★題名 『死者を鞭打て』 ★著者 ギャビン・ライアル ★発行 早川書房(ミステリ文庫) ★発刊 1991年02月20日本書の読書メモはもう書いてあるように思うのだが、ダブッてもいんじゃない、読むたびに何らかの感慨を持たされてしまうのだ。 あらすじは単に、英国の元情報部員がボディガードの仕事をシクり、守るべき相手が殺された背景を探り出す。ただそれだけの話だし、登場する人物にも強力なキャラがいるわけでもない。ヒロインというか、魅力的な女が創造されてるわけでもないし、女性心理がナンタラでもない。では、何がいいんかいな? どってことない会話の中に「年季の入った響き」が感じられ、苦渋とまでいかないものの「人生の苦味」みたいなもんを味わさせてくる。英国独特のシニシズムがベースとなっているのだろうが、そこらの若造が知ったかぶりやハンチクで気取ってるわけではない。まだ若い頃の作品(初出は1972年?)なんだけど、既にスタイルが出来上がってるようだ。 「中尉は結婚してるかもしれない。大尉は結婚しているだろう。少佐は結婚しているべきだ。大佐は結婚しなければならない」彼は歌いだした。「下士官はわからない」
「下士官はクズだ。埃だ。将校のブーツの泥よりも価値がない」 「だが、やつらは生き残る」彼はだらしなく笑い、口ではバイオリンの真似をしてみせた。 どんな町にも、こうした場所はある。暗褐色のアパートメントと老人の涙目のような窓がずらりとならんだ、陰鬱でみすぼらしい街並み。ひっそりと静まりかえり動きがないのは、騒音や動きには金が必要であるからだし、笑い声や怒声がないのもそのほかの何かが必要であるからだ。かつて何物かであった時代すら忘れ、冷たいストーブの前でただベッドにもぐりこみ、本ものの眠りさえないないままに横たわり、本物とはいえない目覚めを待っているだけの地域。どんな町にも、こうした場所はある。ベルゲンにさえも。
訳者あとがきに「1980年にはじめてポケットミステリ版として刊行」とあるが、70年頃からポケミスは出るたびに買っていた。表紙の抽象画のようなデザインのバイトが数百円だったように思う、確かラーメンが3杯程度喰えた金額だった。
実家にダンボール箱で何個かあったものは処分され、学生時代の本棚のやつも処分され、結婚して子供が大きくなり処分せざるを得なくなったやつは紙袋2つ分くらいを図書館に寄贈した。いま手元にあるのはミステリの何冊かであり、あのSFコレクション(ほぼ全部)は忘却の彼方なのだ。 ライアルが邦訳されたのが遅かったせいもあるが、ポケミスで残存しているのは理由があるのだろう。文庫化されるのが待ちきれずに購入したこと、そして何度も読み返すだけの意味(価値ではない)があるからなのだろう。 フランシスの場合は文庫で全巻を揃えており、処分できなくて残存している。これも同じように、何度も読み返すだけの意味があるのだろう。 どちらも英国のミステリ作家である。 |
海外ミステリー
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★題名 『本番台本』 ★著者 ギャビン・ライアル ★発行 早川書房(ミステリ文庫) ★発刊 昭和52年(1977年)06月15日懐かしい言い草だが「航空冒険小説」だぜ、まだ英文学が日本国内で一目置かれていた頃のジャンル分けの表現だね。ル・カレなんてのは「国際謀略小説」てな感じで紹介されてた気がする。ディック・フランシスは「競馬裏幕小説」かね、フレミングは単なる「スパイ小説」だろうな、SFは「空想科学小説」という名刺で通用してた。 そういえば、ミステリも「推理小説」で大雑把に括られて、英国の伝統的な「探偵小説」は米国で「ハードボイルド」としてノレン分けされた。米国では「犯罪小説」というジャンルが急速に拡大し、「警察小説」や「医学小説」や「法曹小説(?)」などと細分化されていった。大まかに言うと「大衆小説の多様化」になるだろう。 それぞれの小説ジャンルにおいて、狭小とか第一人者と言ってもいい「先駆者」がいる。狭い知見なのだが個人的には、航空小説や英国スパイ小説となると本書の著者「ライアル」が思い浮かぶことになる。なおかつ、英国ハードボイルドの先駆者とも思っている。 フランシスの描く主人公もハドボイドドの匂いが強いが、銃や飛行機や戦争を絡ませたものになるとライアルに軍配を上げたい。反面、個人を追及する自戒や自責や自律となると、フランシスの方に分があるように思う。単なる感じ(印象)に過ぎないんだけどね。 部分的な抜粋だから、前後や文脈なしでは正確な意味が不明となるけど、下記のような「著者」が随所に登場する。皮相的であるとか冷笑的だとかペダンティズムと言いたければ言ってもいい、しかし背後に地勢を感じさせる記述だともう。 折りしくも、衆院解散で選挙日程が話題になっているけど、「まだ日本には民主主義は育っていない」と言ったばかり。マスコミが分かりやすく物語にした筋展開で、政治や経済や民主主義について消化不良のコメントが垂れ流されている。 「暴力反対」「民主主義絶対」という刷り込まれたキャッチフレーズだけが横行し、自分で考えずにマスコミが大安売りする文言「政権交代」を唱える馬鹿ども。この前は「行政改革」「自民をぶっつぶす」なんぞで踊りまくってたはずだ。 「私が信ずるか信じないかは問題じゃないのです」私は慎重に喋った。「ご参考までに申し上げると、デモクラシーというのは単なる習慣にすぎない、と思うんだ。煙草を吸ったり、酒を飲んだり、安全運転をするようにね。三権分立とか、一人一票ではないのだ。数百万人の人間が本能的に言う、<冗談じゃない、そんなことをさせてなるものか!>それだけなんだ。しかし、そのような本能が養われるのには時間がかかる。ところが、一方においては、革命が習慣なのだ」
英国や米国を民主主義先進国として憧れ、二大政党が政治の理想的な在り方だと誤解し、公益通報制度や自立支援法などと政治がオールマイティであるかと錯覚する。まだあるね、「議員立法が政治家の仕事」なんぞとほざく。そんな連中(若手政治家に多い)がTVなどでしたり顔で喋ってるのを見ると吐き気がしてくる。 まだ200年ほどしか実績の無い「民主主義」は、他の政治制度と比べて次善の制度でしかなく、まだ進化中の制度に過ぎない。その根底にある「個人主義」も、いわゆる「近代の自我が確立」してから300年がいいところ。自分の頭で考える習慣が根付く前に情報化が急速に進行してしまった。まだ混沌の真っ只中にあると思うのだ。 欧米のハードボイルド小説を読むと、主人公が頑固かつ個人主義が顕著であり、そのくせ人間(他者)に対しておおらかであることに気づく。個人を原点とすることで、他者に対しても(ある意味での)寛容が必然になるわけだ。
そのハードボイルドが日本に紹介され、独自の「ハドボイドド」になる。しかしだ、そのハドボイドドは上っ面のハードボイルド輸入というだけでなく、アジア独自の「人間主義」の色彩を加えた……、何というのだろうか、個人規範とでも言うべきものに生まれ変わっている。(と思う) 久しぶりにライアルを読み直すと、そのテンポに揺られながら普遍的とも言える「男の在り方(おおお、アンチフェミ表現にならざるを得ないのだ)」に酔いしれてしまう……やっぱ、オトコの小説なのだ。 |
★題名 『ダンシング・ベア』 ★著者 ジェイムズ・クラムリー ★発行 早川書房 ★発刊 1987年02月28日何で読んだか忘れたが、ナチスの残虐な将校が素晴らしいピアノ演奏をしたのを聞いて芸術や美に対して深い絶望を感じたユダヤ人の話がある。いかに残虐非道で、冷酷無残な人間であっても、偉大な成果(表現)を達成することはできるわけであり、そこには神は存在しないのだ。芸術には、神や善は関与することはないのだ。それは神に対してだけではなく、人間に対する絶望でもある。 クラムリーの持つ絶望や達観や諦念や悲哀は、基本的には戦争と言う個人的な経験からきたものであろうが、他にもアイリッシュ・ブルーとでも言うべき民族的気質もあるようだ。スラブの憂鬱てな言い方があったように思うが、いみじくも本書の主人公「酔いどれ探偵ミロ」はミロドラゴヴィッチというスラブ的なネーミングとなっている。 ミロの厭世的な人生観は、社会に対する絶望であると共に人間に対する嫌悪もあるようだ。他者に対して常に間を置くことで、その嫌悪を抑制しているように思える。反面、他者――特に女性に対する抑えきれない渇望もある。それは肉欲の形でしか表れてこないが、その奥底にはロマンチズムと魂の欲求がある。 ……キャロリン・フィッツジェラルドはいい女だった。顔はのっぺりしすぎていてそれほど美人とはいえなかったが、雄大な乳房はふんわかとした灰色のセーターをいまにも突き破らんばかりだったし、それより何より、自分の生き方を持っている女が三十代になって身につけるもの、知的でしゃれた精神、寛大な笑み、正直な笑い声などを身につけていた。
「女と決して朝まで過ごしちゃいけないし、同じ相手と二度寝てはいけないのだ。旅は身軽にかぎる。おまえは47歳で、余計な荷物をしょいすぎてる……」
環境問題が本書のストーリーに関係してるのだが、冒頭の一文を下記で引用しておこう。このような文章を書ける作家が、このように自然を見て感じることのできる作家が、自然を愛してないとは言えないと思う。いかに、表現されたモノと表現者は別ものといっても、やはり書かれたものから作者の人間性を信じたくなるものだ。 同じように、人間全般に対する不信や絶望があるとはいえ、人間そのものへの愛情が感じられると言うのは間違いなのだろうか。「人を殺したくない」というやわな信条からではなく、仕方なく襲ってくる相手を殺害してしまう主人公に、ヒューマニズムの片鱗を感じてしまうのは読み間違いなのか。 ……しかし、私が住んでいる、ヘル・ロリング・クリークの流れる谷あいでは、朝の風がひんやりとした小川をさざ波立たせ、黄葉して散りかかっているポプラや柳の葉をそよがせるとき、あの万物が枯れ果て凍てつく冬の中の冬、2月が植えて泣き叫ぶ声を聞くことができた。インディアンが”子供らが小屋ですすり泣く月”とい、あの2月の声を。
われわれが人生と呼ぶこの”涙の谷間”では、病人や不具者は、子牛のように元気な者がめぐまれた健康と体力を神に感謝するどころか呪ったりするのを不思議に思うものだ。しかし、丈夫であることが邪魔になることも事実あるのだ。なまじっか体力があるばかりに、喧嘩をすれば、殴られて意識を失っているのになお倒れず、余計なパンチをくらってしまう。いくら麻薬をやっても、さして健康を害さずにすんでしまう。酒を飲んで死のうとしても、みじめな失敗に終わってしまう。じつにみじめな失敗に。
本書は「酔いどれ探偵ミロ」を主人公とするシリーズの2作目になるのだが、ラストでは禁酒生活に入り、それは10年間続くことになる。52歳になり遺産相続することになった時、ミロはどのような人生を再選択することになるのか……あははは、遺産を騙し取られて、取り返すためにテキサスまで遠征するのが次作なのだ。それまで、静かにバーテンダー生活をさせておこう。人生の一休みが必要な時もある。 (本書では、両親の自殺の話も含め、幾つもの死が語られている。死の匂いが濃厚な作品なのだ) ……二人の視線が重なった――彼の瞳は、もう一つの世界に通じるあの小さい抜け穴のように暗く深かった。永遠の春が歌い、乙女の息がハチの巣のように甘くにおう世界、うなりながら飛んでくる矢に向かって、ぼんやりとした鹿が軽やかに飛び込む世界へ通じる抜け穴のように。彼は今度こそそこへ行きかかっていて、自分でもそれを承知していた。私は生き血を口にふくんだような気がした。もう一度見ると、もうすぐ死ぬんだぞとその目はいっていた。
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★題名 『ファイナル・カントリー』 ★著者 ジェイムズ・クラムリー ★発行 早川書房 ★発刊 2004年07月31日ミロが2冊出て、シュグルーが2冊出て、この2人の探偵が一緒に活躍する「明日なき二人」が出た後に本書が書かれた。酔いどれ探偵ミロが登場する4冊目の作品が本書である。(ジェイムズは昨年亡くなったらしいから最後のミロとなる) 前作に登場した獣医と一緒にテキサスで暮らすミロなのだが、遺産も取り返したし、相性のいいオナゴともめぐり合ったし、悠々自適をしてるかと思ったら「暇つぶしの私立探偵」なんぞをしてて、トラブルに巻き込まれる。 読んでいる当方に問題があったと思うのだが、このストーリーが明確に頭に入ってこない。登場人物も誰が誰であったか、扉の紹介を何度も確認する始末だ。登場人物の数は武侠小説ほどではないのだが、ニックネームや短縮形(?)が入り混じり、サブプロットを畳み掛けてくるスタイルなもんだから、混在と拡散と混乱になってしまう。 これはシリーズ継続のための凡作だな、と決め付けて読み進めていって、ようやく筋が整理されて大団円になる段階にきて「面白さ」が湧いてきた。分からなかったことが判明することにカタルシスが生じ、多数の脇役が精緻に役割分担してたことに感心する。変な表現になったが、要するに必要性や存在意義があったことに気づいたわけだ。 再度、冒頭から読み直していくと、ストーリーは紆余曲折ではなくクラムリー独特のシノプシス結構(?)であり、人物描写にもいくつかヒントが忍ばせてある。うむ、落ち着いた環境で集中して読むべき本なのだな。フルコースの料理を立ち蕎麦のようにかっ込んではいけないということだ。反省。 しかし私は彼女をしあわせにしてやれなかった。いくら学んでもダメだった。それくらいはわかっている。男はしあわせな女を不幸にすることはできるが、ふしあわせな女を幸福にすることは絶対にできないのだ。そして私は彼女の不幸についてとことんまで学んだ。その重荷がどちらにとっても負いつづけられなくなるまで。
……またつくり笑いが浮かんだ。それで思わずカッとなった。私がよく知っている臆病者の陸軍将校のつくり笑いだ。やつらは怒りに駆られて撃たれた一発のことなど知りもしない。このつくり笑いは議会で証言する企業犯罪者特有の穏やかな偽りの笑みと同じだ。辛らつで、冷笑的で、カネと腐敗の独善的な輝きを帯びた笑み、けっして死に絶えることのない笑みだった。「あなたもおわかりのように、それは当然です。そうあらねばなりません」そう言って、またくそいまいましい笑みを見せた。
「あれはツイてただけだ、坊や」私は言った。「だが、あいにくなことに、生きのびるのに最も重要な要素は運なんだ。これからやろうとしているささやかな一件で運が占める要素を極力小さくしようとおれは努めている」
エピグラフというのか、冒頭にビリー・リー・ブラマーの一文がある。訳者あとがきが丁寧に解説してくれてるのだが、「最後の」あるいは「究極の」あるいは「終局的」という意味で「ファイナル」が使われてるのか、難しいところだ。クラムリーは「終の住居」と使ったり、「二度と戻れぬ向こう側の国」という解釈もしているという。つまり、「彼岸」だな。 すべてが終わった。が、ここは私の最後の土地ではないだろう。のどの奥に罪なき者の血で苦味を増した小グマの睡液の味がまだ残っている。くたびれたハートのどこかは愛の味もまだおぼえている。ここはいっときの憩いの土地なのだろう。冷たいビールを飲むのにふさわしい暖かな土地だ。だが、私の最後の国がたとえどこであろうと、死んだとき私の灰はモンタナへ戻るはずだ。たぶん私は愛を探すのをやめたのかもしれない。あるいはやめていないかもしれない。ほんとうにパリへ行くかもしれない。そんなことは誰にもわからない。だが、二度とテキサスへ戻らないことだけははっきりとわかっていた。
※スラングなのか?
「ナンビー・パンビー Namby-Pamby」――やわで感傷的な物語を意味するらしいが、語源は不明。「ナイス・ガイが悪党と出会って、正義が勝利をおさめる。そういうクソ話のことよ」と言われて、ミロは「アガサ・クリスティーをひと山与えてやれば、モリーを拷問することになるだろうか。それともハメットの短編集を見つけてやっておしゃぶりにありつくか」と独りごちる。 |
★題名 『明日なき二人』 ★著者 ジェイムズ・クラムリー ★発行 早川書房 ★発刊 1998年08月31日海外ミステリを読んでると、かなりの作家が2人の異なる主人公でシリーズを書いてるのに気づく。キャンベル、パーネル、確かリーブスもそうだったようだし、あのクランシーも、カッスラーも書き分けることを始めてる。やはりマンネリ対策ではなく、自らの裡にある何かを表現したい(書き記したい)衝動の産物なのだろう。 片方は酔いどれ探偵ミロで「酔いどれの誇り」(1975)から「ダンシング・ベア」(1983)に続き、もう一人がジャンキー探偵シュグルーで「さらば甘き口づけ」(1978)から「友よ、戦いの果てに」(1993)につながる。本当に寡作なのだ、何年も待たなければ続きが読めない。そして、本書(1996)で2人の探偵が一緒に登場する。直近からでも3年、ミロに至っては13年ぶりの再会となる。もう主人公のキャラなんて忘却の彼方なのだ。 物語の筋立てよりも、ファンにとっては2人の探偵の過去や会話や私的状況が気になるところ。前作で登場した、獣医のベティやカーバー・Dも重要な役割を果たすし、何と弁護士秘書のホイットニーはシュグルーの妻になっている。細かなエピソードをつなげるとこれまでの経緯が明らかになるけど、決して丁寧に説明してくれない。(伝統的なハードボイルドの特徴だね) (最初のパートナー時代に殴り合いの喧嘩をして)私たちは別の道を歩くことになった。つぎにモンタナの酒場でたまたま出会ったとき、わたしは玉突きのキューで彼の右の鎖骨を砕いた。彼は傷を負い、片手しか使えなかったが、そのときはやっと引き分けにもちこんだ。翌朝、ソーンダース郡の留置所からでたとき、仲違いを続けていると厄介なことが多いとお互いに納得し合い、また昔の仲に戻った。
シュグルーが撃たれたことは前作では述べられていない。もしかして、限定300部だっけかの短編集に書かれてるのか、シュグルーものだというからのどから手が出るほど欲しい。軽く飛び回るミロに比べてシュグルーは意外と硬いし、情感に強く反応する。他者との関係性を重く受け止めるベトナム症候群でもある。 可愛いのは確かだが、昔は話しかけることさえできない可愛さだった。しかし、それが彼女の全てではない。彼女は人間として愛らしい。本当の子供ではないレスターが怒ってむっつりしていると、一所懸命に機嫌をとったり、理由もなしにただ私をきつく抱きしめたりする。とても素晴らしいことをし、寛大な心を示すので、愛されている自分がハートのない毛虫のような気分になることがある。それが女だ、おのおのがた。それが女というものだ。
数年おきの新作では登場人物のキャラ(性格、過去)なんぞ忘れてしまう。読み直しのキッカケとなった「正当なる狂気」(2005)では、どっちだったか完全に忘れてた。酔いどれミロは、例の遺産を53歳まで凍結されたスタイリストで浪費癖の「じいさま」なのだが、シュグルーよりも年長で両親が共に(時期も場所も異なるけど)自殺したために価値観がブッ飛んでる。死生観も戦争(朝鮮戦争かららしい)の影響からツッ走ってる。 才覚のない、根無し草の酔いどれの常で、私はときたま自分を、私の狂った父親と同じハイウェイの詩人、路傍の哲人とみなすことがある。その父は私にいくつかのことを教えてくれもした。人間らしくあるための芯を守るいくつかの方法を。ときには愛するものが無残な死をとげることもある。つらい気分になるだろう、いつまでも、ぐずぐずと。よくある話だ。たいていの間ぬけ野郎は、腹に一発くらっても、自分の死についてつらい思いをかみしめることさえできない。間ぬけは死ぬまで間ぬけなのだ。悲しい話だ。愛していたものの死についてつらい思いをするのは楽ではないが、決して悲しいことではない。
モンタナからテキサス、メキシコと舞台はいとも簡単に暗転する。途中でロスもあったようだが、主要な舞台と郷土性はテキサスにある。メキシコでランボーする段階からワヤヤのアップテンポとなるけど、それまでのテキサスに関する記述は秀逸だ。切り取った小さなスナップ写真が連続し、簡潔な会話や視点の変化が色彩を際立たせる。記念アルバムのようなテキサス描写になっている。
どこかに書いてあったようだが、米国ハードボイルドの特徴として「ユーモア」があるだろう。乾いた感じと適度な突っ込み――英語表現のメリットを生かしたもので、母国語だからこそ可能なものだ。日本のハドボイドドでも、意識して欠かれた記述もあるがチト鼻に付く。どうしてもマスターベーションの青臭さが抜けないのだ。なぜ万葉の時代に戻らないのか、大和言葉の中にあるおおらかさを範にすればいいのに、ハンバーガーに向かってしまう。それも腐ったピクルスを志向する。 女性客の一人が、草地を縫ってくねくね進むヘビを見つけ、そう、ご想像どおり悲鳴をあげ、バッグからS&Wのレディスミス・オートマティックをつかみだし、ガラガラヘビの頭を吹っ飛ばす。至近距離とはいえ動く標的だ。銃声と同時に、男たち全員の手に拳銃が握られている。全員、銃を携帯、というわけだ。だがすぐに銃は姿を消し、みんな大笑いをする。テキサスを離れた理由を私は思いだす。
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