大本 柏分苑

大本柏分苑のホームページはhttps://oomotomasumi.amebaownd.com/です。

ご挨拶です。

長い間お世話になりました。当方ホームページなどを作成しました。今後ともメディアが出来ない正しい情報を発信していく所存です。皆様から今までに増してご支援頂ければ幸いです。

大本柏分苑のホームページには、さらに5件のSNSがあります。
①アメーバブログ(大本柏分苑A2
②フェイスブック(大本柏分苑)
TWITTER(大本柏分苑T2
YOU TUBE(大本柏分苑)

⑤ライブドアブログ(大本柏分苑L2
上記それぞれの画像をクリックして下さい。
 
尚、ホームページのアドレスはhttps//oomotomasumi.amebaownd.com/です。今後内容の改良を加えますので、ご期待下さい。
また<大本柏分苑>という検索だけでも簡単にアクセスできます。ご利用願います。
イメージ 1

霊界物語とは?

出口王仁三郎聖師の著作は「道の栞」そのほか多くの随筆、歌集など膨大な量に及びますが、その中でも霊界物語は大本神諭とともに根本教典になっています。全81巻83冊の長大な物語であり、世界的に見ても類のない宗教教典です。
 聖師はこの物語を三日に一冊の割合で何の参考書も見ずに口述されていきました。それを考えても、決して人間業とはいえません。

大本神諭の真解書

 霊界物語は、開祖が書いた大本神諭の真解書です。大本神諭は断片的ですが、霊界物語はこれを総合的に劇化して表現したものです。

 「この物語によらなければ、教祖(すなわち開祖)の筆先の断片的(台詞書)のみにては、たうてい神界の御経綸と御意志は判るものではないのであります。」(霊界物語第12巻序文)

霊界の真相を説く

 また霊界物語には宇宙創成の時の様相、天国・地獄の情況、中有界における審判の模様など、人間にとって枢要な意味をもつ霊界の真相が描写されています。その中で人の死という通過点がどういうことなのか、また霊界という現界に近接した世界が存在する中で、人間の現界における生がいかなる意味を持つか、要するに霊界も含めた大きな宇宙の中に生きる人間の生命と人生について、深く的確な教えが示されています。

霊界物語は天国の福音を伝えるものです

 霊界物語は霊界の真相を説くとともに、「天国の福音」を現界に伝えるものです。

「ここにおいて、神は時機を考え、弥勒を世に降(くだ)し、全天界の一切をその腹中に胎蔵せしめ、それを地上の万民に諭し、天国の福音を、完全(うまら)に詳細(つばら)に示させたまふ仁慈(みろく)の御代が到来したのである。」(霊界物語第48巻第12章「西王母」)

 天国の福音とは天国の言葉であり天国の心です。それを信じそれを口にするものは天国の言葉・天国の心を自分のものとすることができるのです。それは霊魂の救済の第一歩なのです。しかし真に救われるためには、口と心だけでなく行いも出来なければなりません。言心行一致の信仰でなければ真の救済はないのです。

霊界物語は最後の審判書である

 霊界物語は最後の審判書といわれます。それは霊界物語が人の霊的救済について詳細にまた明解に手取り足取り教えているということでもあります。

 「最後の審判は、閻魔大王が罪人をさばくと同様なる形式において行はるると考へてゐる人が多いやうだが、それは違ふ。天国に入りうるものと、地獄に陥落するものとの標準を示されることである。この標準を示されてのち、各自はその自由意志によって自ら進んで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄におつる、そは各自の意志想念の如何によるのである。標準とは何か、霊界物語によって示されつつある神示そのものである。」(水鏡「霊界物語は最後の審判書なり」)

 この神示が極めて明解であるゆえに、最後の審判となりうるのです。

霊界物語によって救世主は不滅…霊界物語は聖師の肉体であり霊魂である

 よく「聖師が救世主であることは認めるが、死んでしまったら意味がない、死んだ獅子よりも生きた鼠(ねずみ)の方が偉い」という人がいますが、とんでもない間違いです。霊界物語の出現によって救世主としての聖師は不滅となったのです。

 「瑞月(聖師)が霊界物語を編纂するのも、要するに法すなわち経蔵または教典を作るので、すなはち神を生みつつあるのである。また自己の神を現し、また宣伝使といふ神を生むためである。ゆえにこの物語によって生まれたる教典も、宣伝使も、神言も、みな神であって、要するに瑞月そのものの神を生かすためであると確信している。『霊界物語』そのものはつまり瑞月の肉身であり、霊魂であり、表現である。」(霊界物語第40巻緒言)

 要するに霊界物語の存在は、聖師の肉体と霊魂が存在することと同じことなのです。
 救世主たる聖師の肉体は亡くなっても霊界物語がある限り、救世のご活動は永遠不滅です。
残暑の残る九月半ばに、EU加盟国は英国を除いた形での初の首脳会談をスロバキアで開催しました。趣旨は英国離脱後もEUの結束を図り協調していくことですが(英国の実際の離脱手続きはまだ時間がかかります)、ロシアを想定した防衛問題の他、対テロ対策、そして移民問題が主題になりました。移民は、現在EUが直面している最も深刻な問題の一つといえます。EU加盟国の中には、大国ドイツがイニシアティブを発揮して欧州各国へ移民受け入れを促し、割り当てを決めていったことへの不満があります。ハンガリーではセルビアとの国境に沿って壁を建設して移民の流入を防ぐ計画を発表し、EUの(ドイツの)親・移民政策にいわば反旗を翻しました。EU懐疑論は域内の経済格差の問題からこれまでも ( おこり )のように現れては消えたのですが、はからずも移民という外部要因によってより強く炙り出されることになりました。英国は国境を開けて域内の人の自由を定めるシェンゲン協定には加入しませんでしたが、EU離脱という国民投票の背景には、EUによる移民許容姿勢への反発があると考えられます。
欧州へ流入する移民はかつては欧州各国のアフリカ大陸への植民地政策の結果として必然的に発生しましたが、その後ヨーロッパの貧しい南部や東部の周辺から豊かな中央部へという流れも生まれました。東部ヨーロッパから流入する移民労働者が低所得者の労働機会を奪うとの懸念が、「ポーランドの配管工」という言葉でフランスでは表現されたことがあります。ヨーロッパへの移民は新しい問題ではありません。シリアやリビアといった中東・アフリカを震源地とする混乱がこれまでになかった津波のような大量の人の移動を発生させ、今後も増えることへの不安が受入れ先となる欧州各国での排斥感情を煽り、人道的、倫理的な立場からの許容論を凌駕しつつあるのです。
移民の問題は前述の「ポーランドの配管工」のように、職業機会の喪失といった経済的観点から深刻化しているのではありません。問題の本質は、国家という枠組みの中で成立している共同体の中に、外部から異種の存在、〈他者〉が大量に押し寄せてくること、それによって社会共同体の基礎である統一的な価値観が損なわれるのではないかという危機感です。その価値観は不文律であり、具体的に何であるか記述の難しいあやふやなものです。ですが、社会共同体はあやふやではあるが構成員があまねく共有していると信じている共通の価値観の上に乗っています。社会共同体とは一種の幻想と言えましょう。(ベネディクト・アンダーソンという社会学者の『幻想の共同体』という著作の中にあります。)ドイツは国内で、例えばミュンヘンのような商業都市でも移民への反発が起き、ドイツ政府はその鎮静化のために移民を工場の作業員のような末端の職に当たらせれば生産側にとっても有利になると説明していますが、そうした経済的な対策では本質的な解決にはならないと思われます。
国家という枠組みは十八世紀のフランス革命後のフランス共和国の成立を ( こう ) ( し )とする見方があります。国家は国民国家(ネーション・ステート)と言われ、人民を一つの大きな管理枠組みの中に括り、共同体の運営を効率的に行う制度であり、国家無しにはもはや社会は成立しないし、個々人も継続的に安定した生活を送ることは不可能です。グローバリゼーションは国境を消去したネットワーク化のようなイメージを与えますが、実は国家という枠組みが存在するからこそグローバリゼーションという概念が成り立ちます。そして国家は時代の流れとともに新しい課題を背負うようになりました。その一つは人道主義ですが、人道主義は一つの国家が内部でこれを遵奉し、同時に外部へ向けて慫慂 ( しょうよう )していかなければならない課題となっています。移民・難民の受け入れは人道主義的な観点から国家が積極的にこれに取り組まなければならない問題ですが、しかし移民の大量の流入が続いたとき、国民国家という社会共同体の運営が危ぶまれるのではないかという怖れを惹起します。移民と国家概念とは背反的な関係にあるとも言えます。
移民・難民を発生させる要因はガバナンス(統治)の歪みにありますが、これを正すことは根本的に必要です。開発途上国問題をテーマにした会合に出席しましたが、移民発生国のバッド・ガバナンス(悪しき統治)がヨーロッパはじめ世界に波及するグローバルな問題になってしまったこと、この問題にどのように関わるべきかといった点で多くの議論が交わされました。この議論は西洋にとって古くもあり新しくもあるテーマですが、将来日本にとっても無縁と言えない問題となるでしょう。
一つの国家という共同体の中で異種の存在を受け入れていくにはどうしたら良いでしょうか。日本は難民の受け入れが先進国の中では最も低く、国際社会の中では閉じた国と批判されています(平成二十六年度における難民民認定者数は、申請5,000人に対してわずか11名(認定率○・二%)に過ぎません)。日本という国家は人道主義的な任務を十分に果たしていないと批判されても仕方がありません。申請者の国・地域の構成や日本の地理的状況が西洋とは単純に比較はできない実情はあるのでしょうが。フランスの元大統領だったサルコジは、統合(アンテグラシオン)政策は失敗だった、同化(アシミラシオン)政策に切り替えるべきだと言っています。つまり異種の存在を共同体の成員と同じ存在に徹底的に変身させることはやはり無理だったので、せめて共同体の成員になるべく近くなるよう真似をさせよ、という考えです。具体的にどのような状態を指すのか、サルコジの発言を基に人々が持つイメージは様々であるのではないかと思います。
私は究極的な解決の鍵は言語にあると思います。その国の言葉(国語)での正しいコミュニケーションがうまくできることで、移民がその国に受け入れられるための、受け入れる側が排斥感情を持たないための必要条件であると思います。肌の色、宗教の違いが煙幕となり、この簡単な事実が見え難くなっています。言葉(国語)は国家の成立によって整備され、共同体の共通の資産になっています。国家なくしては国語は成立しないし、国語の整備がなくして国家は成り立ちません。国家とは国語であり、国家という共同幻想は国語という共通言語によって支えられているのです。フランスはじめヨーロッパでは移民から生まれた二世、三世がヨーロッパ各国を出生地としてその国民として存在しているのですが、統合されていない移民系住民が多く存在しています。彼らの共通した特徴は、例えばフランス国民であるにかかわらずフランス語での十分なコミュニケーションが取れないことです。このことが統合の(あるいは同化の)障害になっていると考えられます。
アフリカ料理で、例えばキャッサバや食用バナナをご飯代わりにして、ティラピア(魚)や鳥の野菜炒め(ヤシ油を使います)を食べます。安くて旨く、低脂質・低糖質で栄養満点です。ここにはベルギー人を始め、外国人で賑わいます。アフリカには沢山の言語が存在します。この界隈にいるアフリカ人達が交わしている言葉は、同郷の者同士であればそのお国言葉ですが、違う地域の者であればフランス語になります。給仕の女性はギニアとコートジボアールの混血で、その地域で流通しているジュラ語を話しますが、店員として客に接する場合はフランス語になります。植民地政策の帰結とも言えるのですが、ヨーロッパもアフリカも共に交わることで豊かな面を持つようになったと感じます。そしてこの華やかさは、ある空間においては同じ言語を共有するというルールの上に咲いています。
霊界物語第38巻第13章には『易に曰く、書は言を尽す能はず、言は意を尽す能はず、意は神を尽す能はず、然れ共言に非ざれば意を現す能はず、書に非ざれば言を載す能はず、抑も聖賢の言、偉人君子の行、忠臣義士の偉挙、貞女節婦の美伝、悉く文字に依って伝へらるるものである。』文字というものが世の中において不可欠だと述べているのですが、 ( ふ ) ( えん )すれば、言葉、言語というものが世の中の統一には無くてはならないものだと解釈できます。世界各国で無数の言語が国語として成立していますが、グローバル化の世の中でこそ国語の重要性は高まっています。国民国家という共同体のアイデンティティの淵源は国語にこそあるからです。
霊界物語は、生硬でとても格式の高い散文的記述と、柔らかくリズミカルな口語表現的記述よって織りなされていますが、硬軟併せ持つ日本語の特質がとてもよく生かされている優れた文章群であることを教えられます。第38巻から引き続き引用するとすれば、例えば次のような素晴らしい風景描写によって、王仁三郎聖師が文筆者としても持っていた美意識の高みに感銘せざるを得ません。教祖及び王仁三郎聖師一行が沓島に渡航した際の描写です。『埠頭の万灯は海水に映じて其色赤く麗しく、港門の潮水は緑色をなし、海湾浪静にして磨ける鏡の如く、百鳥群がり飛んで磯端静に、青松浜頭に列なり梢を垂れ得も云はれぬ月夜の景色を眺めつつ、……頭の上にも足の下にも、銀河が横って其真中を敏鎌の様に冴えた月が静かに流れて、海の果で合するかと疑はれるばかりであった。』また『屏風を立てた様な岩や書籍を積み重ねた様な岩立ち並び、竜飛び虎馳る如き不思議の岩が海中に立っている。少しく舟を西北へ進めると、一望肝を消すの断巌、一瞻胸を轟かすの碧潮に鯛魚の群れをなして縦に泳ぎ、横に潜み、翠紅、色交々乱れて恰も錦綾の如く、感賞久しうして帰る事を忘れるに至る。』
王仁三郎聖師の記述する日本語表現は常人には真似のできない質の高いもので、日本語のテキストとしても推奨されるべきものと思います。王仁三郎聖師は、霊界物語の各所に表現を凝らし、読者に日本人として日本語能力の向上も施そうとしたのだと考えられます。王仁三郎聖師が求めたのは、一つの漢字の登用にも美を感じること、表現を味読堪能し、できれば暗記することであろうと思います。選択された字と字句の組み合わせ、連なりの妙美を目で味わい、また音読することで日本語特有の調子に習熟せよ、と諭されたのではないでしょうか。言霊とはそのような過程を経てはじめて権能を発揮するに至るのではないかと考えます。日本語という奥深く洗練された言語を国語として持つ日本人として生まれたことは幸いです。
現在ヨーロッパで最大の問題となり、将来日本においても大きな問題となるであろう移民の問題は、ホームカントリーの言葉の徹底的な推奨と学習という観点からしかおそらく解決ができないのはないかと思います。社会共同体が〈他者〉を軋轢なく需要できるための要諦 ( ようてい )は、〈他者〉がその社会共同体の言語を共有することだからです。一方で、どの国民も自国の言語を捨てることはできないし、捨てるよう抑圧することはできません。アルフォンス・ドーデというフランスの作家に『最後の授業』という短編小説があります。晋仏戦争でフランスがプロシャに負けたためアルザス地方のある村がプロシャ領になり、村の小学校の先生がフランス語で授業をするのは今日が最後ですと子供達に告げる、国語の使用を抑圧される悲壮を描いたものです。移民の母国語を尊重しながら、同時に受入れ国の国語を第二の母国語として習熟を促し支援すること(そのために国家が財政上の支援を行うこと)、それが移民問題を解決する方策だと思います。優美で繊細な日本語が広く多くの外国の人々に学ばれることは日本人としても誇りとなるでしょう。それが〈他者〉との共存を可能にもするのです。「言向け和す」とはまさにそのことなのではないか。欧州の移民問題を日々耳目にするときに思います。

[ すべて表示 ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事