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群馬県みなかみ町、旧三国街道「須川の宿」と、「たくみの里」に行きました。
え?また、旧街道と宿場町? そうですね、私もいささか飽きてきました。 でも、ここはちょっと面白いです。 旧街道の「宿場通り」を含めた、周辺約1〜2km程度の範囲を「たくみの里」として整備し、自然や人々の暮らしを生かした、体験型のテーマパークのようになっています。 道の駅が隣接し、駐車場の心配もありません。 「宿場通り」は、道幅なども江戸時代のままで、200年前の本陣の門がまだ残っています。 水路も江戸時代のものだそうです。 そのほか何軒か古い建物があります。(古いと言っても、江戸時代の物ではないと思いますが) また、NPO法人の運営する、たくさんの体験工房があります。 例えば、木工、わら細工、竹細工、手すき和紙、藍染め・・・・・ これらの施設は、古民家を利用しています。 これは、「木織の家」
木を使った裂き織りなどの体験ができるそうです。
これはパン屋さん
雑貨屋さん
ちょっと足を延ばせば、りんご畑や田圃。その横にはコスモスが咲いて・・・ 牧歌的な農村が広がります。 野仏もあちこちにあって、野仏めぐりも楽しい。
この蜂、一所懸命にりんごを食べていました。
のんびりと時間をかけて楽しみたい所ですね。
「たくみの里」のホームページはこちらです。
せっかくですから、三国街道のことを少々・・・ 江戸を出た旧中山道から、高崎で分かれて新潟の寺泊まで続いているのが「三国街道」です。 大体、今の国道17号線ですね。 佐渡で産出された金銀を、ここを通って運んだこともあるそうですが、当時治安が悪く、山賊が多かったので、実際は木曽の方から中山道を通って運ばれることが多かったそうです。 この門が、200年以上たっている、本陣の門。 (昭和10年に台風で倒れたので、その時に古材をすべて使って再建された) 本陣は失われていますが、今は、ここに資料館があります。 |
群馬県
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国道18号線旧道を、横川・坂本の方向から登って行きました。
いくつかのカーブを過ぎて、道路が広くなったところに7〜8台の車が停まっていました。 ここかな? 車を置いて少し歩くと・・・・・ 巨大なレンガのアーチが目に飛び込んで、びっくり! 上を歩いている人がいるのですが、見えますか?
橋の大きさがお分かりいただけるかと・・・・ このアーチ橋は、通称「めがね橋」 川からの高さ31.39m、全長91.06m 旧国鉄信越本線横川駅〜 軽井沢駅間の橋梁の一つです。 碓氷川に架かるレンガ造りの 4 連アーチ橋で、碓氷峠の代表的な建造物であり、同区間がアプト式鉄道時代に使われていました。 当時、高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、ここだけが未開通でした。 そのため急ピッチで工事が進められ、1893年4月に着工、24時間体制の突貫工事で、同年12月にに竣工。 工費は、運搬費を除いて25,987円でした。 使用したレンガは200万個に及ぶそうです。 さらに翌1894年に耐震補強のため橋脚・アーチ部の双方に対する大がかりな補強工事をしました。 (平成6〜7年、日本土木学会の調査が行われ、現在の安全性も確認されています。) その後信越本線電化、1963年に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用されました。 現存するレンガ造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに重要文化財に指定されました。 また、世界遺産への登録を目指し、暫定リストに入っています。(2007年6月)
個人的に、とても心残りなこと・・・・・
私が見た資料では、横川駅の近くにある鉄道文化むらからのツアーでのみ、この橋梁の上を歩ける・・・とありました。 事前の申し込みが必要・・・と。 それを鵜呑みにして現地でよく確かめませんでしたが、今はこの橋の裏に階段があって、いつでもだれでも登ってこの上を歩けるのです。 ああ、残念! 歩きたかった。 「碓氷峠鉄道施設」として重要文化財に指定されている他の橋のうち、第四橋梁と第五橋梁
第三橋梁より軽井沢側にあります。
第四・第五橋梁に目を向ける人はいませんでしたが、これらの橋もとても重厚感があります。
森の中でしっかりと存在感を主張して、何かを語っているように、私は思いました。 |
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現在の群馬県安中市松井田町坂本にあった、旧中山道の宿場町を訪ねました。
JR信越本線横川駅の近くで、前の記事に書いた碓氷関所から、碓氷バイパスでない方の国道18号線を2kmほど軽井沢方向に行ったところにあります。 中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、本陣と脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒程の、比較的大きな宿場でした。 かぎやです。
現在の坂本宿は建て替えが進み、当時の建物が少なくなってきている中、「かぎや」は数少ない古くからの建物として貴重な存在です。 約370年前、高崎藩の納戸役鍵番を勤めたていた武井幸右衛門が坂本宿に移り住み、旅籠の経営を始めました。 IターンかUターンか分かりませんが、今でいう脱サラですね。 これが「かぎや」の発祥ですが、元の職業が鍵番だったので、屋号を「かぎや」とした、とのことです。 建物は、木造2階建て、切妻、妻入り、瓦葺き、陰になって見えませんが町屋建築では珍しい大きな懸魚が特徴で、旅籠らしい出格子や屋根看板なども見られます。 本陣佐藤家跡です。 坂本宿は背後に碓氷峠を控え、前に碓氷関所があった為、宿泊や休憩に利用する人達が多く、特に参勤交代ではほとんどの大名がここで宿泊しました。 そのため、本陣が二軒、脇本陣も二軒設けられていました。 佐藤本陣は上の本陣とも呼ばれ、街道沿いに建っていましたが、当時の建物は今はもう失われています。 この写真の建物は、同じ場所に建てられた、明治34年建築の旅籠・小竹屋です。 もう一軒の金井本陣は皇女和宮が宿泊した由緒ある建物でしたが、この建物もすでになく、現在は民家になっています。 時とともにどんどん変貌を遂げる街並み、形のあるものはいつしか滅びる・・・と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、せめて、人の心は滅びませんように・・・
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群馬県安中市にある、旧中山道・碓氷の関所に行きました
峠の釜めしで有名な、JR信越本線横川駅の近くにあります。 横川駅は、長野新幹線が開業した1997年10月以降、信越本線の高崎方面からの終着駅です。 横川駅の隣には、鉄道文化むらがあり、たくさんのお客さんでにぎわっていました。 旧中山道は、鉄道文化むらを越えてすぐのところを通っています。 しかし、文化むらの賑わいとは別世界のように、静かなたたずまいでした。 関所のおこりは、昌泰2年(899年)醍醐天皇の時代、盗賊を取り締まるために碓氷坂に設けられたのが最初と言われています。 江戸期になって、もともと中世に関所が置かれていた場所の近くに、仮番所が作られました。 しかし、より地形的に堅固な上横川に関所を移し、宝永5年(1708年)7月に碓氷関所と称しました。 番頭2名、平番3名、同心5名、中間4名、箱番4名、女改め1名が詰めていました。 江戸時代、箱根関所とともに最も重要な関所とされていましたが、1869年(明治2年)の太政官布告により、他の関所とともに廃止されました。 東門 1955年(昭和30年)に群馬県指定文化財に登録され、1959年(昭和34年)、柱や門など当時の部材(総ケヤキ材)を使って東門が復元されました。 ただし、当時の場所ではなく、番所の跡に復元されました。 当時の関所の建物は現存しません。 門の向こうに見えているのは、碓氷関史料館で、予約をすれば見学可能だそうです。 おじぎ石 旅人は、この石に手をついて役人におじきをし、通行手形を差し出して通行の許可を受けました。 |
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富岡製糸場は、群馬県富岡市にある日本初の器械製糸工場です。
官営模範工場の一つであり、明治5年10月4日(1872年)に操業を開始しました。 アーチの中央に「明治五年」と書かれたプレートがあるのですが、ご覧いただけるでしょうか?
開国直後の日本にとって、利益が期待された輸出品は茶と絹(生糸)でしたが、絹はフランスやイタリアよりも品質の面で劣ると評されていました。 このため、これらの国々と同様に大規模な器械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが、殖産興業推進のためには重要だと考えました。 明治政府は、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナ(Paul Brunat)の指導でフランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入し、養蚕業の盛んな富岡に日本初の器械製糸工場を設置しました。 当時は世界でも有数の規模であり、数百人の女工さんが日本全国から集められました。 女工さんの労働環境は充実しており、六工社など後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たしたそうです。 (六工社・・・ 富岡製糸場にならって1884年に長野県に作られた、日本で最初の民間の製糸場) 契約の切れたブリューナさんは帰国し、明治8年に日本人による経営に移り、明治26年に民間に払い下げられました。 昭和14年(1939年)には片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となり、昭和62年(1987年)3月5日まで約115年間操業を続けました。 最後の所有者は、諏訪に温泉施設である片倉館を建てた、あの片倉さんです。 (現在は、富岡市の所有です) 女工さんというと暗いイメージがありませんか? 製糸場側のボランティアガイドの方からお聞きした話ですが、当時は貧しい田舎にいて食べるものもないような暮らしをしているより、工場に働きに出た方がよほどいい・・・と、思われていたそうです。 清潔な寝る所もあるし、食べ物にも困らない。お給金ももらえる。 病気になったらお医者様に診てもらえるし、学校にも行かせてもらえる。 むしろ花形の職業だった・・・と。
「ああ、野麦峠」で描かれているイメージとは少し違うように思います。 敷地内にあった、片倉診療所跡です。
ブリュ−ナさんが暮らしていた、ブリューナ館。
氏の帰国後は、女工さんの夜学校、片倉富岡高校の校舎などに使われました。
一つ、面白いエピソードを・・・ 最初、女工さんがなかなか集まらなかった、そのわけは、フランス人の飲む赤ワインを見て、あれは「血」だと誤解し、あそこに行ったら生き血を抜かれる・・・という噂が広まったためだそうです。 これが、ドラキュラのようなフランス人技術者のための宿舎。
明治6年に建てられ、二階には貴賓室もあるそうです。
現在は事務所として使われています。
操糸場(そうしじょう)内の様子
この機械が、休むことなく動き続けていたんですね。
透明のシートがかかっていたので、ちょっと不鮮明な画像ですが・・・ この、富岡製糸場は、世界遺産登録を目指しています。 元・置繭所(おきまゆじょ)…繭の倉庫です。 空調、明々としたディスプレー、右には売店。 ここに関しては私は違和感を覚えます。 ボランティアガイドの方に、「世界遺産に登録されたら、これらは撤去するのか」とお尋ねしたら、このまま・・・とのこと。 以上、富岡製糸場探訪記でした。
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