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古代ペルシア楔形文字


 類型: 言語: 時期: 親の文字体系:Unicode範囲:ISO 15924 コード:
Behistun DB1 1-15.jpg
アルファベット
古代ペルシア語
紀元前6世紀 - 紀元前4世紀
なし。楔形文字に影響される
  • 古代ペルシア楔形文字
U+103A0–U+103D5
Xpeo
注意: このページはUnicodeで書かれた国際音声記号 (IPA) を含む場合があります。

古代ペルシア楔形文字(こだいペルシアくさびがたもじ)は、古代ペルシア語を記すためにアケメネス朝で使用された文字。紀元前6世紀から紀元前4世紀までの碑文がペルセポリススーサハマダーンエクバタナ)、ナグシェ・ロスタムバビロンなどの地に残るが、そのうちもっとも長文でかつ重要なものはベヒストゥン碑文である。

楔形文字の一種であるが、他の楔形文字が音節文字表語文字の組み合わせであるのと異なり、基本的に音素文字アルファベット)である。左から右へと書かれる。

概要

古代ペルシア楔形文字は他の楔形文字に似た外見をしているが、それは見た目の類似にすぎず、他の楔形文字とは関係がない。ただし、外来語にのみ現れる「l (LA)」のみは、アッカド語の音節文字 la に由来する[1]

古代ペルシア楔形文字がどのようにして作られたかは不明である。時代の明らかな最古の資料はダレイオス1世の時代のものであり、ダレイオス1世が自らの功績を書き記すために制定したのかもしれない[2]

キュロス2世のものと言われる刻文も存在するが、実際にキュロス2世の時代に刻まれたかどうかはよくわからない[1]。ku (KU) と ru (RU) の専用の文字が存在し、かつ筆画が簡単であるのは、「キュロス」(kuruš, KUURUUSHA)の名前を書くためとする説もある[3]

現存する碑文の大部分はダレイオス1世と次のクセルクセス1世の時代のものであるが、その後もアルタクセルクセス3世の時代まで使われた。

文字体系

古代ペルシア楔形文字の筆画はきわめて単純で、横棒・縦棒・「く」の字型の3種類の筆画の組み合わせからなる。筆画どうしは交差しない。音素文字はとくに簡単で、2画から5画までの間におさまっている。

古代ペルシア楔形文字の主要な部分である音素文字は36文字からなっている。母音は a i u の3字、子音は22の音に対して33字があるが、これは一部の文字が後続する母音によって字を使いわけるためである。なぜ一部の文字だけにこのような使いわけがあるかは不明である。

字 翻字
母音
AIU
aiu
字 翻字 字 翻字 字 翻字
子音
BACADAFAGAHAJAKALAMANAPARASASHASSATATHAVAXAYAZA
bčdfghjklmnprsšçtθvxyz
DI-[4]JI-[4]MIVI
dijimivi
DUGU-[4]KUMUNURUTU-[4]
dugukumunurutu
古代ペルシア語の母音は a i u ā ī ū ai au āi āu があったと考えられているが、表記の上では以下のような制約がある[1]
  • 母音の長短を文字の上で区別しない。
  • 語頭以外では短い a は表記しない(ā は a と書く)。したがって、子音のうしろに母音が続かないとき、そこに母音a があるか、子音だけであるかは常にあいまいである。
  • 後続する母音によって子音を書きわける場合、二重母音 ai au と i u を区別することができる。たとえば(DAI = dai、DII = di)。子音を書きわけない場合はこの区別ができないため、例外的に ai/au の a が書かれることがある。
ほかにもいくつかの正書法上の制約がある[5]
  • hi は通常 h とのみ書かれる。hu は単に u と書かれる。
  • 音節末の n や、閉鎖音の前の m は表記されない。
  • [r̩][ar] と区別されない。
語末子音は m r š のみが書かれる。ほかの子音は単に書かれなかったのか、それとも実際に発音されなかったのかは不明である[6]
単語の区切りを表すために斜線(WORD DIVIDER)を使用する。
音素文字のほかに表語文字が8種類あり、「王、国、地、神、アフラ・マズダー」を意味する。
字 読み[7] 意味
AURAMAZDAA
AURAMAZDAA-2
A(h)uramazdāアフラ・マズダー
AURAMAZDAAHAA(h)uramazdāhaアフラ・マズダーの
XSHAAYATHIYAxšāyaθiya
DAHYAAUSH
DAHYAAUSH-2
dahyāuš
BAGAbaga
BUUMISHbūmiš
数字は以下のものがある。たとえば27は TWENTYTWOTWOTWOONE のように表す。
字 意味
ONETWOTENTWENTYHUNDRED
121020100

解読

西洋での古代ペルシア楔形文字の研究は、1765年にカルステン・ニーブールがペルセポリス刻文を模写し、1778年に公刊したことにはじまる[8]

それ以前の1711年にジャン・シャルダンが、1712年にエンゲルベルト・ケンペルが、それぞれ紀行文の中に楔形文字の模写を載せているが、解読はできなかった。1802年にゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントは、それまでの研究と、アヴェスター語の知識、サーサーン朝碑文の知識、ヘロドトスの著作などに出現する古代ペルシアの王名などを利用し、ニーブールの写した刻文2つの解読を示した。

グローテフェントの解読は当初は認められなかったが[9]、後に(誤りも多いものの)基本的に正しいことが確認された。グローテフェント以降、ラスムス・ラスクウジェーヌ・ビュルヌフクリスチャン・ラッセンヘンリー・ローリンソンジュール・オッペールらの努力によって、古代ペルシア楔形文字は19世紀半ばまでにほぼ完全に読めるようになった[3]

古代ペルシアの碑文は多言語のものが多く、そのうちの古代ペルシア語が読めるようになったことによって、他の言語の解読の道が開けた。

楔形文字

   

楔形文字
類型: 言語: 時期: 親の文字体系: 子の文字体系:Unicode範囲:
Cuneiform script.jpg
表語文字 後に音節文字の要素も加わる
シュメール語
アッカド語
エラム語
ヒッタイト語
ルウィ語
フルリ語
ウラルトゥ語
紀元前3500年頃-紀元後1世紀
(先文字時代)
  • 楔形文字
古代ペルシア楔形文字ウガリト文字
U+12000–U+1236E (シュメール=アッカド語楔形文字)
U+12400–U+12473 (楔形文字数字)
注意: このページはUnicodeで書かれた国際音声記号 (IPA) を含む場合があります。

楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ)とは、言語の表記に用いられた文字としてはヒエログリフ紀元前3200年-400年)と並んで最も古いものの一つである。


歴史

ウルク文化期(紀元前3200年)にシュメール人によって絵文字としての性格が強いウルク古拙文字が発明されたが、長期間繰り返し使われるうちに、次第に単純化・抽象化されて、青銅器時代初頭(紀元前2500年)には約1,000文字のシュメール文字になり、青銅器時代末期(紀元前2000年)には約400文字(ヒッタイト語楔形文字英語版)から約200文字(アッカド語楔形文字英語版)になった。

文字の歴史

最初期の象形文字は、粘土板の上に縦の枠を設け、ペン、すなわちアシで作り先を尖らせた尖筆で書かれた。2つの発展が書く過程を速くし、また簡便にした。文字は水平の欄に書かれるようになり、各絵文字はみな時計回りに 90° 回転させて書かれるようになった。

また新たに先を楔形にした尖筆が使われるようになり、粘土板に押し当てて用いられるようになった。書き手は一つの道具を用い、押し当て方に変化を設けて使うようになった。

楔形文字の粘土板は恒久的な記録とするためにで焼くこともでき、また恒久的に残す必要がないなら再使用することもできた。考古学者が発見した多くの粘土板は、粘土板が保存されていた建物が軍隊の攻撃時に焼かれ、結果的に焼成されて保存されたものである。

楔形文字は、本来シュメール人によってシュメール語記録のために発明されたもので、メソポタミア全域で3000年にわたって用いられた。しかし、次第に近隣の他の民族に借用され、アッカドバビロニアエラムヒッタイトアッシリアで楔形文字はそれらの民族固有の言語を書くのに用いられた。

とはいえ、シュメール人が磨き上げた楔形文字本来の音節文字的な性格は、セム語族などの言語話者には使い勝手のよくない仕組みだった。この事実に多くの言語学者が促され、シュメール文明が再発見される以前から、バビロニア文明に先立つ文明の存在を仮定していた。


【廃墟探索】鴻之舞精錬所付近



ja.wikipedia.org/wiki/鴻之舞 - キャッシュ
鴻之舞(こうのまい)は、北海道紋別市の地名。2005年10月1日現在の人口は0人。 郵便番号094-0026。 目次. [非表示]. 1 地理; 2 歴史; 3 交通; 4 脚注; 5 参考文献; 6 関連項目. 地理[編集]. 鴻之舞は、...
ja.wikipedia.org/wiki/鴻之舞鉱山 - キャッシュ

鴻之舞鉱山

   
林の中に埋もれつつあるコンクリート製構造物。トロッコの橋脚であろうか。(1994年撮影)
かつて、ここに鉱山があったことを示す小さな石碑。(1994年撮影)
鉱山跡碑の奥に慰霊碑が建つ
鴻之舞鉱山(こうのまいこうざん)は、北海道紋別市にかつて存在していた鉱山住友金属鉱山によって経営されていた。
座標:鴻之舞鉱山元町北緯44度8分5秒東経143度20分55秒




イメージ





イメージ




概要

紋別市鴻之舞にある。鴻之舞は、紋別市の中心市街地であるオホーツク海側から約25キロ程度、遠軽町の旧丸瀬布町方面に南下した地点である。
この地を含めて、オホーツク海側、特に北オホーツク枝幸のパンケナイ、ウソタンナイなどの川では、明治30年代頃に砂金が発見され、砂金掘りたちが集まり、「ゴールドラッシュ」となった。
枝幸より南に位置する紋別の鴻之舞・藻鼈川沿いの元山付近で、1915年大正4年)に鉱床が発見されると、鉱区設定を巡る紛争が起きた。結果的に有志による組合により鉱区設定が許され操業が開始されるが、1917年(大正6年)に住友(のちの住友金属鉱山)が経営権を得て、以降1973年昭和48年)に至るまで操業を続けた。
鴻之舞鉱山は、元山鉱・倶知安鉱を中心に、などを産出したが、中でも金の埋蔵量は佐渡金山菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績であり、1940年(昭和15年)には年間金2.5トン、銀46トンを産出。1955年(昭和30年)には金年間2.98トンの最高産出量を記録した。操業開始から1973年の閉山まで、約73トンの産金をした。
鉱山の発展に合わせて、鉱山労働者とその家族の居住する街区が、藻鼈川・道道に沿って形成され、最盛期(1942年頃)には人口13,000を数えるまでになった。 しかし、1943年(昭和18年)には戦争の激化による産業統制の一環として金は不要不急の鉱物とされたため、産金部門で働く労働者の多くが産銅部門や住友系列の他の事業所に配置替えとなったため、一時的に地域の人口は激減した。戦時中は1937年(昭和12年)に勃発した支那事変の長期化により鉱山労働者が次々と徴兵され、ついには操業に支障をきたすようになった。このため親会社の住友は朝鮮総督府企画院に対して大陸からの労働者補充を幾度に渡り要請し、1939年(昭和14年)には、政府の労務動員計画に基づく朝鮮人労働者の移入が開始された。
第二次世界大戦後は金価格が下落し、資源も涸渇したことから、1973年に住友金属鉱山は鴻之舞鉱山の閉山を決めた。閉山後も沈殿池のみ稼働している。

輸送

1932年(昭和7年)から1952年(昭和27年)にかけて、石北本線丸瀬布駅と鴻之舞を結ぶ索道「鴻丸索道」による物資輸送が行われている。
鉱山が栄えたころの1943年(昭和18年)からは、1948年(昭和23年)までの短い期間であったが、紋別中心地と鴻之舞との間に鴻紋軌道が敷設されていた。軌道は物資輸送等に使用されたが、現在は道道紋別丸瀬布線が通るのみである(2009年平成21年)に新道へ切り替えられたため、通年通行可)。
1949年(昭和24年)には、紋別市街と鴻之舞を結ぶために北紋バスが設立され、バス路線が開設された。「上藻別」地区へ走る路線はかつての紋別市街と鴻之舞を結ぶ路線の名残であり、路線名は「鴻之舞線」で変わっていない。

遺構

木製の構造物は既に朽ち果て、集落もないが、大煙突発電所跡、学校の側壁跡などのコンクリートレンガ製の構造物が藪や林の中に散見される。鉱山があったことを示す碑、鉱山犠牲者の慰霊碑が建立されている。

関連項目

外部リンク



deepannai.info/hokkaido-kounomai/ - キャッシュ
北海道各所にある今は寂れてしまった炭鉱町を訪れた時、北海道の開拓の歴史と日本 の近代化の歴史を重ね見る。国家は国力を増強すべく資源を求め、人々はそれぞれに 富を求めて北の大地を目指し、末端の坑夫達は極寒の地で汗水を流して街を.

転載元転載元: 国益平和環境安全マネジメントって?


足尾銅山


足尾銅山

   
足尾銅山 所在地 所在地 Prefecture 国 座標 生産 産出物 歴史 開山 閉山
Ashio Copper Mine circa 1895.JPG
1895年の足尾銅山
足尾銅山の位置(日本内)
足尾銅山
足尾銅山
栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)
栃木県
日本
北緯36度38分0秒 東経139度26分23秒 / 北緯36.63333度 東経139.43972度 / 36.63333; 139.43972座標: 北緯36度38分0秒 東経139度26分23秒 / 北緯36.63333度 東経139.43972度 / 36.63333; 139.43972
1610年
1973年 (1973)
プロジェクト:地球科学Portal:地球科学
足尾製錬所跡(手前)と鉱山の備前楯山(奥)
足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山鉱山)。「足尾銅山跡」として国の史跡に指定されている。
明治期には亜砒酸も産出し、精錬の副産物として硫酸も生産していた。

足尾鉱毒事件

   
足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県群馬県渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる足尾銅山での公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。
銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。



戦後[ソースを編集]

渡良瀬川側から見た足尾砂防ダム(1997年7月22日撮影)
1947年カスリーン台風以降、政府は渡良瀬川全域に堤防を作った。この堤防工事は20年ほどかかった。堤防の竣工以後、渡良瀬川では大規模な洪水はない。
土砂の流出を防ぐため、1960年、足尾町に防砂ダムの足尾ダム(通称、三沢合流ダム)が作られた。容積500万立方メートルで、利根川水系の砂防ダムとしては最大。また、日本でも最大級の砂防ダムだとされる。2003年現在の堆砂率は67%。
渡良瀬川の治水首都圏への水道供給を主目的にした多目的ダム草木ダムが渡良瀬川上流の群馬県勢多郡東村に作られた(1977年竣工)。このダムは鉱毒対策を目的の中に入れていなかったが、参議院議員近藤英一郎(当時)が商工委員会で質問を行った結果、このダムについては「水質保全に特に留意」することとされた経緯がある。鉱毒を下流に流さないようにするための半円筒形多段ローラーも採用された。このダムは常時水質検査が行われ、結果が随時公表されているが、そのような多目的ダムは日本にはほとんど存在しない。竣工が銅山の閉山後だったこともあり、水質検査では異常な値はあまり検出されていない。
1976年7月30日、群馬県栃木県桐生市太田市と古河鉱業の間で公害防止協定が締結された。ただし、後述する毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会はこの協定への参加を拒否した。この協定に基づき、水質検査などが行われている。鉱毒被害地の農地の土地改良も、公害防止協定締結後に行われた(後述)。

なお、協定に基づく水質検査の結果、降雨時の堆積場からの水質が環境基準を超えていることがあることを群馬県が2005年に指摘している。


毛里田地区の祈念鉱毒根絶碑。「土」の字をかたどっている。記念碑としなかったのは、鉱毒問題が解消していないためで、鉱毒の根絶を願い建立された。1977年建立

毛里田地区の鉱毒反対運動は、どこからも主だった支援を受けず、農民の手弁当による活動であるところが他の同種の運動と大きく異なる。ただし、支援の申し出がなかったわけではなく、受け入れ体制が整わなかったのが支援を受けなかった理由であるという。
毛里田地区の調停成立直後の1974年11月18日、群馬県桐生市で桐生地区鉱毒対策委員会が設立され、農民444人が古河鉱業に対し交渉をもった。1975年11月18日和解が成立し、古河鉱業は銅などによる鉱毒被害を認め、2億3500万円を支払った。

1974年10月25日、太田市韮川地区鉱毒根絶期成同盟会の農民546人が、13億円の賠償を古河鉱業に請求。1976年12月1日、和解が成立し、古河鉱業は1億1千万円を支払った。
毛里田地区で申請漏れになっていた住民が、公害等調整委員会に調停を申請。1977年12月、390万円で和解が成立した。

1994年、毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会と、韮川地区鉱毒根絶期成同盟会が合併。鉱毒根絶太田期成同盟会(会長:板橋明治)となった。

2000年2003年2004年に、群馬県は農用地土壌汚染対策指定地域を追加指定。これまでに指定され、まだ解除されていない農地も含め、2005年現在の対策指定地域は53.74haである。2000年以降の追加指定地は、大部分が1970年代の調査が不十分で調査洩れになっていた地域と考えられている。

2004年、桐生市議会は、足尾町の中才浄水場に自動取水機の設置を求める要望書を採択した。2014年には1974年に県内の若手公務員[注釈 2]宇都宮大学生ら約30人により製作が開始された記録映画『鉱毒悲歌』が完成している。この映画は資金不足を理由に編集作業が立ち消えとなっていたが、元参院議員の谷博之が新規に制作委員を立ち上げて制作を完了させた。事件の被害者の貴重な証言なども収められている[2]

転載元転載元: 国益平和環境安全マネジメントって?





保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)とは、1950年6月25日朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国国軍韓国警察共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件[1][2]。被害者は少なくとも20万人から120万人とする主張もある[1]1960年四月革命直後に、この事件の遺族会である全国血虐殺者遺族会が遺 族の申告をもとに報告書を作成したが、その報告書は虐殺された人数を114万人としている[3]
韓国では近年まで事件に触れることもタブー視されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた[4]

経緯

韓国軍と警察による処刑を待つ人
処刑者の致死確認を行う韓国軍兵士(アメリカ軍撮影)
韓国軍及び韓国警察により処刑された人
韓国軍兵士による処刑の瞬間

国民保導連盟による共産主義者への弾圧

 日本の敗戦時、朝鮮の抗日勢力においては民族主義者の潮流が衰退し、共産主義者が各地で主流を占めていた。李承晩率いる大韓民国政府は、ストライキや武装闘争を挑む南朝鮮労働党(南労党)を中心とする共産勢力に対して弾圧を行い、1948年12月1日国家保安法を制定。1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織し、翌年にかけて末端組織を全国に拡大した。

 「大韓民国絶対支持」「北傀儡政権絶対反対」「共産主義排撃粉砕」「南北労党暴露粉砕」を綱領に掲げるこの組織には、転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいう。

朝鮮戦争から処刑へ

 1950年6月25日朝鮮戦争が勃発。朝鮮人民軍が南進しソウルに迫った。6月27日、李承晩大統領は保導連盟員南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を発し[2]、同日中にソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。

処刑が行われた地域

慶尚南道

 また、北朝鮮軍が侵攻していない非戦闘地域の釜山馬山済州刑務所などでも韓国軍や韓国警察により市民や囚人達が虐殺されたことが確認されている[5]
 また、晋州刑務所に収監されていた民間人を馬山の廃坑に連行して虐殺した[6]

済州島

 済州では同時期に済州島四・三事件による虐殺もなされている。

忠清北道

 韓国中部の忠清北道清州市清原郡でも虐殺が行われ[7][8]清原郡では、100体以上の虐殺体が発見されており、犠牲者は7000人に上るとされている[8]

全羅南道

 韓国南西部の全羅南道咸平郡の村では、韓国陸軍第11師団によって無実の村民たちが虐殺されたことが明らかにされている[8]。村民たちは韓国軍によって一同に集められると機関銃で一斉射撃を浴びせられ、銃撃が終わると、韓国軍将校は「生存者は助けるので立ち上がるように」と呼びかけ、これに応じて立ち上がった人々にはさらなる銃撃が加えられた[8]
 調査委員会は「人道に対する罪」であるとしている[8]

慶尚北道

 1950年7月から9月にかけて、慶尚北道永川市洛東江近辺の村々では、韓国軍と韓国警察によって、数百名の村民と保導連盟員が虐殺されたことが確認されている[7]。また、韓国政府の調査によってアメリカ合衆国の諜報機関も虐殺を感知していたことが明らかにされている[7]

韓国政府の弁明

 韓国当局は彼らが北朝鮮軍に呼応して反乱することを恐れたと弁明した。また、ソウルに侵攻した北朝鮮にとっても、保導連盟員は党を捨てて敵の体制に協力した者にほかならず、追及・粛清の対象となった。再び、アメリカ・韓国軍がソウルを奪還すると北朝鮮の協力者とされたものたちは虐殺された[9]

日本への影響

 南北朝鮮双方からの虐殺を逃れようとした人々は日本へ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。

虐殺の被害者数

 「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」の研究では60万人から120万人が虐殺されたとしている[1][10]。李承晩大統領が失脚した1960年四月革命直後に、全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成したが、その報告書は虐殺された人数を114万人としている[11][12]
 韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会ko)」は朝鮮戦争の初期に韓国政府によって子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認している[9]

記録・証言

アメリカ、イギリス、オーストラリア

公開されたアメリカ軍の機密書類にはアメリカ軍将校の立会いと虐殺の承認などの詳細が記録されている[9]。イギリス人[5]やオーストラリア人の目撃もあり、アメリカ軍少佐はワシントンに虐殺の写真を報告しているが半世紀の間隠蔽され続けてきた[4]。また、アメリカ軍司令官のダグラス・マッカーサーにも報告されていたが止めようとした形跡は見つかっていない[4]

韓国人の証言

2000年BBCは12,13歳の少女がアメリカ人の目の前で処刑されたと報じた[13]。また、韓国海軍が遺体を海上に投棄したとする韓国海軍提督による証言も掲載した[13]
2007年12月3日に『ニューヨーク・タイムズ』は、キム・ヨンスク韓国陸軍憲兵軍曹が1950年6月に韓国陸軍の命令に従い、共産主義者の嫌疑をかけられ警察署に拘留されている人々を殺害したとする証言を報じた[8]。キム・ヨンスクは、「銃撃を始めると人々は逃げようとしたがワイヤーで数珠つなぎにされており、ワイヤーが腕を斬り裂き服を真っ赤にした」など具体的な虐殺の証言を行った[8]。『ニューヨーク・タイムズ』は、女性や子供を含めた数万人もの非武装の市民が裁判もなしに虐殺されたと報じるとともに、韓国政府が2005年に設立した調査委員会の調査によってアメリカ軍機やアメリカ軍地上部隊が非武装の市民を殺害していたことが明らかにされたことも報じている[8]

韓国現代史最大のタブー

この事件は韓国現代史最大のタブーとも言われ、軍事政権下はもちろん、その後も口に出すのも憚られると言われてきた。

盧武鉉政権による「過去史」清算事業

李承晩以来の独裁的・軍事的政権を批判する立場からは、体制によって隠匿されてきた権力犯罪の一環として糾明の対象となり、盧武鉉政権による「過去史」清算事業の対象の一つとなった。
2008年1月24日、盧武鉉大統領は保導連盟事件の犠牲者追悼式に送ったメッセージで、国家権力の不法行為に対して包括的な形で謝罪を表明した[14]

批判

韓国紙・朝鮮日報は、2007年3月15日付の社説で「過去史委員会による壮大な予算の無駄遣い」と題し、保導連盟事件の調査にあたる「真実・和解のための過去史整理委員会」(委員長・宋基寅(ソン・ギイン))を指し、「趣味程度に過去の歴史を書き直したいのなら、何も国民の税金にたからずに「過去史書き換え同好会」の会員たちで募金活動でも行って、必要経費をまかなうべきだろう」と述べ、真相究明への否定的な社説を発表している[15]

関連作品

文学

タブーとされた軍警による国民殺害に触れた早い例として、文学作品では趙廷来太白山脈』(1987年出版)がある。

映画

2004年には、保導連盟署名者の凄惨な処刑が重要な場面で描かれている映画『ブラザーフッド』が製作・公開された。



保導連盟事件 各種表記ハングル漢字発音日本語読み: ラテン文字表記:
Bodo League Massacre at Daejon, South Korea, 1950.jpg
処刑される保導連盟員
(1950年韓国大田近郊・アメリカ軍撮影)
보도연맹 사건
保導聯盟事件
ポドヨンメン サコン
ほどうれんめいじけん
Bodo Yeonmaeng Sageon



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