読書まみむ〜メモ

単なる読書感想文、ただそれだけ、夏休みの宿題なのねン!

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★題名 『大山康晴の晩節」 
★著者 河口俊彦
★発行 飛鳥新社
★発刊 2003年03月01日
 将棋を覚えたのは小学校に上がる前だったと思う。当時は夕食後に路地の縁台で大人の対局(あははは、ヘボでも対局)があり、見よう見まねで駒の動かし方ぐらいは知ることができた。今ではパソコンや携帯ゲームで覚え、NETで対局するのが当たり前らしい。
 ファミコンの時代から将棋ソフトを買い求め、いろいろ試してみたが面白くない。人間相手とは違ってワンパターンの対応しかなくて、「何でそんな指し手が?」というのが多い。最近のヤツはさすがに高度化してシッカリした手を指してくる。となると、逆に「見落とし」や緩手が皆無なもんだから、勝負のアヤがなくて(つまり、劣勢になると確実に勝てないから)つまんない。

 つまりだ、割と早くに将棋を覚え、それなりに力をつけて高校生の頃には賭け将棋(ビリヤードの待ち時間などで一局1000円のレートだった)をしたりして、会社勤めをしてからはアマ四段に相手をしてもらい都の職域戦なんかに出たりしてた。一応、ベンチャラ半分で「アマ二段の実力はある」とも言われてた。
 そんな実力レベルでしかないが、山口瞳の将棋モノなんかを読んで棋士の世界を知り、身近のアマ四段や五段を通じて将棋連盟と知り合い、奨励会の連中やアマ強豪の集まる新宿の飲み屋なんかに行ってたりしてた。つまりだ、実力はないくせに「気分だけは棋士」というスノッブにしか過ぎなかった。
 でもね、武道館での職域戦なんかで、大山、中原、米長といった連中を垣間見たり、アマ強豪を相手に感想戦を「これも一局」なんてやりあったり、居酒屋レベルなんだけど若いのを相手にヤマグチしてたのね。「ヤマグチする」ってのは、山口瞳の「棋士は恵まれてない。特に若手は、厳しい生存競争なのに生活が成り立たない」てな考えから、まあ、旦那(パトロン)することを意味するんだけど、かなり勘定を持った記憶がある。

 そういう時代に棋士を知り、接触を持ったことから、大山名人に対する印象は良くなかった。本書の著者である河口四段(著者略歴では六段だって!)も、遠まわしながらも批判的だったように覚えている。だもんだから、河口俊彦の大山名人に関する著述となると、これは読むしかない。
 大山康晴は、昭和27年に名人位に就き、通算で18期の記録保持者である。さらに50歳を過ぎても現役を続け、平成2年に文化功労者として表彰され、現役のままに平成4年69歳で物故した。棋士としての戦績だけでなく、将棋連盟の会長として東京の連盟会館の改築(だったか?)と関西の将棋会館建設など、指導者と経営者しても功績は大きかった。
 若い頃の大山批判も、いろいろと内実を知ることで人間評価は変わり、将棋そのものの強さを(幾らかだけども)理解できたことで印象批評は霧散する。さらに高齢になっても元気に精力的に対戦し、ガンとの闘病で見せた生命力には感嘆するしかない。
 河口の筆致もよく似た感じであり、大山の棋士履歴を記していく中に「もっと評価するべきだった」という思いが多々見受けられたように思う。特に、大山将棋に対する再評価ともいうべき「大山将棋の解説」は優れている。やはり棋力のある人なのだ、棋譜を細かく解析してくれたことに感謝したいね。

 てことで、本書は優れた大山「評伝」であり内輪ネタも満載してるし棋譜も豊富だし読みでがあるんだけど、これとは別に「将棋界奇々快々」(NHK出版)から抜粋しておくことにする。

 ともかく、問題は書く側に、プロの将棋はこんなにおもしろいのですよとか、この手を覚えれば強くなりますよとか、この人はこんなに変わってますよとか、読者に伝えようとする熱意がないことである。だから、先手7六歩では2六歩と突き、8四歩、2五歩、8五歩も一局の将棋、てな、いわゆる棋譜にテニヲハの観戦記が氾濫することになる。

 これも一局、という言い回しは、囲碁将棋界特有のもの。感じは分かるものの、意味不明で、誤解を招きかねない。だいぶ昔、五味康祐さんがこれにかみついて「やり直しが利かないのがプロの将棋だろう。それを、これも一局だった、とは何事」と怒ったことがある。
 五味さんはちょっと意味を取り違えていて、プロが言わんとしているのは「こういう指し方もあった」である。深遠に聞こえるが、内容はないに等しい。

 隠語といえば「ゼツ」というのもある。これは「絶対に詰まない形」を詰めたもので、「イビアナ(居飛車穴熊)」と同じ。もっとわかりにくいのでは「腹に乗る」というのもある。これは、桂の頭に玉が出て、王手がかからない形のことを言い、「ゼツ」と似た意味だ。
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★題名 『棄民たちの戦場――米軍日系人部隊の悲劇』 
★著者 橋本明
★発行 新潮社
★発刊 2009年06月30日
 国家の棄民政策を思う時、日本が満州で行なった「絶望の移民史」が脳裏に浮かぶ。同じ「棄民」というフレーズから読み出したのが本書なのだが、米国も同じ愚行をしたことを再確認する。国家は常に国策や国益を理由に棄民政策を採る。国から棄てられた民は、それを知りながらも国を信じるしかない。信じて裏切られる、それを繰り返すしかないのだろうか。

 プロローグの場面が全てを語っているかのようで、筆力がある。念入りな長期間の取材と広範囲のフィールドワークが、感傷過多にならずに書き込められている。75歳の年齢を考えると頭が下がる。

イメージ 2――太平洋戦争が終結して1年後の1946年7月15日、ワシントンの閲兵式会場にトルーマン大統領など関係者が揃い、沿道には6000人の市民が米陸軍第442歩兵連隊戦闘団の入場を待つ。
 行進してくる部隊の構成員数は極端に少なく、本来は4000人規模の連隊なのに数百人に過ぎない。背が低く、肌は黄色の日系人部隊であり「帰還兵をいまごろ迎える異常さが際立つ」中、沿道から白人の老婆の声が響き渡る。
「My children, Wellcome Home!」
 帰還兵を迎える「お帰り」の声はうねりとなり、拍手と喚声が彼らの偉業を讃えた。大統領は挨拶の中で「米国内の偏見との戦いに触れ、翌日の新聞論説は「442連隊が日系兵で編成された部隊であり、大統領特功章を授与」と報じた。
 1944年10月、フランス北東部で米軍第36師団所属第141歩兵連隊第1大隊がドイツ歩兵軍に包囲されて完全孤立した。食料、水、弾薬なしの絶望的状況であり、ラジオ放送で知った米国民は過熱した。第141連隊は1836年に創設されたアラモ連隊が原隊であり、映画「アラモの砦」ガ著名であるように、米陸軍において歴史的意味を持つ連隊だった。
「テキサス・ボーイズを助け出せ」という国民や議員の声はルーズベルト大統領を動かし、この命令は第442連隊に与えられた。
 米陸軍が「史上最も重大な10の戦闘の一つ」にあげているテキサス大隊救出作戦の幕は、こうして切って落とされたのだった。結果を先に言えば、包囲されたテキサス大隊211兵を救うため、日系兵800人が氷雨に煙るボージュで死んだ計算になる。

 1941年12月の真珠湾攻撃の後、ルーズベルト大統領は日系米人を強制移転させ、収容所に収容し、日系人を潜在的敵性人とした。
 退去通告後5日程度で、手荷物程度の所持品しか許さず、日系市民は「転住所」という捕虜収容所に隔離された。初代移民(約19万人)の一世たちは国籍がなく、彼らの子供である二世は国籍を取得している。13歳以降3年以上を日本で教育された帰米二世を含め、全米で12万6000人の日系人が、財産などを放棄し強制収容所に送り込まれた。枢軸国であったドイツ系、イタリア系米人は対象とされなかった。
 ハワイにおいては明白な差別は存在しなかったが、ハワイ二世兵士による第100大隊は日本軍相手では信用できないことから(確か)欧州戦線で酷使されたと記憶している。「ワン(1)・プカ(0)・プカ(0)」は疲弊した後に442連隊に吸収される。
 ハワイ大隊の編成後、ハワイ2900人、本土1500人を志願兵から選抜し1943年2月に第442歩兵連隊戦闘団が正式に誕生した。

イメージ 3 大隊は4個中隊で編成されるのが普通だが、第100大隊は6個中隊から成り、緒戦のイタリア戦線で多大な損害をこうむり第442連隊に組み込まれる。結果として、1連隊4大隊の通常編成とは異なり、第442連隊は5大隊で構成された。
 著者は仏ブリュイエールに赴き、住民へのインタビューのみならず激戦地となったボージュの森を歩き回る。現地レジスタンスの子息である戦史家ピエールとの出会いは、史料収集に大きく寄与したのだが、そこで吐露した著者の持論が特筆されよう。
「米国をはじめとする連合国によって息の根を止められたのは、日本人が日本人として身に備え続けていくべき価値観のコンティニュイティ(継続性)だったのではないか。(中略)英国ジャーナリストが戦後日本を評して――自由を求めて恣意・奔放に走り、義務・抑制を忘れて崖っぷちを転がり落ちている。原因は米国信仰に潜む」

 難攻不落の陣地を人海戦術の消耗戦で攻め落とす―ーこの構図は203高地で乃木大将が採った戦術であり、膨大な死傷者を生むことになる。戦闘の詳細記述はフィールドワークが奏功し、臨場感ある迫力に満ちている。この戦闘記を読み、日系兵士の勇敢さを讃えるのもいい。しかし、相手のドイツ軍は略奪や破壊や暴行を為した侵略者だと切り捨てるのには抵抗を感じる。戦争を片方の側から一面的に眺めて、勇敢さや愛国心や献身や同胞愛を鼓舞するスタイルにはどうしても馴染めない。
 本書の秀逸な点は、日系兵士の生い立ちを日系米人の強制収用から始めて、二世の間にあった対立を踏まえて、彼らが志願する動機を明確にしたことだと思う。
 二世が戦争に加わって全力を挙げて戦うことが、両親である一世の帰化権確保につながり、二世自身あるいは彼らの子孫が日系米人として正当な地位を占める道につながる。
 1946年3月に全米10箇所の収容所(戦時転住所)が閉鎖となり、日系米人の抑留は終わった。収容された総人数は12万人を超え、収容所内で生まれた新生児は5981人、死亡者は1862人を数える。
……1942年2月25日「日本人の血統を引く全ての人々に告ぐ」布告をロス郡街頭に貼り出した。48時間以内に居住地から立ち退けと命令した内容だった。


■米国では昨日付けで日系兵士を顕彰
 オバマ米大統領は5日、第2次大戦中の日系人部隊出身者に米国民最高の「議会勲章」を授与する法案に署名、同法は成立した。欧州戦線で戦った陸軍第442連隊と同第100歩兵大隊が対象。442連隊は戦闘で多数の死傷者を出し、米陸軍で最も多くの勲章を受けた部隊として知られる。同法は兵士の功績を「内にあっては人種差別との、外にあってはファシズムとの二つの戦いに身を投じ、勇敢さと国家への献身を示した」とたたえた。
 戦後65年たち、出身者が高齢となったことなどを踏まえ、日系人社会を抱えるカリフォルニア州選出のボクサー上院議員(民主)らが法案を提出、先月下旬に議会を通過した。
 彼らはイタリア、ドイツ、フランスにおいて戦い続け、ルーズベルト大統領直々の命令を受け、米軍白人兵たちでも助け出せなかった、ドイツにて包囲されていたテキサス兵212名の救出のために出動、果敢に戦い800人の犠牲を出しながらもテキサス兵の救出に成功した

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★題名 『乃木大将と日本人』(原題”NOGI”) 
★著者 S・ウォシュバン
★発行 講談社(講談社学術文庫)
★発刊 昭和55年(1980年)01月10日
 4月のイベントの後、15年戦争を振り返り戦没者への想いをまとめる中で、ふと日露戦争時の日本を思い返してみた。暴論になるのだろうが、なまじ日露戦争で日本が勝ったために悲惨な15年戦争に突入したと考えるからだ。まずは手元にあった本書を再読し、旅順攻落の模様を反芻してみた。

 米国の従軍記者が戦後に書いたものであり、全14章、文庫の体裁で90ページにしか過ぎない。旅順口攻略の司令官を拝命した時点から戦後の明治帝崩御、そして殉死までを短文でまとめているのだが、従軍記として面白いだけでなく当時(明治末期から大正)のNOGI に対する風評をビビッドに感じさせる。
 解説で「(ウォシュバンが)その著”NOGI”において、いかに真正の日本人というものの本質を、極めて精彩ある筆致をもって記述し、広く世界に紹介した」とあるように、戦記ものというよりも人間「乃木希典」を描いたエッセイといえる。
 明治37年の日露戦争で、露軍の構築した旅順要塞を攻略するために第三軍が編成され、司令官のNOGI(乃木大将)は何度も「無謀」な突撃を繰り返す。
「この1週間、将校士卒共に毫末の逡巡躊躇を見せなかった。その損害量り知るべからず、戦死者の確定数2万5000、総数は恐らく4万にも達したことであろう」
「一平卒の戦死さえ、乃木大将は肉親の不幸として感ずる人である。ましてこの旅順口攻撃戦によって与えられた苦痛にいたっては、比ぶべきものもなかった」
「生命を、本務と国家との祭壇に献げよと命じた、その沈黙の司令官の命令を、舌端にも念頭にも、問題とする者は一人もなかった。乃木大将に対する部下将兵の心持は、愛情と尊敬と崇拝との、微妙に結合したものであって、この心持なればこそ、あのようなほとんど狂信にも近き熱情をもって、喜んで絶体絶命の境に馳せようとする精神が生まれてきたのである」

 本書ではNOGI が「二〇三高地の戦略的価値」を指摘し、後援の第七師団を差し向けたことになっている。激戦が予測される地点に、残った次男(長男は緒戦で戦死)が所属する部隊を向かわせ、結果として次男も戦死することになる。
「さしも頑強な露兵は遂に退却して、勝利は日本軍の手に帰した。犠牲は果たしていかほどのものであったか、それは日本軍ならでは知る由もない。あるいは戦死1万といい、あるいは2万という」
 旅順口陥落の後、第三軍(乃木)は奉天戦に参加し「我らは旅順の乃木軍ぞ」と脅かしたという(あははは)。明治38年3月の奉天会戦に続き、法庫門でで攻撃準備する9月にポーツマス条約のニュースが伝わる。
「思うに無賠償の条約を締結したり、新占領の樺太の一尺地たりとも放擲するなどは、全軍中一人として、夢にも考えたものはなかった」
 日本に「迎合」した記述、あるいは「意訳」かとも思われる部分が多いのだが、少なくとも当時の日本の世論や世界の戦争観を米国人記者は書き残している。ただし、本書が日露戦争終結後ではなく、乃木希典の殉死後に書かれたものであることに注意したい。
 乃木の「殉死」は明治帝の崩御よりもニュース価値が高かったようで、乃木のネームバリューと東洋の野蛮な風習(ハラキリ)とが話題となったようだ。武士(サムライ)という奇妙な階級(意識)が存続し、その闘争観や価値観が欧米人にとって驚愕につながったともいえよう。

「二人の令息が南山と旅順において、祖国祭壇の犠牲となった時、将軍の既に現世に望みを絶っていたことは疑うべくもない」
「将軍既に自己の事業の終れるを感じ、疾くにも平安静寂の境に入るべきであったとして、その機会を熱望していたのである」
「いかなる国家的栄誉も、個人的私望も、祖先の樹立した古の武士道を服膺する、その鉄石の精神を童謡さすことはできなかった」
「欧米の人々、恐らくは自殺誘発の精神には同情しがたいであろう。しかしこの偉大なる将軍の死を批判せんとせば、我々自らの標準をもってせず、必ずまず将軍の宗教と、その祖先の遺風との見地からせねばならぬ」

「NOGI」は1913年(大正2年)2月にニューヨークで出版された。徳富蘇峰が序文を寄せている。
 自分は乃木大将を知っている。別に深き交際ではなかった、しかし亦た尋常一様でもなかった。

 自分は乃木大将の盲信者ではない。大将も亦た人間だ。人間は決して完全無欠の者ではない。大将の如きは、何れかと云えば直情径行の人だ。其の瑕諛相い掩わざるは勿論である。特に自分は乃木大将の先輩、若しくは儕輩の人々とも親しく往来し、その人々から乃木大将に就いて――其の長所短所に就いて――忌憚なき批判を聴いている者であった。

 併し一切を乗除して、自分は乃木大将に敬服する者の一人である。大将の責任観念、奉公観念、即ち一言にして尽くせば赤心奉皇の大精神には、随喜渇仰するを禁ずる能わざる者である。

「殉死」 司馬遼太郎

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★題名 『殉死』 
★著者 司馬遼太郎
★発行 文藝春秋
★発刊 1967年11月05日
 先月のイベントの後、つらつら考える中で手元にある「乃木大将と日本人」を再読してみる。旅順攻落の際に従軍してた米国の従軍記者が書いたものだが、邦訳されたことでも分かるように親日家の戦時記録である。なまじイベントで実写映像や映画化された映像を見たあとだけに、水師営の会見の模様など臨場感あふれて迫ってくる。
 しかし、近代国家における軍隊や軍人の在り様を考えた時、どうみてもNOGI は誉めそやされるような人物とは思えない。他にないかと図書館を探して見つけたのが、司馬遼太郎の本書であり、別の視点からNOGI について考察しているようだ。冒頭で明確にことわっているのだが……
……筆者はいわゆる乃木ファンではない。
 しかしながら大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない。ただこの人が自分の伯父かなにかであれば、閉口してその家には敬遠したにちがいない。

 以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く。
「深く考えもせず、筆者自身の思考材料として書いた」とことわり書きを入れなくてはならないのは、様々な影響を考えてのことであろうが、それだけでなく非常に解釈(理解)しにくい人物だったのではないか。


・乃木指揮下における第三軍の編成
  歩兵第一師団、第九師団、第十一師団、後備補正第一旅団、第四旅団
  野戦砲兵第二旅団、攻城特殊部隊、後備工作三個中隊ならびに兵站部
・火砲の数
  野砲108門、山砲72門、攻城砲188門
・制約された任務
  早急に旅順を陥し、満州内陸における決戦に転出せよ

 明治37年8月19日、旅順要塞への第1次強襲が実施され(総勢5万人)、6日間での死傷は1万6000人に達した。9月19日、攻撃目標を変更し二〇三高地も含めた総攻撃を行なったが、死傷3800人で成果なく敗退した。10月26日からの攻撃は二〇三高地を外したものだが、やはり死傷2800人、成果は皆無に等しい。
 この窮地を救ったのは「東京から28サンチ砲を急送」と「児玉源太郎(総参謀長)の総司令官代理」であった。児玉が戦地に向かう汽車の中で「二〇三高地を獲った」との電報が入るのだが、次いで「再び追い落とされた」と続報が来る。
(それが、乃木だ)
と、ののしりたかったであろう。乃木はいつのときもこうであり、彼が成功したいくさといえば日進戦争のときシナ兵がほとんど闘わずして逃げたときだけだったではないか。
 ようやく現地で乃木と児玉が会い、前線の穴居で一晩話し合い「児玉が第三軍の全権指揮をとる」ことになる。12月3日から重砲の陣地変容をし、4日の猛射、5日の突撃で6日には金山を占領した。日本軍の死傷は3100人、ロシア軍は5300人であった。
「例の28サンチ榴弾砲は敵の側防砲台に対し間断なく制圧射撃をくわえ、わずか30時間ほどのあいだに2300発、鉄量500トンを打ち込んだ」
「とにかく児玉の指揮に入って以来、一昼夜の歩兵戦闘のあげく、ついにこの山を奪った」

 帰国凱旋後、第三軍司令官として明治帝に拝謁した復命書には
旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長月日ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天付近ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠乏ニ依リ退路遮断ノ任務ヲ全クスルニ至ラズ。又敵騎大集団ノ我ガ左側背ニ行動スルニ至リ、コレヲ撃砕スルノ好機ヲ得ザリシハ、臣ガ終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ。
と書いており「自分の屈辱をこのように明文して奏上する勇気と醇気は、おそらく乃木以外のどの軍人にもないであろう」と司馬は評価する。
 これだけ無能で無残な戦歴の軍人なのだが、なぜ世間で高く評価されるのか、偉人扱いされるのか。司馬は分析ではなく、傍証の形で述べながら自分なりに考察してるようだ。

(明治帝への復命場面で)……と希典は読み続けてついに絶句し、うなだれ、嗚咽しはじめ、声がしだいに高くなり、他の諸将らは逆に居続けるに堪えられなくなり、上座の大山巌が一同に目配せして一時廊下へ遠慮したほどであった。かれらが座をはずした理由のひとつにはかれらは帝と希典の故人としてのかかわりの深さを知っており、この座はむしろ主従ふたりきりの感動の場にさせるべきであろうかと思ったのであろう。
――この記述から「惻隠」を感じるには無理があるだろうか。「武士」が生き残ってた時代であり、まさしく帝と希典は「君臣の関係」でなく「主従の絆」で結ばれていたのである。(司馬は本書で何度も、その主従の意識関係について記述している)

 乃木の価値観、人間観、社会観、世界観について、司馬は「陽明学」から紐解いている。
 自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動をとらない、という考え方は明治以前まで受け継がれてきたごく特殊な思想のひとつであった。希典はその系譜の末端にいた。いわゆる陽明学派であり、エド幕府はこれを危険思想とし、それを異学とし、学ぶことを喜ばなかった。この思想は江戸期の官学である朱子学のように物事に客観的態度をとり、ときに主観をもあわせつつ物事を合理的に格物致知してゆこうという立場のものではない。陽明学派にあってはおのれが是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのようにおのれが知った以上、精神に火を点じなければならず、行動を起こさねばならず、行動を起こすことによって思想は完結するのである。行動が思想の属性か思想が行動の属性かはべつとして行動をともなわぬ思想というものを極度に卑しめるものであった。
 だからこそ、明治帝が崩御した時、乃木は「殉死」という当然の行為をとることになる。明治10年の西南ノ役で、敗戦―敗走―負傷―軍旗を奪われた時から、その自責は自死につながり、帝崩御で完結できたことになる。
(ちなみに、帝国陸軍が軍旗を異常に神聖視し、そこに天皇の神聖霊が宿ったがごとくに扱うようになったキッカケだという)

「かれはもともと自分の精神の演者であった」

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★題名 『本朝無双格闘家列伝』 
★著者 夢枕獏
★発行 新潮社
★発刊 1996年11月20日(新潮文庫は平成11年12月1日刊行)
 連日のユメちゃん読破なのだ! タイトルが面白そうなので「ついで借り」の書籍なのだが、前半は予測通りにオモロイ。しかし後半になって、単なる「古典解釈」になったのが惜しいなあ。

 タイトルの「本朝無双格闘家列伝」(1996年11月20日、新潮社)に最初の意気込みが感じられる。中身は、「小説新潮」の94年5月号から96年7月号まで掲載されたものに加筆したもの。
 日本書記にある当麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)との闘いがイントロなのだが、
頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ
という記述に対して「なんという言葉の太さ」と感嘆する作家に同感する。そうなのだ、オタクでなくともこの表記にはその剛直さに感嘆するしかない。あるいは真摯な想いに、ただただ身を正すしかない。あははは、夢枕獏の文体に毒されてきたようだ。

 悪役(ヒール)と善玉(ベビーフェイス)てなプロレス用語は一般的になってるけど、作家の知識ひけらかしは参考になる。メキシコのプロレスは「ルチャ・リブレと呼ばれるのだが、スペイン語での「自由への闘い」が語源らしい。スペイン語では、善玉はリンピオ、悪役はルードとなる。
 もう一般語となった「バーリー・トゥード」はポルトガル語であって、何でもありという意味合い。その第1回は、1993年3月に米国で開催され、「一般的には”アルティメット大会”として知られるトーナメント試合」であるという。禁止事項は「眼球を抉ることと、噛みつくこと」だけ、殴る・蹴る・折る・踏みつける・突く・絞めるなど全て許される。
 このルールは古代ローマで行われた「パンクラチオン」という競技とほぼ同じらしく、「紀元前648年、第33回オリンピックから、正式種目として取り入れられた」らしい。抉る(えぐる)ことが禁止されているが、これは「人体のうちの眼、鼻の穴、肛門などの、粘膜が露出した柔らかい部分への攻撃を指す」もので、他はOKだという。チト怖いものがある。

 他にも、「シュート・マッチ(真剣勝負)」や「ギミック」「ケーフェイ」というプロレス業界用語などを解説してくれているのだが……、
「どうもケーフェイはフェイクの意味らしく、フェイクをバンド読み」したものらしい。FakeをK-faiと読み替えるのではないか?


業界の裏話ならば「プロレス至近距離の真実

プロレス用語なら「真候惇の秘宝館

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