気になる石碑
宮崎町シリーズで一度掲載した石碑の写真だがよくよく読んでみると興味の湧く
内容だったので調べてみた。
ここ2・3年くらい前から地元を含めて東北の歴史に興味を覚え始めたのだが、
歴史や英語は学生時代に点数の稼げる科目という感覚で深く掘り下げようと云う
意識はなかったかも知れない。
最近、宮城県内の市町村を探索するようになり、なぜか地域の歴史に一歩踏み
込んでみるといっぱいの“何か”が埋もれていることが分かるようになってきた。
その中でも、宮崎町のこの石碑は「この文章を読んで勉強しなさい、もっと!」と、
云っているような気がする。
切込沿革史。 左の写真を白黒反転させて読み易くしてみた。
石碑の文章です・・・↓・・・
「歴史の道」 “ 黒曜の道 ”“切籠の里”
原始古代、切込は温暖な気候が続いて、山の幸、川の幸の豊穣を共産し、天恵のまほろば、一大平和郷が築かれていた。
上流の河岸産出の稀に見る貴石「黒曜石」は、縄文から古代にかけ、五世紀には急激に供給先のエリアを拡大し、北は水沢、南は村田と、徑百キロ余りの流通経路の広域化が各地での考古資料として確認されてる。ゆえに、切込部族は古代から 永く大きく栄えていた。
地図で黒曜石の供給範囲を作ってみた。
黒曜石は長野県の和田峠程度(あとは北海道内陸部)しか知らなかった!
更に白鳥伝説を伴って、タタラ産鉄族が烏川・澄川・二ツ石川の上流域で製鉄が始まり、武器農具をもととした戦力の充実が彼我ともに漲り、八世紀、多賀城を起点とする朝廷軍の侵攻が始まった。将軍“東人”は、秋田への軍用道の開索のため、六千の兵馬を率い、切込圏の出羽街道(台の原縄文古道)を大室塞に向かって進軍した。
大室は山形県尾花沢市のこと、昔は玉野と呼ばれていたのですね。
加美郡より出羽国最上郡玉野に至る八十里と続日本紀に書かれているので、80里を現在の
距離にすると、約40km程度なのでしょうか、ルートを考えて線をひいてみた。
切込は、度重なる侵攻に備えて切込城を本城に、右に三方柵、 旭 左に大森砦を布陣し良く守った。里内より産出する金銀銅鉄馬漆の産出はそれを助けた。奥羽の夷将安倍氏一族の城主・清春の息女そとわ姫は、常に陣頭に立ち、馬上大薙刀を振るって、朝廷軍を悩ましたしたが、天喜康平年、義家の再度の猛攻に力尽きて姫は西峠の“長峯”に散華した。後年、里人たちは、姫を偲んで“そとわ長峯”と呼んでいる。散逸した城のほとりに旭壇・軍勢森・一生(夷将)の壇の、三つの古墳が昔の伝えと名残を止めている。
安倍氏滅亡の後、平泉藤原氏の切込での金山開発とそのルートは語り継がれている。
天正十九年、政宗に攻められた宮埼城は落ち、城主民部は切込楢埼の地下人左馬之介の案内で、霧の切込路を脱出し、秋田由利に逃れた。
慶長年、伊達藩宮崎領主・牧野大蔵は、諸鉱山を盛んにし、殊更に鉛山の増産に力した。元和元年の大坂合戦には鉄炮隊長として切込と長樋で増産した鉛の弾丸で活躍し、徳川・伊達家安泰の大手柄を挙げた。寛永八年には、田代・寒風沢・軽井沢に国境警備の番所を設置した。承応元年藩士石母田長門は、切込に番所を設置し、通行と物資流通の監視を強化し、後に十分一に移設した。
鉱山の発達に伴い、陶石も発見され、城山の北要害の傾斜地に十基近くの登窯を築き、磁器生産の盛況をみた。後に伊達藩窯となり切込は鉱山と焼物の町として殷賑を極めた。
なお、切込に関連者の中に、林子平・只野真葛・小野寺鳳谷・星武左衛門・曽根良直・志賀直哉等の著名人の名が記されている・・・。
今はのどかな田園風景が広がる宮崎町周辺ですが建物跡が残っていれば歴史的建造物群で
脚光を浴びたでしょうね♪
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