読書まみむ〜メモ

単なる読書感想文、ただそれだけ、夏休みの宿題なのねン!

海外SF

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ロバート・F・ヤングという米国のSF作家が気になる。
あのクソ甘ったるいロマンチズムが、やけに懐かしく脳裡に入り込んでくる。

少女の社交デビュー。
オズオズと登場する少女は、期待と喜びに顔を輝かせている。
迎えるオーケストラの合奏と人々の暖かいまなざし。
そこには………

ハインライン、アシモフ、ヴォクト、スミス、他にも何人も巨匠がいた。そんな60年代、70年代のSFシーンを思い返してみたいのです。
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★題名 『異星の客』
★著者 ロバート・A・ハインライン
★発行 東京創元社(創元SF文庫)
★発刊 1969年02月25日
 本書の原題は「Stranger in a Strage Land」(1961)であり、ファンジンなどで話題になりながらも邦訳されたのは1969年と遅く、SF(や洋書)に関して定評のある早川書房でなく東京創元社から刊行された。細かいことは忘れたが、確かぁ、コリンの「賢者の石」だっけかも創元社ではなかったか、同時期だったはずだ。つまり、娯楽SF(酷い言い方だけど、そんな見方、言われ方だったのね)ではなく、哲学のジャンルに近い問題作として評価されていたように覚えている。

 69年だから、原書を読みこなすなんて無理な年齢だったが、サリンジャーやフランシスなどを必死に読んでた頃だ。戸塚にある洋書専門店に入りびたり、知りもせんのに首を横にしてたな。まだ簡単に洋書が手に入らなかった時代で、ペーパーバックでさえもいい値段をしてた。次に通ってたのが駿河台の丸善なのだが、都内で唯一、コンピュータでの検索と予約注文ができたから重宝してた。その次が麻布署の隣の何ていう書店だっけか、美術書や専門書籍が豊富だから通って、デザイン関係の書籍を購入してた。
 つまりだ、読みたくて原書を探しても手に入らず、ようやくこの文庫で「問題作」を通読することが可能となったいわく付きの本なのだ。

 でもって、読んでみての感想は中途半端なものだった。SFとしては面白いけど新たなスペキュレーションが感じられず、小説の構成も「面白い部分が端折られて、訳の分かんない天使の会話がダラダラ」と冗長で、終わり方も尻切れトンボに感じた。もちろん、ハインライン節というか、独特の不可知論は満載だし、登場人物は魅力的でドキドキハラハラも楽しませてくれる。しかし、期待が大きかった故に欲求不満が残った。
 これまでに何度も読み直しているのだが、久しぶりに読むと「上手い」というだけでなく、もう40年以上も経っているのに「現代性」を持ち続けている。そのことにあきれ返ってしまう。テーマは「宗教」ではないのだが、形而上学的な意味合いと、後半部分でのストーリー展開から、宗教の本質について考えさせられる。上記したコリン・ウィルソンの著作とセットで記憶に残っているのも当然なのだろう。
 
「うーん。火星では、なにか知る必要があるときは長老に聞いたし、長老の答えは間違ったためしがなかった。ジル、われわれの人間に長老がいないなんて、ありえることだろうか? つまり、魂がないってことだよ、われわれが分裂すると――死ぬと――ほんとうに死んでしまって、すべてが死んでなにも残らないのかい? われわれが無関心で生きているのは、それが問題にならないことだからだろうか? 火星人だったら、一度の長い瞑想に使ってしまうくらいの短い時間に、生きてあとかたもなくなってしまうからだろうか? 話してくれ、ジル、きみは人間なんだ」

 随所にハインラインの「哲学」が顔を覗かせる。知的なジイサマが若いガキンチョに「己の理解し得た現実」を解説してくれるのだが、それは教養主義的なものではないし、若者に迎合する甘言でもないし、メディアが大安売りするサマリーでもない。古今東西の哲学や宗教を「SFという自由なフィールド」で理解と咀嚼と反芻を経て、ハインラインの「洞察」として提示してくれる。
 書かれた時期によって、ハインラインの思索結果は「時代の限界」を露呈するが、その根底にある――間違ってるかも知れないがあえて表記するならば、「人類愛」であろう――彼の人間観は変わっていないように思う。皮相的な表現の裏にある「己の知性の限界」という自覚は、真の意味での「自由主義と個人主義」の構築につながっている。

「……(中略)だが、わしは誠実な芸術家なんだ。わしが書いとるものには、お客さんにまでとどいてもらいたいという意図がある。彼に効果をおよぼし、できたらあわれみとおそれをあたえたいと……あるいは少なくとも彼の退屈な時間を忘れさせようという意図がある。わしは自分ひとりの言語によって、読者からなにかをかくしたりしたことはないし、技巧とかなんとかというたわごとでほかの作家どもの賞賛を狙ったこともない。わしが欲しいのは、お客さんの賞賛であり、わしのいうことが読者にとどいたから現金がはいってくるということであり、それでなければなにも欲しくはない。芸術のための援助なんて、くそくらえだ! 政府に援助されとる芸術家というのは、無能な娼婦だよ」

「ディオニソス的の反対だ。世間ではアポロ的を穏和とか静かとか冷静さと、単純に解釈している。だがアポロ的もディオニソス的も、ひとつの銅貨の両面なのだ。小部屋でただひとり、完全にひっそりと跪いている尼僧が、春の彼岸を祝うパン・プリアプスの女司祭ども激しい陶酔にふけることもありうるのだ。陶酔というのは脳のなかでおこるもので、きまった運動に現われるものではない」
「もうひとつの誤りは、アッポロ的なものを善んとしてしまうことだ。ただ、われわれのいちばん立派な宗教が、儀式と教義においてアポロ的だからという理由だけでな。ただの偏見にすぎん」

「嫉妬は病気で、愛は健康な状態なんだ。未熟な人間はよくこれを混同したり、愛が大きければ嫉妬も強いと考える。実際はこの両者は、両立せんものなのだ。このうちのひとつの感情は、他のものをいれるゆとりがないんだ。両者が一度におこると、耐えられない混乱をまきおこしかねん。きみの悩みもそれだと、わしは認識(グロク)しとるよ」

 文明風刺、文明批評と大きく構える必要はなく、ハインラインは「個人」の思索と洞察の成果として作品を書き、そのスペキュレーションは人類愛と科学主義を並存させながら「楽観論」に彩られている。

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★題名 『銀河市民』
★著者 ロバート・A・ハインライン
★発行 早川書房(ハヤカワSF文庫)
★発刊 昭和47年(1972年)10月31日
 何冊あるのか数えたこともないが、いま手元に残ってるハインライン本だけでも20冊以上はあるだろう。復刊されなくて、実家の倉庫で雨ざらしになって処分された本も多数あるし、何回も買い直した本もある。(ふと思い出したが、創刊以来10年以上も買い続けたSFマガジンもどこに消えたのだろうか……)
 
 時間つぶしに再読しているハインラインだが、これだけ思想的に自由に、寛容と誠実さを持ち続けた「思想家」はいないと思う。大仰に思想家などと書いてしまったが、ハインラインが(上質な作品を)連作していた50年代、60年代、70年代を考えると、その頃の若者たち10〜20代は今では70〜80歳となる。戦後のアメリカの経済や政治や文化に、彼が与えた影響は大きいように思う。時代を先駆したリベラリストといってもいいだろう。
 正確にハインラインの言動を見てきたわけではなく、作品を読み進めてきただけの見解(人物評価)なのだが、彼の持つ「思考的バランスの良さ」は確実に影響を与えているだろう。

 1957年にアスタウンディング・サイエンスフィクション誌(マニア向けだっけか?)で発表された本書では、銀河宇宙世界に舞台を置いているものの「奴隷売買」をテーマにしている。誘拐され奴隷となった少年が主人公で、成長譚の形式を取りながら「自由」という概念について彼の持論を展開している。
「自分自身をすべて捧げるということが、自由に貢献するということなんだな……たとえ乞食にでも……奴隷にでも……死にでも。それによって自由は保たれていくんだ」

 奴隷売買は形を変え、スタイルを隠し、合理性を装い、経済原則を隠れ蓑にしていつの時代でも存在する。それを絶滅させるために重要なのは、法律や官憲ではなく「個人」にある。道徳や宗教や理想主義ではなく、単純に「自由」なるものを尊重する個人意識であり行動原則の確立にある。……てなハインラインの考えを代弁しているのが、本書の中に登場する乞食のバスリムだ。バスリムは主人公を奴隷から解放し、少年時代を共に暮らすことになる。
 主人公が常に「とうちゃんはどう思うか?」と問う時、彼の中にとうちゃん(バスリム)は父として存在するだけでなく、「規範」として、「哲理」として生き続けている。ここには、理想的な父子関係がある。無理な斜め読みに近いが、その観点から読み直すと「父としての在り方」なども見えてくるようだ。
(同じように、父と息子の在り方については「はぐれ雲」という秀逸なコミックもある)

「お休み、坊や」老乞食はつぶやいた。「いい夢を見るんだよ。そして、元気におやり」

(ジョン・レノンの「ビューティフル・ボーイ」が聞こえてくる)

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★題名 『栄光のスペース・アカデミー』
★著者 ロバート・A・ハインライン
★発行 早川書房(ハヤカワSF文庫)
★発刊 昭和62年(1987年)06月15日
 タイトルや主人公の設定(高校を卒業したばかりの若者)、士官学校の描写などからジュブナイルと勘違いしてしまうだろう。実際に初読の時は「ガキ向け」のSFだと思って、軽く読み飛ばした覚えがある。また、小中学生でも米国古典SFとして入門書(?)として最適ではないかと思う。まだ人類が科学技術の発達で宇宙に進出して文明的発展を限りなく続ける、という楽観的人類中心主義が信じられた時代の作品なのだ。
 訳者あとがきによれば、1948年(大戦直後だぜ)の発表であり、その後の1950年が朝鮮戦争だから、アジアがキナ臭い最中であり、「共産主義に対する自由主義の戦い」などという意味不明なアジテーションが吹き荒れている中での「軍隊賛美、軍人上等」の作品なのだ。

 人間は3つの限界を持つと思う。ひとつは「時代の限界」であり、たかが100年程度の寿命でしかない人間はその時代(価値観や文化)に制約され、いかなる優秀な知性であろうと時代を超える思想や思索を持つことはできない。もうひとつは「地域の限界」であり、生まれ育った土地の風土や慣習を意識的に乗り越えることは可能であっても、無意識に刷り込まれた何らかの規範を抹消することは難しい。三つ子の魂百まで、ということだ。最後のひとつは「家庭の限界」であって、地域の限界の中に地域社会なるものも含まれるように、「家庭」という語には両親のみならず教師や親戚なども含むことになる。つまり、人間の要素が大きい「刷り込み」であって、他者(中でも両親の影響は大きいだろう)から刷り込まれた何らかの社会観や人間観を自覚的に超越することも難しい。
 たまに、これらの「限界」を乗り越えて、すなわち既存の規範や思想を止揚するような哲人が登場することもある。こういうのは天才と言い切ってしまい、あまり相手にしない方がいい。凡人は時代や地域(国なんかだね)に合わせて、それなりの人生を送る方が幸福というものだ。

 長いエクスキューズとなったが、この作品でもってハインラインを「軍国主義者」とか「保守的好戦主義者」とか「能天気なリベラリスト」と決め付けるのは間違いなのだ。レッドパージの吹き荒れる中、時代や社会に迎合して商業主義に走ったわけでもない。純粋に、第二次大戦に従軍した老兵士が若者に対して「メッセージ」を送っているだけなのだ。この後に「宇宙の戦士」(1959年)でタカ派扱いされたりもしたが、「月は無慈悲な女王」(1966年)では革命論なども披露しており、全く自由な考え方を持つ作者であり、己にも素直に「自らの思想的成長」を露にしている。

「本当の仕事は、どう考えるかを学ぶことにある……そしてそれは、きみが他の多くのいくつかの科目を学ばなければいけないことを意味するんだ。そう、認識論、科学的方法論、意味論、言語構造学、論理・道徳のパターン、論理の多様性、動機心理学などだ。この学校じゃ、正しく思考できる人間は自動的に道徳的な……いわゆる”道徳的な”というべきかな……行動をするものだという考えを基盤としている」

「おれたちは例外なしにそれを経験するんだ……もどり道はないという発見だ。成長してゆく上での不可欠な要素なのだ」

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★題名 『いまひとたびの生』
★著者 ロバート・シルヴァーバーグ
★発行 早川書房(ハヤカワSF文庫)
★発刊 昭和52年(1977年)08月15日
 古い文庫を引っ張り出し、もう何度になるのだろうか、読み返してみる。とりわけ理由があるわけでもなく、単にこういう読書スタイルもあるということ。読んでるうちにストーリーを思い出し、あらすじよりもディテールの記述やキャラクターの表現なんぞに舌を巻く。若い頃には分からなかった暗喩や隠喩や薀蓄なんぞを発見し、作者の主張や提言などを再認識する。これはこれで、それなりの知的満足を誘発するのだ。
 50年代のシルヴァーバーグは、若書きと乱作で作品的には優れた出来ではなかった。アイデアやプロットが先行してしまい、小説としては読みがい(楽しさ)が欠けていたように思う。60年代に入り、筆致が安定したというか、読ませながら彼の世界観を味わえるゆとりみたいなものが出てきた。本書はその典型みたいなもんで、全体のバランス(あははは、量的な分配に過ぎんのだが)がいい感じで、ストーリー展開にリズムみたいなものがある。
 そして70年代に入り、充実度が高い作品を連発してSF界を驚かせておいて、1975年の引退宣言になる。そのくせ「炉の中のシェイドラック」は77年のネビュラ賞やヒューゴー賞にノミネートされるほど評価は高かった(ここんとこ、解説からの転記ね)。

 70年代の海外SFにおいて特徴的なことに、SFが持つ実験小説的側面を政治や医学や道徳や倫理や宗教などあらゆる分野で展開したことにあるだろう。それが80年代以降では、エコロジーやフェミニズムといった具体的な社会状勢と連動することになる。エクスポラレーション(外挿)だっけか、「もし……」の延長として社会や人間の変化を描き出す空想小説が、いつのまにか近未来シミュレーションに落ち着いちゃったわけだ。
 本書で主要なガジェットとなる「死者の魂の転写」は、脳移植や臓器移植が小説テーマだった時期に新しい方向を示したようだ。近代科学(電子工学)の延長とアジア精神主義(仏教の輪廻観)が結合し、そこに当時の先端心理学をトッピングする。まあ、見事な組み合わせを実現してる。なおかつ、ミステリーの要素も入れ込んでるのだから、才能の分量がどれくらいあるのか分からない作家なのだ。

 ――楽にしなさいよ、タンディがいった。あなたいつもこんなふうなの?
 ライサは、内部から潮のように励ましが送り出されてくるのを感じた。もはやタンディを口の悪い監視者だと考えなかった。タンディは関与者、協力的な実在者なのだ。この方がずっと面白い。ライサは愛らしくうごめいた。ジャックと唇を合わせた。子猫のようなういういしさと、早熟な女らしさをまぜ合わせて、身をゆだねた。これが彼女の兵器庫の中で最上の武器なのだ。タンディが導いてくれた。彼女の助けがなければ、ジャックの人ずれのしたやり方に対応できなかったかもしれない。

 臓器移植の行き着くところは人身売買であることをニーブンだったかが書いている。魂の転写にしても、そこには権力や政治がつきまとい、財力という要素が絡むことで犯罪に結びつくことになる。人間そのものが、そして社会が成熟しなければ科学技術は人類の財産とはならない。諸刃の剣であることを治世者は理解しなければならないのだが、それは無理というもの。最近でも臓器移植と脳死に関する問題が、アホな政治家の権力争いに紛れて行方不明となっている。ぬるま湯の風呂の中での「政権交代」なんぞは権力亡者だけが騒げばいいはずだ。

 欧米において、宗教の枠組みから飛び出して死生観なるものを考察する時に、当時の流行でもあったがアジア(特に仏教)が注視される。文化という意味不明な概念ではなく、文明として東西を比較する試みも、80年代から出始めたような気もするが、日本SFは形而上学的な奉公を拒否してしまった。SFという言葉が通常語に化したことで、商業主義に乗った連中にフェイズアップを阻止されたことになる。
 もう古典ということになるのだが、本書のような作品を「日本人の視点(思索)」で書いてくれるような作家は出てこないのだろうか。そのためには、それを消化(理解)できる読者層が形成されなければならないのだけど、まあ無理だろうな。

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★題名 『地球の緑の丘』
★著者 ロバート・A・ハインライン
★発行 早川書房(ハヤカワ文庫)
★発刊 昭和61年07月20日
 満を持してメモするのだが、理由は今日という日付にある。先日、何気にハインラインなんぞを読み返していたところ、中短編集(確か〜本書は復刻版だったと思う)の中で「果てしない監視 the Long Watch」が目に付いた。頭辞だっけか緒辞だっけか、冒頭の小文の日付でびっくりしてしまった。
 九隻の船が月基地を発進した。宇宙に出ると、八隻が、もっとも小さな一隻を中心にして、球形の編隊を組んだ。地球に到着するまで、その編隊は組まれたものだった。
 その小さい船には宇宙軍将官の記章がつけられていた。だが、船内に命あるものはいなかった。その船は客船ですらなく、放射性物質積載用の電波操縦ロボット船だった。この飛行にその船が運んでいたものは、1個の鉛の棺と――そして、永遠に鳴りやまぬガイガー・カウンターだけだった。
                          ――ニューヨーク・タイムズ文書保管庫
                   2009年6月17日、フィルム38、社説「10年後」より
 あははは、今日の日付なのね。そんでもって、絶対に17日になったら読書メモを書いておこうと思ったわけだ。

 ハインラインは第二次大戦を軍人として経験し、退役後の1947年にサタディ・イブニング・ポスト誌で「地球の緑の丘」を発表した。その後、短編を連続して書き続けたのだが、上記の「果てしない監視」はアメリカン・リージョン・マガジンの1949年12月号に掲載されている。
 つまり60年前に書かれたものであり、ハインラインは「60年後には、月に人類は到達し、国境を越えた宇宙軍が出来上がり、月に宇宙軍の基地が建設され、だらしない政治家に我慢できない軍人がミサイルで地球を脅し、それを一介の士官が生命を張って阻止する」と想像した。
 ハインラインは70年代になって、「宇宙の戦士」などで右翼だタカ派だと非難されたが、戦争直後にこのような作品を書いていたのだ。ここには「反戦」の思想が見受けられるし「組織(軍隊)と個人(軍人)」の拮抗を深考する姿勢がある。
「組織と個人の拮抗」なんて変な表現だが、要は「組織論理と個人原理」の矛盾であり、思想と哲学(倫理)の相克なのだ。生きるためにパンは必要だが、命の糧がなければ生きる価値はない。究極の場面で最後に残るスタンダード(基準)は何なのか、何処にあるのか――難しい問題だな。

 本書では「地球の緑の丘 The Green Hills of Earth」のほうが有名だ。宇宙航路の盲目詩人ライスリング――確か他の短編にも登場してるし、彼の作である表題の連詩は屋数のSF作家が引用している。この原詩をNETで探したのだが見つからない。原文(英語表記)で味わって見たかったのだが。
 わが生をうけし地球に
 いまひとたび立たせたまえ
 わが目をして、青空に浮く雲に
 涼しき地球の緑の丘に、安らわせたまえ

(一度書いたものを、間違って「Esp」を押してPCに喰われた。久しぶりの操作ミスだが…)

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