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ja.wikipedia.org/wiki/鴻之舞 - キャッシュ ja.wikipedia.org/wiki/鴻之舞鉱山 - キャッシュ 鴻之舞鉱山概要枝幸より南に位置する紋別の鴻之舞・藻鼈川沿いの元山付近で、1915年(大正4年)に鉱床が発見されると、鉱区設定を巡る紛争が起きた。結果的に有志による組合により鉱区設定が許され操業が開始されるが、1917年(大正6年)に住友(のちの住友金属鉱山)が経営権を得て、以降1973年(昭和48年)に至るまで操業を続けた。
鴻之舞鉱山は、元山鉱・倶知安鉱を中心に、金・銀・銅などを産出したが、中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績であり、1940年(昭和15年)には年間金2.5トン、銀46トンを産出。1955年(昭和30年)には金年間2.98トンの最高産出量を記録した。操業開始から1973年の閉山まで、約73トンの産金をした。
鉱山の発展に合わせて、鉱山労働者とその家族の居住する街区が、藻鼈川・道道に沿って形成され、最盛期(1942年頃)には人口13,000を数えるまでになった。 しかし、1943年(昭和18年)には戦争の激化による産業統制の一環として金は不要不急の鉱物とされたため、産金部門で働く労働者の多くが産銅部門や住友系列の他の事業所に配置替えとなったため、一時的に地域の人口は激減した。戦時中は1937年(昭和12年)に勃発した支那事変の長期化により鉱山労働者が次々と徴兵され、ついには操業に支障をきたすようになった。このため親会社の住友は朝鮮総督府や企画院に対して大陸からの労働者補充を幾度に渡り要請し、1939年(昭和14年)には、政府の労務動員計画に基づく朝鮮人労働者の移入が開始された。
輸送鉱山が栄えたころの1943年(昭和18年)からは、1948年(昭和23年)までの短い期間であったが、紋別中心地と鴻之舞との間に鴻紋軌道が敷設されていた。軌道は物資輸送等に使用されたが、現在は道道紋別丸瀬布線が通るのみである(2009年(平成21年)に新道へ切り替えられたため、通年通行可)。
1949年(昭和24年)には、紋別市街と鴻之舞を結ぶために北紋バスが設立され、バス路線が開設された。「上藻別」地区へ走る路線はかつての紋別市街と鴻之舞を結ぶ路線の名残であり、路線名は「鴻之舞線」で変わっていない。
遺構関連項目
外部リンク
deepannai.info/hokkaido-kounomai/ - キャッシュ
北海道各所にある今は寂れてしまった炭鉱町を訪れた時、北海道の開拓の歴史と日本 の近代化の歴史を重ね見る。国家は国力を増強すべく資源を求め、人々はそれぞれに 富を求めて北の大地を目指し、末端の坑夫達は極寒の地で汗水を流して街を.
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