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女性紀行家が観た、李氏朝鮮末期の朝鮮の真実…イザベラバード朝鮮紀行抜粋




イザベラ・ルーシー・バードIsabella Lucy Bird, 1831年(天保2年)10月15日 - 1904年(明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家[1]、写真家[2]、ナチュラリスト[3]ファニー・ジェーン・バトラー英語版と共同で、インドジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した[4]。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された[5]。1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップIsabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された[6]

イザベラ・バード・ビショップ
(Isabella Bird Bishop)
誕生 死没 墓地 職業 言語 国籍 活動期間 ジャンル 主題 デビュー作 配偶者 子供 親族
Isabella Bird.jpg
イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird)
1831年10月15日
イギリスの旗 イギリスヨークシャーバラブリッジ英語版
1904年10月7日(満72歳没)
イギリスの旗 イギリスエディンバラ・メルヴィル通り(Melville Street)
イギリスの旗 イギリス・エディンバラ・・ディーン墓地英語版
旅行家・探検家・紀行作家・写真家・ナチュラリスト
英語
イギリスの旗 イギリス
1856年 - 1901年
旅行記・探検記
オーストラリアハワイロッキー山脈日本清国李氏朝鮮ベトナムシンガポールマレーシアインドチベットペルシャクルディスタントルコモロッコ
The Englishwoman in America - Google ブックス
ジョン・ビショップ
なし
エドワード・バード(父)、ドーラ・ローソン(母)




『朝鮮紀行』

 最初の朝鮮訪問は1894年(明治27年)。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅し、『朝鮮紀行』を記した。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードがじかに見聞きした朝鮮の情勢を伝える。
 筆者の犀利な観察眼と朝鮮の資料としての評価より、1925年(大正14年)に日本国内でも抄訳され、『三十年前の朝鮮』の書名で出版された[21]
以下、『朝鮮紀行』より。
 釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している。「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」[22]

朝鮮紀行』の中の1ページ

 バードは韓国併合以前の当時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している[23]
 また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記しており[24]、ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている[25]
 他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している[26][27]。また貨幣通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している[28]

 そして日清講和条約で日本が朝鮮の独立を成し遂げて実質的な日本の保護国とした3年後の1897年(明治30年)にバードがソウルを再訪した際の体験によると、ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長(漢城府伴尹)李采淵が、1897年(明治30年)から税関長ジョン・マクレヴィ・ブラウンの提案のもとに、市内環境改善を行なっており、「不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている![29]」「路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔極まりない旧ソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている[29]」と記載し、改善点を具体的に列挙し、「首都修復は朝鮮式の法則に従ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない(同p546)」と記しており、ここでも日本についての言及と同様に、肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。

 朝鮮とロシア国境部の沿海州では水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島におけるものより立派だとし、「朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望み無しと考えていた」がその考えを正すべきかもしれないとしている[30]

 身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っている[31]」としている。
 「両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない[32]」と述べている。

 朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していた[33]」とし、「堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった[34]」と述べている。

 他方、「一般に表情はにこやかで、当惑が若干混じる。顔だちから察せられるのは、最良の場合、力あるいは意志力よりも明敏さである。朝鮮人はたしかに顔だちの美しい人種である[35]」とも、また「朝鮮人は清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっと見栄えがよくて、体格は日本人よりはるかにりっぱである」とも記している[36]







伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。



三国時代の朝鮮半島左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4〜5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。三国時代の朝鮮半島左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4〜5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。
三国時代の朝鮮半島
左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4〜5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。



呼称

 414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている[1]

 中国梁国の時の537年に蕭子顯が編纂した史書に南齊書よると、加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。 と記録されている。
倭国の後継国である日本で720年に成立した『日本書紀』では、加羅任那が併記される[2]
 中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される[3]。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑[4]801年成立の『通典[5]、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている[6]

 基本的には加羅と呼ばれる。「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが[7]、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されている[7]



 『三国史記』『三国遺事』などの文献史料は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世紀頃に部族集団が形成されたと推測されてきている。
 1世紀中葉に倭人の国で最も北に位置する狗邪韓国(慶尚南道金海市)とその北に位置する弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)以後になると従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の狗邪韓国(金官国)に繋がる倭人が進出した結果と見られる[8]
 首露王により建国されたとされる「金官国」が統合の中心とする仮説が主張されている。

 4世紀初めに中国の羈縻支配が弱まると馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓と弁韓の諸国は国家形成が遅れた[9]。『日本書紀』や宋書梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している[10][9][11]

 5世紀初めには倭国の支配力が強まるとともに任那地域では金官国の影響力が衰え、5世紀後半には加羅地域で大加羅国(慶尚北道高霊郡)の影響力が強くなった。

 加羅と関係の深い任那諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側諸国は百済へ倭から割譲或いは武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった[12]。512年に4県を倭が百済へ割譲し、532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、また562年には洛東江流域の任那諸国を新羅が滅ぼした[9]

倭国および任那との関連

 加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたことが有力視されている[13][11][14][15]。倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。

 また高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで[16]、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した[17]
日本列島での事例が大半である墓制の前方後円墳が朝鮮半島でも幾つか発見されている[18]

 朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は任那であり、金官国を中心とする任那の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう[19]。そのほか、新羅百済任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られること[20]や、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した[21]ことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。

 任那地域については、日本が大陸での影響力を失い任那加羅が百済新羅両国により占領された後も、新羅と百済は倭国に対して任那地域の調を収めていた記録が残っている[22]

歴史

辰韓諸国と弁韓諸国

 朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道大邱慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。

 朝鮮半島南西部の弁韓地域には、紀元前10世紀から黄海沿岸に位置する山東半島・遼西・遼東半島の物と非常に類似した様式の土器や石器が見られるようになる。1世紀中頃になると社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。また、この地域は豊かな鉄産地と海運の良好な条件に恵まれていた。

金官国(駕洛国)

 2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の金官国(狗邪韓国、駕洛国)であった。任那の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯であり、現在も貝塚土坑墓などの遺跡が散在している[23]

 6世紀前半になると百済は南下し朝鮮半島南部まで影響力を及ぼす。5世紀初頭に至り高句麗楽浪郡帯方郡を征服し、新羅にまで勢力を及ぼすようになった。新羅も辰韓の盟主として独自の勢力を固めていた。

倭国と高句麗の戦争

  4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば、391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする[24]393年には倭が新羅の王都を包囲する[25]397年、百済が倭国に阿莘王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ[26]。いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる[24]400年には倭が新羅の王都を占領していた[24]。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した[24]402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界(帯方郡との境)にまで倭が攻め込んでいる[24]

405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位する。このように倭の朝鮮半島への影響力が伸張していた。なお三国史記では、この時期の加羅に関する直接的記述は空白となっている。

日本書紀では、249年もしくは369年とされる神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事や、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自ホ(ひじほ)、南加羅(ありひしのから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し、西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事などがある。


1426+1132 なぜ朝鮮半島に前方後円墳があるのかMystery, Why Japanese Mounds in Korean Penisula by はやし浩司




朝鮮半島南部の前方後円形墳

   
朝鮮半島の前方後円形墳(長鼓墳)の1つ。左に前方部、右奥に後円部と石室。日本列島の前方後円墳同様に周堀を有する。
朝鮮半島南部の前方後円形墳の位置(韓国内)
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
前方後円形墳(長鼓墳)の分布

 本項では朝鮮半島南部の前方後円形墳、すなわち朝鮮半島南部の大韓民国(韓国)全羅南道全羅北道に分布する、日本列島の前方後円墳と同じ墳形の古墳について解説する。

 これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」・「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳(전방후원분)」のほか楽器のチャング(チャンゴ/장고/長鼓)になぞらえ「長鼓墳(チャンゴブン/장고분)」などと表記される。
 日本列島の前方後円墳との間には類似点・相違点が存在することから、以下本項では「前方後円形墳」の表記で区別して解説する。


概要

 朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ古墳として、10数基の存在が知られる。
 これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期から後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、日本列島から朝鮮半島への勢力伸長・文化移入を表すものとして注目される。

 古墳の構造は、前方後円形という概形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設・埋葬施設の点では個々で相違し画一的ではない。
 発掘調査では、外表施設として一部の古墳に周堀・段築・葺石・埴輪・木製品が存在することや、埋葬施設として一部に九州系横穴式石室の要素が存在することが判明し、これらは日本列島の前方後円墳とも共通する。
 しかし、それら墳丘・施設が列島と共通するのは概ね外形(設計図)に限定的で、実際の築造・作製においては在地工人の技術が多数指摘される。

 前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の(日本)・百済加耶とも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。
 そしてこの在地勢力が6世紀中頃に百済の支配下に入る前段階において、在地系の高塚古墳とともに列島系の前方後円形墳や、九州系石室を有する列島系の円墳方墳が展開した。
 栄山江流域は日本列島と連続する地域ではなく一帯では列島からの大量移住の形跡もないため、このような列島系の墳形が採用された背景は詳らかとはなっておらず、現在も被葬者としては在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続けられている。



特徴

分布
 上記一覧表のように、朝鮮半島西南部の全羅南道全羅北道(一部)における栄山江流域・霊光地域・高敞地域・海南半島に10数基が分布する。この地域では、在地系古墳として羅州市の羅州潘南古墳群・羅州伏岩里古墳群などが知られ、前方後円形墳はその外縁部に1基ずつ距離をおいて位置する[9]。ただし、光州月桂洞1号墳・2号墳のみ2基が隣接して築造されている。

築造年代
 発掘調査が行われていない古墳もあり築造年代は確実ではないが、概ね5世紀後半から6世紀前半の期間に収まるとされる[9]。日本列島の前方後円墳の期間(3世紀中頃-7世紀前半頃)に比して短期間の築造になる。この期間は朝鮮半島では三国時代、日本列島では古墳時代中期-後期に相当する。


墳丘
 墳丘は前方後円形で、日本列島の前方後円墳と平面形を概ね共通する。墳丘長は約30メートルから最長76メートル(海南長鼓山古墳)で、日本列島の同時期の前方後円墳に比して中-大規模クラスになる。しかし墳丘表面が急斜するなど、断面形において日本列島のものとは大きな差異が認められる[10]
 また、前方後円形墳同士でも形状は異なり、特に光州月桂洞1号墳・2号墳と光州明花洞古墳では、前方部が扇状に広がる特徴を有する[10]
 墳丘自体の築造方法は、日本列島の工人の手法ではなく在地系工人の手法になる[10]。そのため、日本列島の前方後円墳と同一でなくむしろ模倣に近いと指摘される[10]
円筒形土製品
光州月桂洞出土品。国立光州博物館展示。

外部施設

 外部施設として、一部の古墳では墳丘表面に周堀・葺石・段築の存在が知られ、これらは日本列島の前方後円墳と共通する[10]造出はいずれの古墳も有していない。
光州月桂洞1号墳・光州明花洞古墳・霊岩チャラボン古墳では、円筒埴輪朝顔形埴輪に類似した土製品が出土している[11]。これらの器形や、墳丘周囲に並べる使用法は、列島の埴輪とも一致する[11]
 また光州月桂洞1号墳・霊岩チャラボン古墳の周堀からは、列島のものと似た木製品が出土している[11]。しかし、以上の土製品・木製品は列島の出土品と作製法・形状の点で大きな相違があり、墳丘築造同様に在地系工人による模倣と指摘される[10][11]

 なお円筒埴輪状土製品の使用は、前方後円形墳に限らず在地系古墳においても見られている[11]

内部施設(埋葬施設)
 日本列島の前方後円墳と同様に後円部中央に埋葬施設1基を有し、石室は多くで横穴式石室が採用されている(ただし霊岩チャラボン古墳は竪穴式石室[11]。発掘調査がなされた古墳のうちで、海南龍頭里古墳・咸平新徳1号墳は、日本列島の北部九州・有明海沿岸部の古墳と概ね同じ工法で、内壁にベンガラを塗ることにも共通性が見られる[11]
 海南長鼓山古墳においても同様に北部九州の要素が部分的に認められるが、全体的には北部九州とは異なる独特の構造になる[11]。光州月桂洞1号墳・2号墳の場合は大部分が破壊されているが、やはり九州系石室の要素が存在する[11]。一方これらに対し、霊岩チャラボン古墳は百済系の石室とされる[11]。なお光州明花洞古墳でも石室の調査がなされているが、破壊が著しいため系譜はわかっていない[11]

 石室内の埋葬棺は、咸平新徳1号墳や光州月桂洞1号墳・2号墳では百済系装飾木棺の使用が推測されている[11]。また光州明花洞古墳・霊岩チャラボン古墳においても木棺の使用が推測される[11]。これら木棺の使用は、北部九州にはほとんど見られない埋葬法になる[11]。石室内施設での列島系要素は少なく、石屋形状(光州月桂洞1号墳)や石室内壁のベンガラに見られる程度である[11]。咸平新徳1号墳では埋葬施設から多数の副葬品が見つかっており、倭系文物の銀装三角穂式鉄鉾・捩り冠頭太刀、百済系文物の装身具が見つかっている[11]

 なお、上記の北部九州系の横穴式石室は前方後円形墳に限ったものではなく、全南地方の在地系古墳や慶南地方(慶尚南道)の古墳においても一部で確認されている[12]

在地系古墳との比較
 栄山江流域では、前方後円形墳とは異なる在地系古墳も羅州を中心として同時期に営まれている(羅州潘南古墳群・羅州伏岩里古墳群など)[13]。その中で、5世紀中頃までは低墳丘に複数の甕棺・木棺を埋葬する複合梯形墳が採られた[13]。5世紀後半から方形・円形の高塚古墳に変わり、墳丘には複数の横穴式石室が設置された[13]
 これらと前方後円形墳とは、横穴式石室の使用、葺石・埴輪状土製品の使用、百済系装身具の使用、木棺の使用などの共通点が存在する[13]。一方で、墳形や、1古墳における埋葬施設の数の点では明らかに相違し、立地においても在地系高塚古墳の外縁部に前方後円形墳が分布するという違いがある[13]

背景

●-新羅
●-百済
○-栄山江流域
6世紀前半頃の朝鮮半島
 朝鮮半島では、4世紀後半から高句麗が南下政策を採り、475年百済の漢山城(漢城:ソウル特別市)が高句麗によって陥落する。これを受けて百済は都を475年に熊津忠清南道公州市)、さらに538年に泗沘(忠清南道扶餘郡)に遷した。
 前方後円形墳が営まれた5世紀後半から6世紀前半という期間は、百済がこの熊津に都を置いた時期に概ね相当する。この間に百済は勢力回復のため半島南部を志向し、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を512年に(日本書紀においては、ヤマト王権による任那内四県の割譲とされる)、516年までに己汶、522年までに帯沙(多沙津)を領有する[14][15]

 栄山江流域に限定した場合、文献史学的には史料に乏しいためこの期間の実態は明らかでない。今日の2000年代以降の歴史教科書においても、この地域を日本側では加耶諸国の領域に、韓国側は百済の領域に含めており日韓両国で見解に相違が存在する[16]。この相違は『日本書紀』神功皇后49年(369年?[注 1])3月条での加羅七国平定伝説ならびに朝鮮半島南部を支配したという組織(いわゆる任那日本府)の真の主体についての見解の違いに起因するものであったが、この地域の考古学的な実態解明が進んだことによって日本・百済のいずれの直轄的支配も見直されつつある[17][12]。考古学的には、栄山江流域は原三国時代馬韓弁韓辰韓)の馬韓諸国の1つで、三国時代にも百済に併合されるまで(日本)・百済加耶のいずれにも属さない在地勢力(馬韓残存勢力、一説に慕韓)であったと考えられるようになってきている[16][17][12]

 そして5世紀後半から6世紀前半に在地系の高塚古墳や列島系の前方後円形墳が築造されたのち、6世紀中頃には百済系の陵山里古墳群型石室が営まれ馬韓勢力のうちで最も遅く百済の支配下に入ったものとされる[17]。なお、512年に百済が領有したという上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を栄山江流域に比定する説がある[16][18]

 日本列島では、3世紀中頃に前方後円墳が発生し、この「前方後円形」を首長墓の基本規格とする政治体制いわゆる「前方後円墳体制」が漸次形成された[19]。4世紀半ばからは大陸王朝が弱体化し、列島・半島それぞれで中央集権化が進むが、その過程で、列島では5世紀に入ると巨大前方後円墳が創出され、5世紀後半の雄略大王(雄略天皇)の頃には前方後円墳の分布域は最大を迎える。6世紀前半の継体大王(継体天皇)の頃には半島との交流が特に活発化するが[20]、この間、ヤマト王権は半島への政治的影響力を高め、半島においても前方後円形墳が造営されるに至る[19][20]
 ただし、6世紀後半までは列島での対半島外交は一元化されておらず、ヤマト王権のほか葛城・吉備・筑紫など各地方豪族によって多元的外交が行われたとされる[16][14]。そのうち筑紫勢力(九州勢力)については、半島の九州系横穴式石室の展開との関係がうかがわれ、磐井の乱527年-528年<または530年-531年[注 2]>)を契機とした筑紫勢力の衰退との関連を推察する説もある[12]

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