亜炭記念館 校門を入り左手に講堂、正面に校庭があり右手に校舎の
東仙台小学校。
その講堂の横に亜炭が積まれている小屋があり、ストーブ当番の
生徒が二人で亜炭小屋にバランスの悪いバケツを持って取りに行き
それを教室に持ち帰りストーブにくべる。
・・・(懐かしいですね、“焼べる”) ・・・(笑)
今は使われていない“亜炭”、
三本木の道の駅にスタンプを押しに行った時、同じ敷地内に
「三本木亜炭記念館」があり“ドでかい亜炭柱”が展示されていた。
釜神様が“手を触れるなよ!”
という顔をして護っている。
三本木亜炭、日本一だったのですね。
そう云えば、
中学・高校と10キロマラソンが毎年秋に実施され、東二番丁の校舎から
スタートして青葉城経由で八木山のつりばし・・・
(現在は立派な橋に変身しているが)その吊り橋を渡る時、数ヵ所
亜炭坑だった穴跡が有ったことを思い出した。
地図をクリックでスクロール地図になります。
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宮城県の歴史
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新田柵跡見張り台の柱穴か 先週田尻町にある蕪栗沼を経由して裏道から田尻駅方面に走ると
奈良・平安時代の遺跡や縄文時代の遺跡などのがあり、「この周辺は
遺跡が多いのですよ」とhiroさんに教えてもらった。
先日、読売新聞に「新田柵跡推定地」で“見張り台の柱穴か”の
タイトルで記事が掲載されていた。
新田柵というので新田駅周辺の高台にそう云えば縄文時代の遺跡が
あるので“あの周辺かな?」と勝手に推測していたが、全く違っていて
田尻町にあったのですね。知識がないと云う事は怖いものです。
地図で確認してみると、城柵が東西に並んでいるように見えるので
対蝦夷の防衛ラインが敷かれていたのでしょうか。
新聞記事には5ヵ所の城柵となっていますが実際は7ヵ所ですね。
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七ヶ宿の古屋館跡 道の駅スタンプ集めで東奔西走していると、興味深い看板に出会う。
歴女は産直品売場に直行だが史跡説明書きにも目が行くようになった
高畠に行く途中、滑津大滝のある“七ヶ宿旬の市”に立ち寄って、歴女は
産直品売場、わたしは駐車場をぶらぶらしていると「古屋館跡」の説明書きが
あったので読んでみると、初代政宗が高畠方面に攻める時白石川を挟んだ
向かい側の山に古屋館を造って越冬したという。
・・・よくよく見ると手を加えたような形跡が見受けらる。
古屋館をきっかけに伊達政宗のご先祖さまが移動したルートを調べてみると
福島県の梁川城から桑折町の西山城へ移り、その後山形県の高畠方面に
攻め込んで高畠、そして米沢に築城したんですね。
その後、会津若松を手に入れたものの小田原参陣に遅れたことで秀吉から
国替を命ぜられ岩出山へ!(Keiさん、この表現でどうでしょう)
その後仙台へ来て現在の仙台市の土台を築いた。
この一年、いろいろ旅をしたがチョットだけアタマの中の歴史という
引出しが整理整頓できてきました。
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滑津大滝は説明書きの真後ろにあるのだが、長い階段を下りて行かないと
見られないし時間がないのでパスしました♪
・・・以前に撮った写真がないか探したらありました
七ヶ宿・旬の市で買ったのは、これです。
“全国米・食味鑑定コンクール受賞米:“七ヶ宿源流米”でした。
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桃生城跡荒れ放題の記事 数日前、地元新聞の河北新報に“桃生城跡荒れ放題”の記事!
古代多賀城の関連遺跡で、国の史跡指定を目指す機運もあった
「桃生城跡」(石巻市)が、雑草が生い茂って荒れ放題で放置。
困りましたね、“セイタカアワダチソウ畑”になっている
2001年に終了した県の発掘調査後地元の人たちがボランティアで
草刈りをしていたが、高齢化が進んで荒れ放題!
桃生城跡は県の調査で規模が判明して、国の史跡指定を
目指したが、土地の多くが私有地で、地権者から許可を得る
手続きが煩雑で、現在は一般埋蔵文化財扱いで県や市の
管理もされていない・・・ム〜、どうにかならないものですかね・・・
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桃生城跡・・・完成は760年、747年牡鹿郡の蝦夷などに
よって焼き打ちされ蝦夷が律令国家に反旗を
翻した象徴である・・・と。
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幕末の仙台を語ろう!・・・荒蝦夷主催 数日前に地元新聞「河北新報」に「幕末の仙台を語ろう」のイベント紹介の
記事が掲載されていた。主催は荒蝦夷、会場は仙台文学館で要予約90名・・・!
実施日が昨日、10月11日(月)2時からだったので会場となっている仙台文学館に
行ってみた。
仙台文学館。
館内にある小さなレストランで昼食、1時半開場になっていたので会場へ行ってみると
90名のはずが160名満席です・・・の案内。予約多数で会場を変更したのでしょうか、
けっこう女性の参加者も目につきました。
司会進行は荒蝦夷の女性の方で、トークライブ参加者は
星亮一氏 作家。
甲斐原康氏 作家。
山本三郎氏 仙台藩士・玉蟲左太夫子孫、 の方々。
作家の星亮一氏。
現在NHK大河ドラマ「龍馬伝」で盛り上がっているが、その時代のみちのくは
はたしてどんな状況だったのか・・・という視点から興味のある話しも沢山聞か
せてもらい、幕末・戊辰戦争時の仙台藩の事情も垣間見ることができて
楽しい時間を過ごせました。
甲斐原康氏。
甲斐原康氏の右側の方が玉蟲左太夫から数えて五代目の山本三郎氏。
主催の荒蝦夷さんに感謝です、ありがとうございました。
星亮一氏のトークで印象に残ったのは多々あったのだが、
坂本龍馬はハト派で無血大政奉還論だったが薩摩・長州は武力倒幕論で
ハト派の龍馬がある時からじゃまになった、という話しをしていたのでこの
点は龍馬暗殺の主犯は誰・・・と云う歴女・私と同じ見方をしているな、と感じたこと。
仙台藩は鳥羽・伏見の戦い勃発時、やはり「対岸の火事」(わたしの表現)という
状況だったことと、戦に対しての準備不足・・・そうでしょうね〜!
山本三郎氏は玉蟲左太夫の子孫で、この方の「ばあちゃんのおじいさん」が玉蟲左太夫。
玉蟲左太夫は1860年、日米修好通商条約批准書交換遣米使節団の一員として渡米、
世界一周して戻り、戊辰戦争時奥羽越列藩同盟軍務局議事応接統取として活躍したが
仙台藩降伏後、責任を問われ切腹した。
山本氏に伝わっている話しとして、切腹後、家に戻ってきた玉蟲左太夫は「戸板に乗せられ
首と胴が離れた状態」だったという事。
また使節団の一員として派遣された時、伊達藩に提出したレポートと「本音を記述した文書」
があり、その本音も交えた「仙台藩士幕末世界一周」を出版した。・・・面白そうですね♪
玉蟲左太夫と云う人はこの時代龍馬と同じように柔軟な発想ができるひとだったのだなと
感じた♪・・・仙台の坂本龍馬かな♪
甲斐原康氏は関西出身で28年前に仙台に住むようになり、一般庶民の視線で
「戦塵 北に果つー土方歳三戊辰戦始末」を執筆。
星亮一氏の近日発売の単行本「徳川秀忠とお江」が販売されていたので購入♪
また本が増えてきている・・・フ〜ッ♪
今読んでいる幕末の江戸の状況を書いた宇江佐真理さんの本・・・江戸を書かせたら天下一品ですね♪
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