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5月19日に行った滋賀県近江八幡市の続きです。
天正13年(1885年)、豊臣秀次によって八幡城が築城され、時を同じくして、八幡浦(今の八幡堀)は構築されました。 琵琶湖につながる重要な運河で、堅田・大津とともに琵琶湖の三大港と言われ、近江商人の活躍を支えました。 白雲館 明治10年(1877年)、近江商人など民間の人の力によって建設された学校です。 お米一俵1円34銭の時代に、6000円かけて建てられました。 明治10年に、男子生徒115人、女子生徒117人、計232人が在籍したと記録に残っているそうです。 学校としての役目を終えた後は、役場・郡役所・信用金庫などに使われたそうです。 いろいろ転用されているので、内部は学校の面影はありませんでした。 |
滋賀県
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急に思い立って、近江八幡市に行って来ました。
街を歩いていて目に着いたのが、近江兄弟社資料館。 あの、メンソレータムの会社ですね。 アメリカのメンソレータム社から、日本での販売権を得て1920年に創業。 後に製造権も得て国内で生産を開始し、爆発的に売れました。 小さな一室だけの資料館ですが、こんなものが展示してありました。 近江兄弟社で、コレクションしてたんですね。 こちらは、近江兄弟社の歴代の製品。 懐かしいものもありますね。 うちにも二つ三つあります。 近江兄弟社、倒産しましたよね。 私は何かにつけてメンソレータムを使っていたので良く覚えているのですが、メンソレータムの販売権をロート製薬に売ったはず。 その後、近江兄弟社からはメンタームという名前で出ましたよね。 一時期、実家には近江兄弟社のメンソレータムと、ロート製薬のメンソレータムと、近江兄弟社のメンタームが混在していました。 今は、ロート製薬のメンソレータムと近江兄弟社のメンタームが販売されていますが、私はいつも近江兄弟社のを買います。 いろいろ苦労したんだな…と、応援したい気持ちもあるし、少しお安いし… |
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滋賀県北西部に不思議な集落があります。
時の流れが止まったような集落。
人の営みがひっそりと、しかし確実に行われている集落。
伝統的建造物群保存地区に指定されているわけではありません。
でも、こんな集落が今も生きているのです。
伝統的建造物群保存地区に指定される道を選ばず、人々は静かな暮らしを望んでおられるようです。
・・・などと言いながら、アップしてるんですけどね。
マナーを守り、静かにそっと見せていただく気持ちが大切でしょう。
土地の方に出会ったら、挨拶くらいはすべきだとも思います。
しかし・・・・・挨拶しようにも、どなたにもお会いしませんでした。
そんな、静かな集落です。
ここには、在原業平にまつわる伝説があります。
在原業平(ありわらの なりひら 825年 - 880年)は、平安時代初期の貴族・歌人。
平城天皇の孫で、官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。
六歌仙・三十六歌仙の一人で、『伊勢物語』の主人公であると古くから言われています。
業平がモデルと言われる人物はさまざまな物語や文献に登場していて、 業平に関連した伝説は今も各地に伝わっています。
東京都墨田区にある東武鉄道の駅は、今は「とうきょうスカイツリー駅」に変わりましたが、ついこの間まで「業平橋駅」でした。
他に、埼玉県春日部市、兵庫県芦屋市、奈良県斑鳩町にも「業平橋」はあるそうです。
東京都墨田区には「言問橋」というのもあって、これも業平の和歌に由来しているとか。
他にもあちこちに伝説はあるのですが、そのなかのひとつがこの集落で、在原業平が晩年に隠遁したという伝説があり、業平の墓と伝えられる塔があります。
集落の中心から東のはずれに行くと、小さな看板がありました。
たぶん、もっと高いところに取り付けられていたのだと思いますが、石の上に置いてありました。
山道を登って行くと
杉木立に囲まれてひっそりと、在原業平の墓と伝えられる、小さな塔がありました。
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米原にて、街道歩きを少々・・・
私、誤解してました。
米原宿は、「中山道」にあると思っていたのです。
ところが、米原宿は「北国(ほっこく)街道」の宿場でした。
北国街道は、米原の手前(京寄り)、彦根市の鳥居本(とりいもと)で中山道から分かれます。
中山道は、やや東に向きを変えて北上、番場(ばんば)を経て醒井宿に向かいます。
鳥居本で分岐した北国街道は、ほぼ真っ直ぐに北上し、米原を通り、長浜・木之本方面へ・・・
そして栃ノ木峠を超えて、
北国街道米原宿で見つけた、歴史を感じる建物。
米原宿のはずれの分かれ道。
左が北国街道です。
右にも趣のある建物が続きますが、正式な街道ではなく、中山道番場宿への連絡路です。
分岐点にあった道標
看板によると、江戸時代後期の弘化三年(1846年)に再建とされた書いてあるそうです。
「右中山道」の下には、「はん八」「さめかゐ」 ⇒ 「番場」「醒井」
「左北陸道」の下には、「なかはま」「きのもと」 ⇒ 「長浜」「木之本」
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滋賀県米原市の「青岸寺」の裏に、太尾山に登る遊歩道(?)登山道(?)はあります。
(遊歩道と言うには急だし、登山道と言うにはきれいに整備されています。)
★が、青岸寺です。 こちらに青岸寺の記事があるので、どうぞご覧ください。
青岸寺から、A→B→Cと歩きました。
Cから少し戻って湯谷神社に下山するのが正しいコースですが、戻るのがいやだったゆうは、そのまま進んで大変な目にあいました。
詳しくは語りますまい。
太尾山城は、歴史をたどれば南北朝に遡るお城で、佐々木氏が近江の守護に任ぜられた時に築城したと伝えられます。
鎌倉時代に京極氏の居城となり、その後、京極・浅井氏と六角氏との勢力争いが繰り返されます。
そして1573年、織田信長に攻め落とされます。
掲げられていた看板を写してきたもので、かなり汚れていますが、この地図でお分かりのようにやせた尾根の北と南に主郭があります。
(BとCは一番上の図に対応しています。)
青岸寺の駐車場から登り始めます。
登り始めは急ではありますが、しっかり整備されています。
尾根に登りきると、絶景かな。
琵琶湖と多景島(たけしま・・ほくろみたいに小さく写っている島です)、右の方に米原駅と東海道本線・東海道新幹線などが見えます。
あ、新幹線も写ってる!
一枚目の図のAの地点。
その昔、盗人がこの岩陰に隠れ住んで村人を脅かしたという言い伝えがあります。
郭跡
とても狭いです。
ここにどんな郭が建っていたのでしょう。
北城址(地図B地点)標高254.3m
北に土塁を巡らせた主郭と、南に三段の曲輪があり、さらに主郭北側の急斜面直下に土塁に囲まれた小曲輪があります。
(興味がおありでしたら、二枚目の地図と照らし合わせてください。)
この小曲輪の敷地全体から礎石建物が見つかっています。 また、土師器皿をはじめ、中国製の青花と呼ばれる染付け磁器、白磁などが出土しています。
ここから下って、南城址に向かいます。
歩きやすい、こんな道が続きます。
しばらく行くと、「堀切り」が二か所ありました。
「堀切り」とは、尾根筋を切断して敵を食い止めるもの。
北城址、南城址とも中心郭の周囲には土塁がありました。
この土塁は、盛土されたものではなく削り出して作られたものだそうです。
南城址(地図C地点)標高242.2m
方形の主郭を中心に尾根筋を階段状に削って郭を配置。 南北端の尾根には巨大な堀切りがありました。
主郭からは四間×四間以上の礎石建物が見つかり、櫓台だったと考えられる二間×三間の礎石建物もありました。 多くの器・皿や擂鉢、中国製白磁器などが出土し、この山上で生活していたと考えられます。
かくして、楽しい山歩きは終わりました。
二つの城址のあったところを下から眺めると、こんな感じです。
左が北城址、右が南城址。
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