足尾銅山 足尾銅山 所在地 所在地 Prefecture 国 座標 生産 産出物 歴史 開山 閉山
足尾鉱毒事件足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる足尾銅山での公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。
銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。
戦後[ソースを編集]
渡良瀬川側から見た足尾砂防ダム(1997年7月22日撮影) 土砂の流出を防ぐため、1960年、足尾町に防砂ダムの足尾ダム(通称、三沢合流ダム)が作られた。容積500万立方メートルで、利根川水系の砂防ダムとしては最大。また、日本でも最大級の砂防ダムだとされる。2003年現在の堆砂率は67%。
渡良瀬川の治水と首都圏への水道供給を主目的にした多目的ダム、草木ダムが渡良瀬川上流の群馬県勢多郡東村に作られた(1977年竣工)。このダムは鉱毒対策を目的の中に入れていなかったが、参議院議員近藤英一郎(当時)が商工委員会で質問を行った結果、このダムについては「水質保全に特に留意」することとされた経緯がある。鉱毒を下流に流さないようにするための半円筒形多段ローラーも採用された。このダムは常時水質検査が行われ、結果が随時公表されているが、そのような多目的ダムは日本にはほとんど存在しない。竣工が銅山の閉山後だったこともあり、水質検査では異常な値はあまり検出されていない。
1976年7月30日、群馬県、栃木県、桐生市、太田市と古河鉱業の間で公害防止協定が締結された。ただし、後述する毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会はこの協定への参加を拒否した。この協定に基づき、水質検査などが行われている。鉱毒被害地の農地の土地改良も、公害防止協定締結後に行われた(後述)。
毛里田地区の鉱毒反対運動は、どこからも主だった支援を受けず、農民の手弁当による活動であるところが他の同種の運動と大きく異なる。ただし、支援の申し出がなかったわけではなく、受け入れ体制が整わなかったのが支援を受けなかった理由であるという。
毛里田地区の調停成立直後の1974年11月18日、群馬県桐生市で桐生地区鉱毒対策委員会が設立され、農民444人が古河鉱業に対し交渉をもった。1975年11月18日和解が成立し、古河鉱業は銅などによる鉱毒被害を認め、2億3500万円を支払った。
毛里田地区で申請漏れになっていた住民が、公害等調整委員会に調停を申請。1977年12月、390万円で和解が成立した。
2000年、2003年、2004年に、群馬県は農用地土壌汚染対策指定地域を追加指定。これまでに指定され、まだ解除されていない農地も含め、2005年現在の対策指定地域は53.74haである。2000年以降の追加指定地は、大部分が1970年代の調査が不十分で調査洩れになっていた地域と考えられている。
|
|||||||||||||||
全体表示
[ リスト ]




