先史時代奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。
日本本土や沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代・古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島・屋久島・口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。
逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ製貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。4-5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器[1](奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。
ヤコウガイなどは、螺鈿や杯の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。
古代奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美群島のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことがわかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。
997年(長徳3年)に大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火や掠奪をしたという(『小右記』)。翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を受領した大宰府の出先機関と推定されている。ただし、同時期に新羅の入寇も起こっており、新羅と取違えたのではないかという指摘もある。
この時代までを「奄美世(あまんゆ)」とも呼ぶ。
中世この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』では、日本本土から見て奄美は日本の域内であり「貴海国」と称され、沖縄諸島以南の「琉球国」は異域と見做されていた。『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。
奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国産陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。
鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏の惣領・嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と封建制の関係に有ったと考えられる。その支配体制は、北方の得宗被官安東氏との比較検討が行われている。
琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年(文正元年)に琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。
奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。
按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。
琉球時代1266年(文永3年)、奄美群島から沖縄本島の英祖王に入貢した事が、『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、交易の存在を元に創作されたと考えられる。当時の沖縄地域は群雄割拠の状態であり、英祖王の勢力は沖縄本島の一部を支配しているに過ぎず、それ以前から奄美群島に対して行われていた日本本土からの直接的な移住や出先機関の設置と同様な能力がある事も考えられないため、後に宗主国の明に倣った琉球版冊封体制の装飾であると考えられる。
琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。奄美群島南部の沖永良部島と与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。徳之島のカムィ焼生産販売勢力の衰退した時期と一致している。
15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏は1416年(応永23年)に北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島と沖永良部島に服従を要求する。沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年(応永23年)に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。この後、琉球王国によって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。
1447年(文安4年)に尚思達王が奄美大島を従わせた。1450年(宝徳2年)から1462年(寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。1466年(文正元年)に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた。しかし当時の国情を無視した膨張政策によって琉球王国は人心を失い、尚徳が早世したのち首里では群臣のクーデターにより尚円王が擁立されると、事実上は王位を簒奪される形で第一尚氏から第二尚氏へと王統が交代する。
1537年(天文6年)、尚清王が奄美大島の領主の一人与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、領主間の確執による讒言であると後に判明したため、その子孫を採り立てている。この当時、奄美大島の領主層は貿易の自主性と領地支配の独自性を維持し、琉球王国の一元支配に反抗的であった。湯湾大親は第一尚氏の一門とも言われ、他の領主にとっては煙たい存在であった。最も対立していた我耶大親は、日本本土からの移住者と考えられている。1571年(元亀2年)、尚元王は領主層の一掃を目的として奄美大島に三回目の侵攻を行い、地元領主層を廃している。与湾大親の子孫は戦いに王家側として武勲を挙げ、首里に移ってからの後に馬氏を称し、琉球王国五大姓の一つと讃えられ繁栄した。
琉球王国の支配体制は、全域支配の成った1466年(文正元年)に泊地頭が置き、群島各地に年貢の納付を改めて命じた。そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。三回目の奄美大島侵攻の翌年、1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、動揺した奄美大島の統治に努めさせている。
16世紀後半、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれ、間切の名称が文書に見え始める。間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに与人・目差・掟・里主などを置いた。祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係の切り離しと中央政府が一元的に人事を掌握するキャリア制度化が行われている。現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。
琉球王国が奄美群島を制圧できた要因として、室町幕府の全国支配体制の弱体化が挙げれる。日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心は徐々に失われていった。その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功したのである。例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩と大隅の守護を務める島津氏だけが、交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。
しかし時は戦国時代であり、島津氏も一族内や近隣領主との抗争に明け暮れ、兵を送るなど不可能だった。16世紀半ば、それでも島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。1587年(天正15年)、豊臣秀吉に降った島津氏は領地争いの終了で軍事的経済的余裕が生まれ、琉球に課された琉球軍役を肩代りすることも理由として、琉球王国に圧力を更に強めていった。
琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。
近世「琉球侵攻」を参照
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。4月12日(3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日(3月22日)に徳之島、4月28日(3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉(サゴの一種)をとって粥などに加工し、食用とした。
奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階の陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。
また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。
薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。
近代第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就いていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められており、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。
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古代ペルシア楔形文字は、古代ペルシア語を記すためにアケメネス朝で使用された文字。紀元前6世紀から紀元前4世紀までの碑文がペルセポリス、スーサ、ハマダーン(エクバタナ)、ナグシェ・ロスタム、バビロンなど
古代ペルシア楔形文字類型: 言語: 時期: 親の文字体系:Unicode範囲:ISO 15924 コード:
古代ペルシア楔形文字(こだいペルシアくさびがたもじ)は、古代ペルシア語を記すためにアケメネス朝で使用された文字。紀元前6世紀から紀元前4世紀までの碑文がペルセポリス、スーサ、ハマダーン(エクバタナ)、ナグシェ・ロスタム、バビロンなどの地に残るが、そのうちもっとも長文でかつ重要なものはベヒストゥン碑文である。
概要古代ペルシア楔形文字は他の楔形文字に似た外見をしているが、それは見た目の類似にすぎず、他の楔形文字とは関係がない。ただし、外来語にのみ現れる「l (
キュロス2世のものと言われる刻文も存在するが、実際にキュロス2世の時代に刻まれたかどうかはよくわからない[1]。ku (
現存する碑文の大部分はダレイオス1世と次のクセルクセス1世の時代のものであるが、その後もアルタクセルクセス3世の時代まで使われた。
文字体系古代ペルシア楔形文字の筆画はきわめて単純で、横棒・縦棒・「く」の字型の3種類の筆画の組み合わせからなる。筆画どうしは交差しない。音素文字はとくに簡単で、2画から5画までの間におさまっている。
古代ペルシア楔形文字の主要な部分である音素文字は36文字からなっている。母音は a i u の3字、子音は22の音に対して33字があるが、これは一部の文字が後続する母音によって字を使いわけるためである。なぜ一部の文字だけにこのような使いわけがあるかは不明である。
古代ペルシア語の母音は a i u ā ī ū ai au āi āu があったと考えられているが、表記の上では以下のような制約がある[1]。
ほかにもいくつかの正書法上の制約がある[5]。
語末子音は m r š のみが書かれる。ほかの子音は単に書かれなかったのか、それとも実際に発音されなかったのかは不明である[6]。
音素文字のほかに表語文字が8種類あり、「王、国、地、神、アフラ・マズダー」を意味する。
字 読み[7] 意味
解読西洋での古代ペルシア楔形文字の研究は、1765年にカルステン・ニーブールがペルセポリス刻文を模写し、1778年に公刊したことにはじまる[8]。
それ以前の1711年にジャン・シャルダンが、1712年にエンゲルベルト・ケンペルが、それぞれ紀行文の中に楔形文字の模写を載せているが、解読はできなかった。1802年にゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントは、それまでの研究と、アヴェスター語の知識、サーサーン朝碑文の知識、ヘロドトスの著作などに出現する古代ペルシアの王名などを利用し、ニーブールの写した刻文2つの解読を示した。
グローテフェントの解読は当初は認められなかったが[9]、後に(誤りも多いものの)基本的に正しいことが確認された。グローテフェント以降、ラスムス・ラスク、ウジェーヌ・ビュルヌフ、クリスチャン・ラッセン、ヘンリー・ローリンソン、ジュール・オッペールらの努力によって、古代ペルシア楔形文字は19世紀半ばまでにほぼ完全に読めるようになった[3]。
古代ペルシアの碑文は多言語のものが多く、そのうちの古代ペルシア語が読めるようになったことによって、他の言語の解読の道が開けた。
楔形文字類型: 言語: 時期: 親の文字体系: 子の文字体系:Unicode範囲:
歴史ウルク文化期(紀元前3200年)にシュメール人によって絵文字としての性格が強いウルク古拙文字が発明されたが、長期間繰り返し使われるうちに、次第に単純化・抽象化されて、青銅器時代初頭(紀元前2500年)には約1,000文字のシュメール文字になり、青銅器時代末期(紀元前2000年)には約400文字(ヒッタイト語楔形文字)から約200文字(アッカド語楔形文字)になった。
シュメール文字はシュメール語に用いられる他、アッカド語(アッカド語楔形文字)、エラム語(エラム楔形文字)、ヒッタイト語(ヒッタイト語楔形文字)、楔形文字ルウィ語に借用され、また古代ペルシア語(古代ペルシア楔形文字)やウガリット語(ウガリット文字)などに独自の文字の発達を促す役割をはたした。
文字の歴史最初期の象形文字は、粘土板の上に縦の枠を設け、ペン、すなわちアシで作り先を尖らせた尖筆で書かれた。2つの発展が書く過程を速くし、また簡便にした。文字は水平の欄に書かれるようになり、各絵文字はみな時計回りに 90° 回転させて書かれるようになった。
また新たに先を楔形にした尖筆が使われるようになり、粘土板に押し当てて用いられるようになった。書き手は一つの道具を用い、押し当て方に変化を設けて使うようになった。
楔形文字の粘土板は恒久的な記録とするために窯で焼くこともでき、また恒久的に残す必要がないなら再使用することもできた。考古学者が発見した多くの粘土板は、粘土板が保存されていた建物が軍隊の攻撃時に焼かれ、結果的に焼成されて保存されたものである。
楔形文字は、本来シュメール人によってシュメール語記録のために発明されたもので、メソポタミア全域で3000年にわたって用いられた。しかし、次第に近隣の他の民族に借用され、アッカド、バビロニア、エラム、ヒッタイト、アッシリアで楔形文字はそれらの民族固有の言語を書くのに用いられた。
とはいえ、シュメール人が磨き上げた楔形文字本来の音節文字的な性格は、セム語族などの言語話者には使い勝手のよくない仕組みだった。この事実に多くの言語学者が促され、シュメール文明が再発見される以前から、バビロニア文明に先立つ文明の存在を仮定していた。
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ja.wikipedia.org/wiki/鴻之舞 - キャッシュ ja.wikipedia.org/wiki/鴻之舞鉱山 - キャッシュ 鴻之舞鉱山概要枝幸より南に位置する紋別の鴻之舞・藻鼈川沿いの元山付近で、1915年(大正4年)に鉱床が発見されると、鉱区設定を巡る紛争が起きた。結果的に有志による組合により鉱区設定が許され操業が開始されるが、1917年(大正6年)に住友(のちの住友金属鉱山)が経営権を得て、以降1973年(昭和48年)に至るまで操業を続けた。
鴻之舞鉱山は、元山鉱・倶知安鉱を中心に、金・銀・銅などを産出したが、中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績であり、1940年(昭和15年)には年間金2.5トン、銀46トンを産出。1955年(昭和30年)には金年間2.98トンの最高産出量を記録した。操業開始から1973年の閉山まで、約73トンの産金をした。
鉱山の発展に合わせて、鉱山労働者とその家族の居住する街区が、藻鼈川・道道に沿って形成され、最盛期(1942年頃)には人口13,000を数えるまでになった。 しかし、1943年(昭和18年)には戦争の激化による産業統制の一環として金は不要不急の鉱物とされたため、産金部門で働く労働者の多くが産銅部門や住友系列の他の事業所に配置替えとなったため、一時的に地域の人口は激減した。戦時中は1937年(昭和12年)に勃発した支那事変の長期化により鉱山労働者が次々と徴兵され、ついには操業に支障をきたすようになった。このため親会社の住友は朝鮮総督府や企画院に対して大陸からの労働者補充を幾度に渡り要請し、1939年(昭和14年)には、政府の労務動員計画に基づく朝鮮人労働者の移入が開始された。
輸送鉱山が栄えたころの1943年(昭和18年)からは、1948年(昭和23年)までの短い期間であったが、紋別中心地と鴻之舞との間に鴻紋軌道が敷設されていた。軌道は物資輸送等に使用されたが、現在は道道紋別丸瀬布線が通るのみである(2009年(平成21年)に新道へ切り替えられたため、通年通行可)。
1949年(昭和24年)には、紋別市街と鴻之舞を結ぶために北紋バスが設立され、バス路線が開設された。「上藻別」地区へ走る路線はかつての紋別市街と鴻之舞を結ぶ路線の名残であり、路線名は「鴻之舞線」で変わっていない。
遺構関連項目
外部リンク
deepannai.info/hokkaido-kounomai/ - キャッシュ
北海道各所にある今は寂れてしまった炭鉱町を訪れた時、北海道の開拓の歴史と日本 の近代化の歴史を重ね見る。国家は国力を増強すべく資源を求め、人々はそれぞれに 富を求めて北の大地を目指し、末端の坑夫達は極寒の地で汗水を流して街を.
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足尾銅山 足尾銅山 所在地 所在地 Prefecture 国 座標 生産 産出物 歴史 開山 閉山
足尾鉱毒事件足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる足尾銅山での公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。
銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。
戦後[ソースを編集]
渡良瀬川側から見た足尾砂防ダム(1997年7月22日撮影) 土砂の流出を防ぐため、1960年、足尾町に防砂ダムの足尾ダム(通称、三沢合流ダム)が作られた。容積500万立方メートルで、利根川水系の砂防ダムとしては最大。また、日本でも最大級の砂防ダムだとされる。2003年現在の堆砂率は67%。
渡良瀬川の治水と首都圏への水道供給を主目的にした多目的ダム、草木ダムが渡良瀬川上流の群馬県勢多郡東村に作られた(1977年竣工)。このダムは鉱毒対策を目的の中に入れていなかったが、参議院議員近藤英一郎(当時)が商工委員会で質問を行った結果、このダムについては「水質保全に特に留意」することとされた経緯がある。鉱毒を下流に流さないようにするための半円筒形多段ローラーも採用された。このダムは常時水質検査が行われ、結果が随時公表されているが、そのような多目的ダムは日本にはほとんど存在しない。竣工が銅山の閉山後だったこともあり、水質検査では異常な値はあまり検出されていない。
1976年7月30日、群馬県、栃木県、桐生市、太田市と古河鉱業の間で公害防止協定が締結された。ただし、後述する毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会はこの協定への参加を拒否した。この協定に基づき、水質検査などが行われている。鉱毒被害地の農地の土地改良も、公害防止協定締結後に行われた(後述)。
毛里田地区の鉱毒反対運動は、どこからも主だった支援を受けず、農民の手弁当による活動であるところが他の同種の運動と大きく異なる。ただし、支援の申し出がなかったわけではなく、受け入れ体制が整わなかったのが支援を受けなかった理由であるという。
毛里田地区の調停成立直後の1974年11月18日、群馬県桐生市で桐生地区鉱毒対策委員会が設立され、農民444人が古河鉱業に対し交渉をもった。1975年11月18日和解が成立し、古河鉱業は銅などによる鉱毒被害を認め、2億3500万円を支払った。
毛里田地区で申請漏れになっていた住民が、公害等調整委員会に調停を申請。1977年12月、390万円で和解が成立した。
2000年、2003年、2004年に、群馬県は農用地土壌汚染対策指定地域を追加指定。これまでに指定され、まだ解除されていない農地も含め、2005年現在の対策指定地域は53.74haである。2000年以降の追加指定地は、大部分が1970年代の調査が不十分で調査洩れになっていた地域と考えられている。
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