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【平安宮/千本丸太町界隈】
三月八日、梅かおり始める京都のまちなかさんぽへ出かけました。千本二条をスタートです。794年に平安京が始まった当時、千本通りは朱雀大路と呼ばれ京都のメインストリートでした。千本二条あたりに国政、儀式、年中行事などを行う平安宮の大内裏の門・朱雀門があり、千本丸太町あたりに国会議事堂にあたる朝堂院と国家の饗宴施設である豊楽院(ぶらくいん)がありました。平安宮は東西1.1㎞、南北1.3㎞広さを有し、周囲を高い築地塀と濠で囲まれていました。今で言うところの皇居と霞が関が一緒になっていたのですね。
平安京看板
今日は朝堂院の中で最も大切な場所・正殿の大極殿があった場所に行きました。大極殿は1177年の大火で焼失し以後再建されず儀式は内裏の紫宸殿へと移ったそうです。今は千本丸太町の公園にひっそりと大極殿跡として石碑が残されています。この場所で朝堂院を目にすることはできませんが、明治28年に行われた平安京遷都1100年祭では8分の5に縮小された朝堂院がパビリオンとして再現され、祭事後朝堂院のパビリオンをつぶすにはもったいないということで京都の始祖・桓武天皇を奉祝する平安神宮となったので再現の朝堂院を見ることができます。
寂しい平安京大極殿跡
【平安宮から御所のはじまり】
794年に始まった平安京も50年も経つと都の形成は変わり、西のエリアは湿地で病気がはやり人は次第に住居に適した東へと移り住み、東のエリアが発展しました。東へと中心が移り、メインストリートだった朱雀大路(千本通)も中心でなくなり衰退し道幅80メートル前後あった広さは細い道となりました。また、宮殿は度重なる火災で公家の家を仮住まいとする里内裏を繰り返し1177年の安元の大火(あんげんのたいか)からは現在の御所の位置になりました。
【平安宮跡の聚楽第建立】
もとの平安京大内裏が時代とともに移動してなくなった跡には、豊臣秀吉の聚楽第の建設が着工(1586年)されました。建物の外郭には秀吉配下の家臣邸宅が軒を連ね立派であったことでしょう。この建物は秀吉の権勢を示すためのものでありましたが、現存したのはわずか8年たらずでした。秀吉は豊臣秀次に政権を譲りこの聚楽第も秀次に渡しましたが、秀次の失脚により建物はすべて破壊され何も残っていません。ただ町名で聚楽第の名前が残り聚楽第がここに存在したことを証明しています。たぶん、この地を掘れば平安宮の朝堂院や聚楽第の遺構がたくさん出てくるに違いありません。
聚楽第の地名
【祐正寺】
大極殿跡を後にして千本通を一本西にある七本松通を歩きました。七本松下立売通を上がった東側に浄土宗の祐正寺というお寺があります。1602年に創建されご本尊は恵心僧都作の阿弥陀如来立像です。また、洛陽四十八願所地蔵巡りの第九番札所でもあり、札所のご本尊は通称・妻取地蔵尊として有名です。妻をめとる、よいお嫁さんが見つかるようにと男性限定の縁結びの仏様です。妻取地蔵尊のお堂横の梅は早咲きの梅で本日訪ねた3月8日の時点で満開でした。
妻取地蔵尊と満開の梅
可憐な梅
【出水通の七不思議】
本日のメインはあまり知られていない京都の通り出水通の七不思議をご紹介します。祐正寺を北に上がると出水通に出ます。“出水”という通りの名前の由来は、かつて御所の西に湧き水があり、しばしば道が浸水したことから名付けられたということです。出水界隈の七つのお寺にある不思議なお話をお寺とともにご紹介します。①光清寺の「浮かれ猫」②地福寺の「日限り薬師」③華光寺の「五色椿(枯死)と時雨松(枯死)」④観音寺の「泣く山門」⑤五劫院の「寝釈迦」⑥極楽寺の「ふたつくぐり戸」⑦玉蔵院の「円山応挙の幽霊掛け軸」です。それでは一つずつご案内します。
【出水通の七不思議①光清寺/浮かれ猫】
光清寺は1669年に伏見宮の貞致親王が御生母慈限院殿心和光清尼公の菩提のために創立されたお寺です。1706年に火災にて焼失しますが伏見宮の邦永親王により再建され御生母の法名をもって寺号とされました。
光清寺
本堂に安置されている聖観世音菩薩立像は慈覚大師の作と伝えられ、辨天堂は旧伏見宮邸より遷座されたと伝わります。その辨天堂の南側に掲げられている絵馬が出水七不思議の一つ「浮かれ猫」です。牡丹の花のもとにやすむ猫と舞う蝶が描かれた不思議な絵馬です。
江戸時代のある夜に近辺の遊郭から弦歌の音が聞こえると絵馬の猫が浮かれだし、女性の姿に化けて踊るので「浮かれ猫」とはやされるようになりました。時の住職の松堂和尚がこれはいけないと思い、法力で浮かれ猫を絵馬に封じ込めました。その夜に衣冠束帯に正した武士が住職の夢枕にあらわれ「私は絵馬の猫の化身です。あなたに封じ込められて不自由に耐えられません。今後はおとなしくしますのでお許しください」と嘆願しました。和尚様は哀れに思い封を解きました。その後異変はなかったけれど話は広まり、人気商売にご利益があるとされ諸芸上達を祈願する祇園、島原の名妓などが参詣したと伝わります。
浮かれ猫
七不思議のほかに、重森三玲の作庭・本堂前の「心和の庭」、玄関前庭「心月庭」が有名です。
心月庭
心和の庭
【出水通の七不思議②地福寺/日限り薬師】
地福寺は弘仁年間(810〜824)、弘法大師の十大弟子のひとり・真済上人(しんぜい)が太秦安井に嵯峨天皇の勅許を受けて創建。享保年間(1716〜1735)、道空和上が時の関白・鷹司公の重病を平癒したという薬師如来(秘仏)が本尊として祀られています。このご本尊・薬師如来に穴の開いた小石を奉納し、日にちを決めて祈願をすると耳が聞こえるようになるといわれ、出水七不思議の一つになっています。通称「日限り薬師」と呼ばれています。
地福寺
【出水通の七不思議③華光寺/五色椿(枯死)と時雨松(枯死)】
華光寺(げこうじ)は、豊臣秀吉の援助を受け1582年妙見寺の12世日堯上人(にちぎょうしょうにん)の隠居所として開山。豊臣秀吉が伏見城に安置していた毘沙門天蔵を譲り受け寺の守護神としました。境内の梵鐘は鎌倉後期の作で第二次世界大戦の鋳物供出を免れた貴重なもので京都府指定有形文化財に指定されています。
華光寺境内
京都府指定有形文化財に指定の梵鐘
さてこちらの出水七不思議は、晴れていても滴をたらす秀吉お手植えの「時雨松」と五色の花を付けたという「五色椿」です。今はどちらも枯死しました。
お寺の門には可愛い石のお地蔵様がお出迎えしてくださり、オープンな門構えは憩いのスポットでもあります。
可愛い微笑みのお地蔵様
紅い梅
【出水通の七不思議④観音寺/泣く山門】
観音寺は1607年に梅林和尚が一条室町に創建したお寺です。その後、天明の大火で建物が焼失したので正確な寺史はわかりませんが、918年には堀川一条のあたりに位置し、三善清行の葬送の時、その子浄蔵が仏神に祈り蘇生させたという、返り橋の名は“戻り橋”と呼ばれ、観音堂の信仰を集めて千人堂と称せられていたとも言われています。その後慶長の時代に現地に移されました。
境内の観音堂の本尊は、運慶の弟子安阿弥の作と言われ、1390年堀川一条にあったとき疫病が流行り山名重氏が鎮疫を祈念すると霊験により亡くなった人を蘇生させたという伝説も残ります。
このお寺の出水七不思議は山門です。伝えによれば、この寺の山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したもので罪人を釈放する際にもう二度と牢獄に戻ってくるのではないよという戒めのために、この門前で罪人を百回叩いたと伝えられ「百たたきの門」と呼ばれていたそうです。移建されて夜な夜な門の扉から釈放された罪人の声かすすり泣く声が聞こえるので、祈祷をしたところ以後聞こえなくなったという出水七不思議が残っています。また、門の扉は楠の一枚板の門として有名です。
出水エリアにひっそりと佇むお寺ですが、歴史を紐解けばなんとも奥深い伝説がいっぱ詰まっていました。
観音寺
【出水通の七不思議⑤五劫院/寝釈迦】
五劫院の出水七不思議は、小袖門の潜り戸に浮かぶ寝釈迦の御影です。自然にできた年輪の木目がちょうど横たわるお釈迦様の姿に見えます。こちらのお寺の歴史やいわれはわかりません。出水七不思議のご紹介だけです。
五劫院
寝釈迦
【出水通の七不思議⑥極楽寺/ふたつくぐり戸】
極楽寺の出水七不思議は山門のくぐり戸が両脇左右に二つあることです。理由は定かではないようです。中央の大門と両脇の小袖門で“三つ門”と呼ばれています。こちらは、豊臣秀吉が北野大茶会で使われた金谷水(きんこくすい)の井戸があることで有名です。
極楽寺
【出水通の七不思議⑦玉蔵院/円山応挙の幽霊掛け軸】
出水通の七不思議、玉蔵院の円山応挙の幽霊掛け軸は今回訪ねていないので名前だけのご紹介です。
【立本寺/幽霊子育て飴】
出水の七不思議の後は七本松通りを北へ歩きます。すると大きな敷地をゆうする日蓮宗本山の立本寺(りゅうほんじ)があります。1321年、日像が京都最初の道場として四条大宮に開いた妙顕寺龍華院を始まりとし、1413年に比叡山延暦寺の衆徒に攻撃され破却されました。その後、立本寺として再興し、後水尾天皇より「園林堂(客殿)」を賜る程の名刹となったそうです。何度か場所を変え、1708年の大火で類焼したのち現地に定まりました。刹堂に祀られる第20世日審上人は有名で、京都東山の“みなとや幽霊子育て飴の伝説”の物語と関係があるそうです。
葬送地・六原の鳥辺野(とりべの)に身重の母が葬られましたが、赤ちゃんが土の中で生まれ生きていたそうです。母は母乳が与えられないので人間の姿(幽霊)になり六道の辻にある飴屋(みなとや)に夜な夜な通っては飴を買い求め赤ちゃんに与えていたそうです。そのうち赤ちゃんが発見され後に赤ちゃんは偉いお坊様になったという物語が残るのですが、そのお坊様がこの日審上人なのだとか。京都とは各々の歴史だけでなく、こうして伝説が飛び火してつながっているところが摩訶不思議で魅力なのですね。
【長五郎餅/北野天満宮】
立本寺から北へ上がり中立売通を西へ行くと生菓子店の長五郎餅本店さんがあります。創業400年のお店で北野天満宮さん境内の茶店でもあり屋号と同じ長五郎餅は名物になっています。長五郎餅は1587年に豊臣秀吉が北野天満宮で開かれた北野大茶会で認められ、店主の河内屋長五郎の名前をつけて“長五郎餅”とするがよいとされ、以後北野天満宮の名物となりました。長五郎餅は薄い餅皮に餡を包んだ上品な餅菓子です。
長五郎餅
【北野天満宮】
今回の最後の目的地、北野天満宮に行きました。北野天満宮は菅原道真ゆかりの神社です。菅原道真(平安時代)は頭がよく右大臣でした。ライバルは左大臣の藤原時平で、時平が道真のあることないことを告げ口して道真は九州の大宰府に左遷され都に戻ることなく亡くなりましたが、その後天変地異や御所の落雷、天皇の側近が死ぬなどの事件が多発したことから、これは道真の怨霊にちがいないと恐れられ、道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮が建立されました。長い年月で道真の怨霊のための神社ということは忘れられ、頭のよかった道真のご利益を授かろうといつしか学問の神様となり、多くの人達から信仰を集めました。境内には道真が愛した梅の木が境内に植えられ、今も梅の季節にはたくさんの人が花見に訪れます。訪ねた3月8日は梅の開花はちらほらでしたが、ほのかに甘い香りがしました。
北野天満宮
「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」 “春の東風が吹くようになったら、あるじがいなくても春を忘れず、花を咲かせなさい”という歌を道真が左遷される前に残したそうです。このあと、この梅が主をもとめて左遷先の大宰府に飛んで行ったという“飛び梅”伝説があります。京都には超人的な物語もあってエキサイティングです。
梅の紋 |
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