能になりつつある。ビッグデータ恐るべし、というお話です。


○「創造力なき日本」 村上隆著 角川書店 2012年12月

 副題は「―アートの現場で蘇る『覚悟』と『継続』」です。

 この日本でのアーチストの育て方ですね。題を見ると日本に絶望しているようですが、最後の「特別対談 村上隆×川上量生」で、次のようなことを言っています。

 村上:(前略)活動拠点を完全に海外に移してやっていくのも手なんですけど、それはやらないつもりです。日本人として、現代の日本とは何だろうということを見ていく。僕は日本は世界の未来国家だと思っているので、ここから世界の未来も見えてくるんじゃないかと考えているんです。
 川上:(前略)日本のネットを中心に花開いている文化は、世界の今後を予想する上でも先行資料になるんじゃないでしょうか。日本のサブカルチャーの世界は、歴史に残る牾擶爐了代瓩世箸盪廚Δ鵑任垢茵もちろん変えていかなければならないところはあるんだけど、ある意味、今の日本が変わらないでいてほしいという願いもあります。(後略)
 村上:日本は世界の最先端を走っている国なので、現在のこの環境があるのはすごい財産なのだということを理解したほうがいいですよね。僕は、この未来国家・日本をリポートしているほうがアドバンスがあると思っているんです。(後略)

 やっぱり、日本がいいんですね。


○「オートメーションバカ」 ニコラス・G・カー著 青土社 2014年12月

 副題は、「先端技術がわたしたちにしていること」です。

最終章「湿地の草をなぎ倒す愛」の末尾に近い部分を引用します。

―われわれの最も注目すべきことのひとつは、最も見落としやすいもののひとつでもある。それは、現実とぶつかるたびにわれわれは世界への理解を深め、今まで以上に世界の一部となるということだ。難題と格闘しているとき、われわれを突き動かしているのは労働の終わりへの期待であるかもしれないが、フロストの語るとおり、われわれをわれわれにしているのは労働―手段―なのである。オートメーションは目的を手段から切り離す。欲しいものがたやすく手に入るようにしてくれるが、知の労働からわれわれを遠ざける。スクリーンの産物へと変身しつつあるわれわれは、シュワップス族が直面したのと同じ実存的問いに直面している―われわれの本質は、いまなお、何を自分が知っているかに存しているのだろうか?それともいまやわれわれは、何を欲しているかによって規定されることに満足しているのだろうか?

 いろいろと手間がかかる仕事も(自覚はしてないことも多いが)楽しかったりする。あらゆることが自動化されていく社会の中で、わたしたちはしあわせ?という本です。


○「ヨーロッパから民主主義が消える」 川口マーン惠美著 PHP新書

 副題は「難民・テロ・甦る国境」です。

 終章「『国境を超える枠組み』と日本の選択」から抜粋します。

 −日本がAIIBに参加しなかったのは、一義的には、それが国益に適わないと判断したからだろう。しかし副次的には、アジアが、欧米や中国の植民地化することを欲していないからではないか。日本の外交は、国益だけでは動かない。それが文字どおり国に不利益をもたらすこともあるが、しかい、幸か不幸か、それが日本の本性なのだ。
 日本にはあたかも民主主義精神が欠けているように叫ぶ人たちが、国内にも国外にもいるが、私はそうは思わない。日本人の民主主義精神というのは、欧米人のそれのように頭のなかにだけあるのではなく、太古から身体のなないなる。ただ、それを我々は民主主義と呼ばなかっただけだ。

 いや〜、外国に長らく住んでいての著者のこの言葉、うれしいですね。



○「反乱兵の伝言」 三上隆著 幻冬舎

 (帯から)
 1950年、戦後の混乱期に日本は再び武器を手にした。

 分隊長三木儀一の目を通して、当時の人々が敗戦を受け止め、未来に向き合って行く   姿を描いた時代小説。

 なんと、八戸が舞台です!


○「フリープレイ 人生におけるインプロヴィゼーション」 
 スティーヴン・ナハマノヴィッチ著 若尾裕訳 フィルムアート社

 「なるほど!」が多すぎて、付箋つけすぎてしまいました・

 そのなかから3箇所ほど。

・19世紀の専用コンサートホールの勃興は、インプロヴィゼーションのコンサートを次第に終焉させていきます。工業時代になると、すべての生活の分野で、専門化や専門的職業意識が過度に強調されるようになっていきました。ほとんどの音楽は、楽譜を書くという神秘的で神のような創造的なプロセスに、なんとか近づくことのできた一握りの作曲家の譜面を一音一音間違えないように演奏することだけに制限されるようになりました。作曲と演奏は、次第に分業されていきましたが、これはお互いにとって損失となりました。同じように、音楽はポピュラー音楽とクラシック音楽にどんどん分化が進みましたが、これもお互いにとって損失となってしまいます。新しい時代のものと古い時代のものとは、その連続性を失いました。そして、コンサートとは「優れた作曲家とは、すでに死んでいるものである」という信仰を確認するためのものという時代になってしまいます。

・即興による表現方法は日常生活全般を形づくっている体験への扉でもあるのです。つまり、すべてのひとは、インプロヴァイザーなのです。たとえば、もっとも一般的なインプロヴィゼーションと言えば、日常の話し言葉です。私たちは話したり聞いたりするとき、その組み立ての材料である煉瓦(つまり語彙)とその構築のルール(つまり文法)を使っています。・・・「を」が抜けてます。校正ミスですね・・・これは、文化によって私たちにあたえられたものです。しかしそれを使ってつくられた文章は、以前に話されたことはありませんし、再び繰り返されることもありません。すべての会話は、ジャズ演奏のようなものです。そしてこのように即時の創造の活動は、呼吸することと同じように、普通のことでもあるのです。

・私たちはしばしば、トレーニングと教育を混同しています。事実、これらはとても異なる活動なのです。トレーニングは、特別な活動を成すために必要なある特別な情報を伝えるためのものです。教育とは人をつくりあげることです。教育(Education)という言葉のもとの言葉のeduceは、何か潜んでいるもの<引き出す>あるいは<呼び覚ます>という意味です。つまり教育とは、学び生きるために、人に隠された能力を引き出すことを意味し、決まった知識を人に(受動的に)詰めこむことではないのです。教育は、遊びと探求の親密な関係うまく利用すべきであり、そこでは探求と表現に許可が与えられるべきです。当然のことながらそれは、努力、試験、画一化外に私たちを連れ出します。

 「即興」に、こんな深い意味があるとは・・・


○「芸術と科学のあいだ」 福岡伸一著 木楽社

 「理系と文系が、あるいは科学と芸術が分離してしまう前の、実に豊かな時代」に思いを馳せながら、「芸術と科学の間に共通して存在するもの」についてのすばらしいエッセイ集です。

 付箋をつけた2箇所から。

・好きな作家は?と問われれば、カズオ・イシグロの名前を一番に挙げたい。日本に生まれたイシフロは、押さないとき、両親に連れられて英国に渡った。そのまま同地で暮らし、やがて英語で小説を書く作家となった。代表作は『私を離さないで』。臓器提供者としてあらかじめ定められた運命を生きる人々の物語。彼らを支えるのは子ども時代の記憶である。近刊の『忘れられた巨人』では、夫婦の記憶が扱われる。同じ時間を生きたはすなのに、覚えていることが違う・・・・・静かで確かな文体と豊かな想像力満たされたイシグロの小説は、今や世界中で熱心に読まれている。ひょっとすると村上春樹より先にノーベル文学賞をとるかもしれない。

 カズオ・イシグロのノーベル文学賞決定が2017年10月、この本の第1刷発行が2015年11月!

・なぜだろう。ピンぼけの桜の写真は、ピンぼけであるがゆえに、見る人をして、手前の滲んだ光の中に何かを探させる。そのあとの視線は置くの高い空をさまよう。このようにして、この作品は、私たちが網膜で無意識的に感じとっていた見えない光の記憶をよびおこしてくれている。そんな気がした。

 写真を撮ることが好きな私にとって、この写真、衝撃的です。


○「心という難問 空間・身体・意味」 野矢茂樹著 講談社

 「眺望論」、「相貌論」による素朴実在論を展開した哲学の本です。

 子どものころ(もちろん今でも)誰でも陥る「逆スペクトルの懐疑」の議論が懐かしく、そして、面白いです。

 次に、ここもとても面白いです。286ページの図です。

・この図は、知覚因果を表したものではない。リンゴから光が反射され、眼に入り、網膜から電気刺激が脳に至り、脳が興奮する。ここまでは物理的な因果関係を無視点的に描写したものである。そこに、吹き出しに囲う形で有視点的な描写が描き込まれている。これはけっして、物理的過程によって引き起こされた私の心の中の知覚イメージなどではない。無視点的に把握された世界のあり方と有視点的に把握された世界のあり方が、一枚のイラストに並べて描かれている、そういう図なのである。

 いや〜、「ものが見える」ということを脳との関係で考えるとおそろしく難しいですね。


○「断片的なものの社会学」 岸政彦著 朝日出版社

  (帯から)
 
 ・人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくといういこと。

 ・社会学者が実際に出会った「解釈できない出来事」をめぐるエッセイ。

という本です。


○「偉大なる失敗」 マリオ・リヴィオ著 千葉敏生訳

 (「訳者あとがき」から抜粋)

・本作『偉大なる失敗』は、五人の科学者たちが失敗を犯した理由を追求しているのはもちろん、失敗を犯すまでの過程をまとめた伝記としての側面もあり、読み物としての魅力も十分にある。

・本書で紹介されている失敗とは、書名にもあるように、ただの失敗ではなく、偉大なる失敗だ。並みの科学者が犯す失敗とは違って、偉人たちの犯す失敗は、結果的に理論や考え方に間違いが見つかったとしても、ほかの科学者の発想を刺激したり、それに代わる新理論を生み出したり、時には何十年もたってからその価値が見直されたりするものなのだ。それが彼らの失敗が「偉大」たるゆえんなのである。

という本です。


○「土の記 上・下」 高村薫著 新潮社

 (帯から)

<上>
・大地に雨が躍り、光が滴る―男は田を起こし、畦を塗り、苗を植え、肥を撒く。その黙然たる営みの精緻と輝き。

<下>
・生の沸点、老いの絶対零度―男は土を耕し、鯰と遊ぶ。妻の裏切りや、己がまだら惚けは悲しからずや。

という本です。


○「<わたし>はどこにあるのか」 マイケル・S.ガザニガ著 藤井留美訳 紀伊国屋書店

 (「訳者あとがき」から抜粋)

・脳は人体に残された最後の謎といわれてきたが、科学的なレベルでの解明が急ピッチで進むにつれて、その最新の研究成果が社会の道徳観や規範に揺さぶりをかける事態も起こりはじめている。本書の原題どおり「責任者は誰だ?」と問いかける声があちこちであがり、激しい論争が巻きおこるだろう。本書を通じて、科学と社会倫理が火花を散らしてぶつかりあう知の最前線をかいま見たあと、「でもやっぱり昼飯ぐらい好きに決めよう」と思っていただければ幸いである。

という本です。


○「歴史の喩法」 ヘイドン・ホワイト著 上村忠男編訳 偕成社

 ヘイドン・ホワイトの主要論文を一冊に編集した本です。

(第2章の最後の部分を一部抜粋)

・ひとつの学問分野としての歴史が今日ふるわないのは、それが文学的想像力のうちにみずからの起源をもっていることを見失っているためである。科学的で客観的であるように見せようとして、それはそれ自身の力と再生のための源泉をみずから抑圧し否定してしまっている。歴史叙述をいま一度その文学的土台との親密なつながりにまで引き戻すことによって、わたしたちはたんにイデオロギー的な歪曲からわたしたち自身を防護するだけでなく、歴史がそもそもひとつの「学問分野」として通用するためには不可欠な歴史の「理論」に到達することをめざしていることになるだろう。

 「歴史を書く」とはどういうことかという本ですね。


○「日本人はどこから来たのか?」 海部陽介著 文芸春秋

 どこから来たと思います?

 読んでいただくしかないですね。


○「「生きているとはどういうことか」

 私の大好きな池田清彦先生のご本です。

 (あとがきの最後の部分から)

・本書は、さまざまな生命現象を紹介しながら、そういった生命のいい加減さを理解していただきたいと願って書いた。人の身体も生物である限り、いい加減にできていて、いい加減に生きて、いい加減に死ぬのである。最近はどうもそういうことを理解しない人が増えたようで、禁酒禁煙で健康診断を受けていれば長生きできると思っているみたいだが、どう生きようと、寿命にさして違いがあるとは思えない。なんたっていい加減なんだから。

・本書を読んで、たとえ「いきいていることはどういうことか」が理解できなくとも、いい加減に生きることを宗とする人が少しでも増えてくれれば、著者としては望外の喜びである。

 私が、言っているのではなくて、あくまでも池田先生のお言葉です。


○「反アート入門」 椹木野衣著 幻冬舎

 帯に、あまりに根源的な(反)入門書とありますが、事例山盛りでアートやる人の考えや現場が分かる本です。


※「反来兵の伝言」は、人にお貸ししているので、写真にはありません。また、ずらずら書いたので、誤字脱字についてはご容赦

(追記)
早速、反乱兵を「反来兵」と書いてしまいました

この記事に


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