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2016/04/01 に公開
『朝鮮進駐軍』とは戦後直後に、集団や少人数の愚連隊や個人として日本各地で暴れ回った在日朝鮮人達を総称した呼称です。 彼等は、戦争で焼け野原に成った主要都市の一等地を日本人から奪い、裕福な家に押し入って強盗を働き、農家の作物や牧場の家畜を略奪して闇市で売りさばき、昼日中から女性を強姦し、自分達の意向に逆らったり気に食わない日本人を殺害し、捕まった仲間を取り戻すために警察署を襲ったりするなどの数々の犯罪を働きました。 この動画は、それらの『朝鮮進駐軍』による犯罪の内の十人以上による「集団犯罪」についての情報をまとめたものです。 街宣・チラシ作成・生放送に役立つように、下記のURLで、この動画や動画の音声、そしてこの動画で使用しているテキスト(文章)をダウンロードきるようにしています(Wordで開く事ができます)。また、テキスト(文章)はPDFでも表示できますので、印刷の際に使ってください。 (http://detox-nippon.jp/index.html )←朝鮮進駐群の集団犯罪リストのページのURLです。移動できない時は、detox-nippon.jp/ も試してください。 首相官邸デモ事件事件の発端事件の概要午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。
この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた。 その後の顛末警察は、「在日朝鮮人生活権擁護委員会」の委員長ら10人を、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕、身柄を米軍東京憲兵司令部に送致した。
参考文献
関連項目
1950年(昭和25年)5月30日に日本共産党を支持するデモ隊と占領軍が東京の皇居前広場で衝突した事件。占領軍と大衆行動との最初の衝突事件とされる。 なお、「人民広場」とは、戦後に共産党などの国体に反対する勢力が「皇居前広場」に対して付けた名称である。1950年(昭和25年)5月3日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)のダグラス・マッカーサー総司令官は共産主義陣営による日本侵略の恐れを警告し、更に日本共産党がそれに協力していると非難、場合によっては同党の非合法化も検討しているとする趣旨の声明を出した。これは第2回参議院議員通常選挙(6月4日)を1ヶ月後に控えた時点での発言であり、共産党は強く反発した。 5月30日に民主民族戦線東京準備会は共産党の指導のもとで皇居前広場(人民広場)で5万人規模(主催者発表)の人民決起大会を開催した。だが、その時に私服警官が集会に紛れ込んでいたのを追及したのを機に警備をしていた占領軍との小競り合いに発展、民主青年団東京都委員長ら8名の労働者学生が逮捕された。6月1日に共産党はこれは反対派の学生による投石による挑発を受けたものであるとし、集会参加者の逮捕は4日の参議院選挙に対する妨害行為であるとのGHQ批判を行う。 翌日、警視庁は都内での集会・デモの禁止措置を発令、更に3日には占領軍の軍事裁判にて逮捕者に重労働10年などの有罪判決が下された。なお、4日に行われた第2回参議院議員通常選挙では共産党は改選議席である2議席を引き続き確保している。6月6日、GHQと政府は日本共産党中央委員会委員24名の公職追放と機関紙『アカハタ』の発行禁止命令を出し、レッドパージが本格化することになる。 http://nanyo.club/wp-content/uploads/2016/05/koukyomae.jpg 首相官邸デモ事件事件の発端1946年(昭和21年)11月10日に、在日朝鮮人は在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成し、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を行政機関に要求していた。そして、同年12月20日に皇居前広場で「朝鮮人生活権擁護全国大会」を開催した。
事件の概要午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。
この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた。
その後の顛末警察は、「在日朝鮮人生活権擁護委員会」の委員長ら10人を、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕、身柄を米軍東京憲兵司令部に送致した。
参考文献
関連項目
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日本の街並みを破壊したのは朝鮮人である 上野、銀座、新宿は朝鮮人、池袋、渋谷、新橋は台湾人 これが現実だ 日本を破壊したごほうびは土地の提供ということ 朝鮮人は自分の物にできるのでじゃんじゃんやったの
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2015/12/13 に公開
日本の街並みを破壊したのは朝鮮人である 上野、銀座、新宿は朝鮮人、池袋、渋谷、新橋は台湾人 これが現実だ 日本を破壊したごほうびは土地の提供ということ 朝鮮人は自分の物にできるのでじゃんじゃんやったのである 現在の駅周辺、大きいお屋敷、大きい農家、すべて朝鮮進駐軍の子孫が住んでいる 現在の老人ホーム、特養などは朝鮮進駐軍の奪った土地である このことを日本人は歴史として子供に孫に言い伝えなければならない 今までやられた学校教育の洗脳は10年ほどかかって一つ一つリセット(消去)しなければならない 10年はかかる 半島花嫁七千人の洗脳が解けないのは直ちには無理だからである 100年前の戸籍はmicrofilm化されずにゴミ焼却場で焼却された 民主党政権時代かもしれない 戸籍制度はリセット(消去)されるAjendaである 在日特権をつくったのはアメリカ(GHQ)である【日本保守同盟】 http://www.nicovideo.jp/watch/sm27097432
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(元記事1/2)
渋谷暴動 殺害された警官の兄が思いを語る
日本テレビ系(NNN) 11/15(火) 12:01配信
45年前に東京・渋谷区でおきた暴動事件で、殺害された警察官の兄が、いまだ逃亡を続ける容疑者とこの事件への心境を語った。
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東京・渋谷。商店街の片隅にある小さな慰霊碑−。
45年前、ある1人の警察官がここで命を落とした。14日にここを訪れた警視庁のトップ・沖田芳樹警視総監は、冥福を祈るとともに容疑者の逮捕を誓った。45年たった今も容疑者を追う執念の捜査が続いている。
昭和46年11月14日、渋谷で沖縄返還協定に反対する暴動事件が発生。過激派「中核派」などのデモ隊数千人が、派出所などを襲撃し、中核派の学生らは中村恒雄巡査(当時21)を鉄パイプで殴り、火炎瓶を投げつけるなどして殺害した。実行犯7人のうち6人は逮捕されたが、主犯格の大坂正明容疑者(67)は逃亡を続けている。
◇
新潟・佐渡市の実家には容疑者逮捕を祈り続ける遺族、中村巡査の兄・秀雄さん(72)がいる。
中村秀雄さん「家の前の駐在さんがしょっちゅううちへきて、くるたんびに弟に『警察になれさ、警察になれさ』という言い方をされてたみたいで。おとなしい中にも芯が強いっていう部分もあったかと思います」
45年前のあの日、知らせを聞いた秀雄さんは父と共に病院に駆けつけた。
中村秀雄さん「ほとんど上半身、炭化した、炭。顔も識別できないくらいの(やけど)。ショックでした。人の姿をとどめてないわけですから。だからお袋には会わせなかったです」
中村巡査はこの夜、亡くなった。
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大坂容疑者を追う警視庁は今年1月、都内の「中核派」のアジトを摘発。その際、数年前まで大坂容疑者が潜伏していたことがわかった。
今月1日からは逮捕に結びつく有力な情報提供者に、最大で300万円の懸賞金が支払われることになり、すでに10数件の情報が寄せられている。「大坂容疑者とつながりのある人物が都内に住んでいる」といった、中核派の活動家とみられる人物からの情報もあった。
佐渡の中村巡査の実家の前の駐在所にも、手配ポスターが貼られていた。
中村秀雄さん「45年間、逃げ回っていたわけですが、彼自身、事件とどう向き合ってきたのか。弟をどんなふうに熱かったか、みじめだったか。憤りというか、彼に対してはありますけどね」
秀雄さんは逮捕の知らせを弟の墓前に報告できる日を待ち望んでいる。
【情報提供先:警視庁公安部】
03−3581−4321
(元記事2/2)
『朝鮮進駐軍』の集団犯罪リスト
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坂町事件
事件の発端事件の概要1946年9月22日午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。
この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。
その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。
軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された。
その後の顛末検挙された12人は新潟軍政部に移され、取り調べを受けたが、新潟県外への追放とヤミ米の買出しをしない旨の誓約書提出だけで全員釈放された。またこの事件を報じた報道機関が、朝鮮人に破壊活動を受ける新潟日報社襲撃事件へと発展した。
参考文献
関連項目新潟日報社襲撃事件事件の発端事件の概要1946年9月26日、在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。
その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。
9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。
新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した。
その後の顛末参考文献
関連項目終戦後の在日朝鮮人について
「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)にて、当時の総理大臣である吉田茂は戦後の在日朝鮮人に対して以下の見解を出している。
・彼らは 総数100万にちかく、その半数は不法入国。 すべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待する。 その理由は次の通り。
・現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能。 ・大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献していない。 さらに悪いことには、朝鮮人の中で 犯罪分子が大きな割合を占めている。 彼らは日本の経済法令の常習的違反者 であります。多くは共産主義者ならびにそのシンパで最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態である。 1981年8月には、『朝日新聞記者の証言5』(朝日ソノラマ)の「第三国人の独壇場」の章に 彼らの一部には、治外法権があるかのような優越感をいだかせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、売春、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した。
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