彰義隊の墓 22日、渋谷で待ち合わせの時間までまだまだあるので久しぶりに上野の山に
行ってみた。
わたしにとって思い出の場所・・・
社会人2年目頃だったかな、父が仙台から東京に出張で来ると云う時
西郷隆盛像のところで待合わせ。
向こうに建設中のタワーが見えるんですね♪
ベンチに二人で腰かけて、ちょっとした沈黙のあと
「とうちゃん、おれ仙台に帰りたいんだよな・・・」
「そうか・・・、ん〜戻ってきたかったらいつでも帰ってこい♪」
その言葉に、いつでも戻れるという安心感からなぜか元気がでてきた
・・・大学受験直前に、おやじを殴って3ヶ月家出して挫折し、
不信感をひきずっていたのだがこの時から気持ちが反転
した思い出が・・・♪
“こころのわだかまりは“時間”が解決するものですね♪”
「時間が解決」・・・これを“とき薬”と命名したmamazoでした。(笑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時、彰義隊という単語は知っていたが、詳しくは分からなかった
のだが、東北の戊辰戦争をかじってみて彰義隊の存在も理解できた。
彰義隊士の墓。
この上野の山はもともと東叡山寛永寺の寺地で、調べてみると
最盛期は現在の上野公園の2倍の広さだったとか。
西の比叡山に対して東にあるので東叡山寛永寺・・・なるほどですね♪
そして、西(京都)に天皇がいたので東にいてもいいだろうと云うことで
“輪王寺宮”がいた。
徳川慶喜が江戸城を出て寛永寺に入ったのが1868年2月。
輪王寺宮を護って、尊王恭順の徳川慶喜の誠意と冤罪を雪ぐ
ことを新政府に訴えることを目的にして彰義隊ができたのだが
いつの間にか官賊となり反乱軍!
慶応4年5月15日(1868年7月4日)に“上野戦争”が雨の日、
朝6時から始まり昼過ぎには大体片がついたという。
やっぱり新式銃とアームストロング砲の威力ですか
円通寺蔵の彰義隊奮戦の図(雑誌:歴史と旅に掲載してあったものを
輪王寺宮がいたところが寛永寺本坊で今の東京国立博物館、
彰義隊が本営をおいた寒松院は上野動物園のところ。
激戦場所となった黒門口を攻めたのが西郷隆盛率いる薩摩軍。
・・・だから薩長軍の中で死傷者が多かったのが薩摩軍なんですね!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後、激戦場所の黒門があった近くに西郷隆盛像が
建てられたのでしょうか
彰義隊を庶民の目を通して書かれた小説「夕映え」:宇江佐真理著
とても分かりやすく中々いい本でした
現在上野、秋葉原周辺はは薩長軍よりも外人観光客に席巻され、
日本古来の山野草はセイタカアワダチソウに!・・・ム〜
|
歴史
[ リスト | 詳細 ]
温泉への行き帰りに立ち寄った遺跡。
橋脚建設で遺跡が発見・・・なのでしょうか 仙台でも台原から東仙台方面に道路建設中に“与平沼”周辺で多賀城との
関連施設とみられる「窯跡」が発見され工事が中断。
与平沼はわたしが小学生の頃から“近寄らないように、溺れる子供が
多い!”と注意されていた沼なのだが、遺跡が発見されるとは・・・ム〜!
そういえば、もっとJRの線路に近いところに“瓦”を作っていたところが
あったが、小学校の帰り道“川の土手で露出しているでねんど”を持ち帰って
なにか作った記憶がある。
米沢の国道13号線東側で橋脚工事が中断しているように見えますが、
発掘作業中のところは昔なにがあったのでしょうね♪
ちょうど橋脚工事の延長線上に・・・遺跡なのでしょうか?
ちょっと大きめに! 発掘調査が終了するまで工事は“お預け”になるのでしょうね・
与平沼はここですね。とりあえずmamazo母校もチェックポイントで ↓ です。
|
平安時代の城柵遺跡 Wikipediaで払田の柵を調べると、1902年に耕地整理の時に水田から200本の
柵木が発見され、その柵木を奈良国立文化財研究所で年輪年代法で測定すると
801年に伐採された材だった。
801年?・・・802年に坂上田村麻呂がアテルイを降伏させ水沢に胆沢城や
紫波城を造り始めた頃から、奥羽山脈を西に越えて行ったところでも柵(砦)
造営が始まったのでしょうね。・・・柵造りは連動していたのかも・・・ですね♪
ところが、この払田柵は続日本紀などの文献に載っていないので“、
天平寶字4年(760年)創建とされる雄勝城説や「河辺府」説があるが
当初、横手盆地南端部の雄勝郡内に設けられた雄勝城がのちに移転された、
という見解を示した喜田貞吉氏の見解が登場している。
それでは、当初の雄勝城はいったいどこなのでしょうね、川の氾濫などの
地形変化で分からないのでしょうね。覚鱉城も然りかな〜
向こうは角館方面ですね。
地図を見るとこの辺も湿地帯だったのでしょうか。
このような建物があったようです♪
前回、ぼかした写真を載せたら・・・なんでくっきり、はっきり載せないの・・・ブ〜ッ!
って云われたのでくっきり、はっきりバージョンの足です(笑)
|
史跡・竹村庫之丞戦死の地 道の駅「雁の里せんなん」を出発し、平坦な道を角館市方面へ北上していると
白い標柱と説明書きがあったので「水神社」の敷地でUターン。
戻って見ると、
戊辰戦争で戦死した角館軍監“竹村庫之丞”がこの地で壮烈な戦死を遂げた
・・・と書いてありました。
仙台藩兵と佐竹・九州諸藩兵との戦いでの戦死・・・日本人同士がいくさをしないと
世の中の変化が実現できなかったのでしょうかね。
ロシアでも革命と称して同じようなことがありましたが、打倒ブルジョアジーの
指導者だった者たちが権力を獲ると同じようなブルジョアの発想になる!
繰り返すのですね〜、歴史は・・・と云うよりも人間は、の方が正解でしょう。
おふくろが小さい頃から云っていた事は、
“親孝行したい時には親はなし”
“実るほどこうべを垂れる稲穂かな”
“となり近所のおっさん、おばちゃんと会ったら挨拶しなさい”
・・・ですね。
社会人になってある程度のポジションになり部下を持つと、
急に“こうべが上がる”管理職が散見される。
“権利・権限”を獲ると云うことは“義務と責任”がセットになるのだが
どうも権利・権限だけを振りまわす
・・・子供のころの生活環境と親の躾が影響するのでしょう・・・
☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆
話しは変わるが・・・
先月、仙台文学館で行われた“幕末の仙台を語ろう”で、
トークライブに参加したある作家の方が、
仙台藩兵を薩長軍は“どんごり兵”と揶揄していたと云う事を
思い出した。・・・耳に付いたら中々離れないものですね。(笑)
大砲を“ド〜ン”と撃つと“5里”逃げる!だから「どんごり」・・・ム〜!
そんなに戦意喪失状態だったのでしょかね〜!
歴女の好きな国道13号線沿いにある標語・・・(笑)
前に撮ったから撮らなくてもいい、って云うのにパチリ、
“わがる”と訛っているのが気に入っているのでしょう
|
平安の風わたる公園(横手市) 道の駅「さんない」でたこ焼きとお茶で一服したあと次の道の駅「雁の里せんなん」へ。
ペットボトルの銘柄を見ると“韃靼そば茶”
・・・ム〜、初めて飲んだお茶でした。
「韃靼そば茶って、こんな味だったんだっちゃ♪」と仙台弁での駄洒落は
あまり好評ではなく、そのまま流されてしまった!チ〜
国道13号線を北上すると間もなく「平安の風わたる公園」左折の標識。
ここはビナヤカさんの記事で以前見せてもらっていたので行ってみると
広々とした公園、木には雪囲いをしており“もう冬か〜!”と実感。
この西沼は・・・
後三年の役の時、源義家軍が金沢柵を攻略中に西沼ほとりの立馬郊の
刈田に降りようとした雁の群れが列を乱して飛び去るのを見た義家は敵が
潜んでいることを見破って30騎余りの兵を討ち取ったというところでした。
「後三年合戦絵詞」上巻・・・東京国立博物館蔵。
この後、道の駅「雁の里せんなん」へ
|



