明るく
[ リスト | 詳細 ]
|
イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年(天保2年)10月15日 - 1904年(明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家[1]、写真家[2]、ナチュラリスト[3]。ファニー・ジェーン・バトラーと共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した[4]。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された[5]。1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップ(Isabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された[6]。
(Isabella Bird Bishop) 誕生 死没 墓地 職業 言語 国籍 活動期間 ジャンル 主題 デビュー作 配偶者 子供 親族
『朝鮮紀行』 最初の朝鮮訪問は1894年(明治27年)。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅し、『朝鮮紀行』を記した。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードがじかに見聞きした朝鮮の情勢を伝える。
以下、『朝鮮紀行』より。
詳細は「朝鮮紀行」を参照
『朝鮮紀行』(ちょうせんきこう、Korea and Her Neighbours)はイザベラ・バードが1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、4度にわたり最末期の李氏朝鮮(朝鮮王朝)を訪れた旅行の記録。当時の朝鮮の風俗、社会、政治情勢などを知ることのできる歴史的資料である。
バードの印象釜山の印象釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している(「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」[1])。
ソウルの町並みと悪臭バードは本書の中で、1894年の訪問時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している[2]。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記している[3]。
また、ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている[4]。他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している[5][6]。
ソウル環境改善の印象バードによると、ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長(漢城府伴尹)李采淵が、1897年から税関長マクレヴィ・ブラウンの提案のもとに、市内環境改善を行なっており、「不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている!(講談社学術文庫版p545)」「路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔きまわりない旧ソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている(同頁)」と記載し、改善点を具体的に列挙し、「首都修復は朝鮮式の法則に従ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない(同p546)」と記している。その結果、ソウルの街並み環境は著しく改善し、バードは、1894年当時そのままの姿の残るスラムを写真に撮ろうとしたが、「そんな場所はどこにも見つからなかった」と記載する程の改善を見せた(同p546)。
ロシア沿海州と朝鮮との国境附近また、ロシア国境部の沿海州ではロシアの影響により近代化が進んでおり、水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島の他地域のものより立派だと記述した上で、「朝鮮人というのは屑のような民族でその状態は望み無しと考えていた」がその考えを正すべきかもとして、朝鮮半島でも他国の文明の導入が可能であることを示唆している[8]。
両班制度についてまた、身分制度に関して、両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っているとしている。両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかないと述べている。朝鮮の官僚については、日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していたとし、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかったと述べている。 釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している。「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」[22]。
『朝鮮紀行』の中の1ページ バードは韓国併合以前の当時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している[23]。
また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記しており[24]、ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている[25]。
他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している[26][27]。また貨幣・通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している[28]。
そして日清講和条約で日本が朝鮮の独立を成し遂げて実質的な日本の保護国とした3年後の1897年(明治30年)にバードがソウルを再訪した際の体験によると、ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長(漢城府伴尹)李采淵が、1897年(明治30年)から税関長ジョン・マクレヴィ・ブラウンの提案のもとに、市内環境改善を行なっており、「不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている![29]」「路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔極まりない旧ソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている[29]」と記載し、改善点を具体的に列挙し、「首都修復は朝鮮式の法則に従ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない(同p546)」と記しており、ここでも日本についての言及と同様に、肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。
朝鮮とロシア国境部の沿海州では水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島におけるものより立派だとし、「朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望み無しと考えていた」がその考えを正すべきかもしれないとしている[30]。
「両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない[32]」と述べている。
朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していた[33]」とし、「堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった[34]」と述べている。
他方、「一般に表情はにこやかで、当惑が若干混じる。顔だちから察せられるのは、最良の場合、力あるいは意志力よりも明敏さである。朝鮮人はたしかに顔だちの美しい人種である[35]」とも、また「朝鮮人は清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっと見栄えがよくて、体格は日本人よりはるかにりっぱである」とも記している[36]。
|
|||||||||||||||
|
伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。
|
||||||
|
朝鮮半島南部の前方後円形墳 これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」・「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳(전방후원분)」のほか楽器のチャング(チャンゴ/장고/長鼓)になぞらえ「長鼓墳(チャンゴブン/장고분)」などと表記される。
日本列島の前方後円墳との間には類似点・相違点が存在することから、以下本項では「前方後円形墳」の表記で区別して解説する。 概要 これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期から後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、日本列島から朝鮮半島への勢力伸長・文化移入を表すものとして注目される。
古墳の構造は、前方後円形という概形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設・埋葬施設の点では個々で相違し画一的ではない。
しかし、それら墳丘・施設が列島と共通するのは概ね外形(設計図)に限定的で、実際の築造・作製においては在地工人の技術が多数指摘される。
前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の倭(日本)・百済・加耶とも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。
栄山江流域は日本列島と連続する地域ではなく一帯では列島からの大量移住の形跡もないため、このような列島系の墳形が採用された背景は詳らかとはなっておらず、現在も被葬者としては在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続けられている。
特徴
海南龍頭里古墳の墳形
背景 朝鮮半島では、4世紀後半から高句麗が南下政策を採り、475年に百済の漢山城(漢城:ソウル特別市)が高句麗によって陥落する。これを受けて百済は都を475年に熊津(忠清南道公州市)、さらに538年に泗沘(忠清南道扶餘郡)に遷した。
前方後円形墳が営まれた5世紀後半から6世紀前半という期間は、百済がこの熊津に都を置いた時期に概ね相当する。この間に百済は勢力回復のため半島南部を志向し、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を512年に(日本書紀においては、ヤマト王権による任那内四県の割譲とされる)、516年までに己汶、522年までに帯沙(多沙津)を領有する[14][15]。
栄山江流域に限定した場合、文献史学的には史料に乏しいためこの期間の実態は明らかでない。今日の2000年代以降の歴史教科書においても、この地域を日本側では加耶諸国の領域に、韓国側は百済の領域に含めており日韓両国で見解に相違が存在する[16]。この相違は『日本書紀』神功皇后49年(369年?[注 1])3月条での加羅七国平定伝説ならびに朝鮮半島南部を支配したという組織(いわゆる任那日本府)の真の主体についての見解の違いに起因するものであったが、この地域の考古学的な実態解明が進んだことによって日本・百済のいずれの直轄的支配も見直されつつある[17][12]。考古学的には、栄山江流域は原三国時代(馬韓・弁韓・辰韓)の馬韓諸国の1つで、三国時代にも百済に併合されるまで倭(日本)・百済・加耶のいずれにも属さない在地勢力(馬韓残存勢力、一説に慕韓)であったと考えられるようになってきている[16][17][12]。
そして5世紀後半から6世紀前半に在地系の高塚古墳や列島系の前方後円形墳が築造されたのち、6世紀中頃には百済系の陵山里古墳群型石室が営まれ馬韓勢力のうちで最も遅く百済の支配下に入ったものとされる[17]。なお、512年に百済が領有したという上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を栄山江流域に比定する説がある[16][18]。
|





