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動乱の幕末史・幕末ゆかり史跡を訪ねて、今回は伏見エリアを歩きました。
 
【御香宮】
御香宮の創建はわからないですが古くから土地の守り神で、伏見の人達から信仰を集めた神社です。862年当地に清らかな良い香りの水が湧き出し、この水を飲むと病が治ったという奇跡がおこり、時の天皇であった清和天皇から「御香宮」と名前を賜ったとされています。祭神は神功皇后で、皇后は身重の体で朝鮮半島へ自ら出兵し帰国後応神天皇を産んだという言い伝えがあることから安産の神様としても信仰を集めています。
神社の名前の由来になった御香水
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御香宮がある伏見は伏流水が豊富で酒造りが栄え酒蔵が点在します。京都の水は柔らかいため、灘の男酒、伏見の女酒と例えられます。ちなみに伏見の地名は水が豊富を意味する伏流水からきているそうですよ。
 
御香宮の境内を見ますと、拝殿は1625年に徳川家康の10番目の子供である徳川頼宣(よりのぶ)の援助で建てられ、良い水が湧く神社であるため拝殿は水をモチーフにした絵が描かれています。滝や水鳥、鯉などが描かれており、10年前に修復されて水の色の鮮やかさが生き生きとよみがえっています。五三桐の蟇股や大瓶束によって左右区切られている彫刻はすばらしく、向かって右の「鯉の瀧のぼり」は龍神伝説(鯉が高く天に昇り龍になるという登竜門の話)の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く、琴高仙人が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写しています。

徳川頼宣の援助で建てられた拝殿
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堂々とした拝殿
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本殿は1605年に徳川家康の援助により建てられました。平成二年より着手された修理により約390年ぶりに極彩色が復元されています。

極彩色復元された本殿
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表門(伏見城大手門)(国指定重要文化財)は1622年に伏見城から拝領し、徳川頼房(水戸黄門の父)が寄進しました。京都には何カ所にも伏見城の門が移築されて、御香宮の門もその一つです。

伏見城大手門を拝領した御香宮表門
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特に注目すべきは、門の正面を飾る四カ所に蟇股があり、その一つ一つに「中国二十四考」の親孝行の物語から四つ選んで彫刻が施されていることです。一つは楊香(娘が虎と戦い父を救う)、二つは敦巨(子供を捨てて母を助ける)、三つは唐夫人(歯がない曽祖母に自分の乳を飲ます)、四つは孟子(病弱の母へ寒中に筍を見つけて食べさす)が彫刻されています。普段はお参りにくぐるだけの門ですが、一度顔を揚げて四つの物語を確かめてください。

四つの蟇股に彫刻された中国二十四考の物語
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御香宮には立派なソテツがあります。徳川家康が特に好んだ植物でソテツが植えられました。一説には、ソテツは暖かいところしか育たない。そのソテツを気候が違う京都に運んで育てているというステイタスおよび権力を誇示したとも言われています。

徳川家康が好んだソテツ
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これらを見ると徳川家と縁の深い神社であることがわかります。安産祈願でも信仰を集める御香宮にいろいろ援助をした徳川家だけに、子宝にも恵まれたのは御香宮さんのご利益かもしれません。

安産祈願で信仰を集める御香宮
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御香宮で忘れてならないのが戊辰戦争の緒戦となった“鳥羽伏見の戦い”(1868年1月)の戦地になったことです。幕府滅亡の序章といわれるべく“鳥羽伏見の戦い”では、会津藩、桑名藩、新選組の旧幕府軍と薩摩藩、長州藩、土佐藩などで構成された新政府軍が衝突し、伏見の戦いで新政府軍の陣地になったのが御香宮でした。日本は1853年にアメリカからペリーの艦隊・黒船が来航し開国をせまられ日米和親条約の締結をかわきりに動乱の時代“幕末”を迎えます。幕府は不平等な日米修好通商条約を結ばされ物価が高騰するなど世の中は混乱。外国を排除する“攘夷論”や天皇を崇敬する“尊王論”、幕府の存続を支持する“佐幕”など様々な思想を持つ人たちが入り乱れて幕末の志士たちは奔走します。その結果約二十年という短い年月で約265年続いた江戸幕府が終わり明治という時代を迎えました。

幕末を駆け抜けた志士たち
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鳥羽伏見の戦いに至るまでの経緯をざっとたどると、1867年10月14日に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は、明治天皇に政権返上し大政奉還(たいせいほうかん)を宣言しました。大政奉還によって徳川幕府の政権は返上されたけれど幕府の力はまだあり徳川家は領地も財産もありました。同年、12月9日に王政復古大号令により天皇親政を基本とする新政府の樹立。同じ日の夜に小御所会議を行い徳川慶喜の辞官納地(じかんのうち/官位と領地が無くなる)が決定しました。徳川慶喜は新政府との衝突を避けるために会津藩、桑名藩とともに一旦、大阪城へ退去。冷静な徳川慶喜の態度にいらだちを感じた薩摩藩の西郷隆盛らはこの状況を一気打開するため江戸でたびたび騒乱を引き起こし、旧幕府を挑発して武力衝突に持ち込もうと画策。薩摩藩がしかける騒乱に憤慨した庄内藩が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした事件がおこり、大阪にこの事件の情報が伝わり薩摩藩討伐が高まり徳川慶喜はついに京都へ出兵を命じ鳥羽伏見の戦いへと突き進みました。
 
1868年1月3日、1万5千人の旧幕府軍は大阪城から出陣し鳥羽街道と伏見街道へ二隊に別れて進軍。鳥羽街道では進軍してきた旧幕府軍と待ち構える新政府軍とにらみ合うなかで鳥羽の小枝橋付近で大砲が発砲されました。一方伏見街道では、旧幕府軍の会津藩、桑名藩、新選組は伏見奉行所を拠点とし、その北隣に位置する御香宮には新政府軍の薩摩藩が陣を構え、鳥羽の小枝橋の砲声を合図に戦いが始まりました。新政府軍は旧幕府軍の伏見奉行所へ集中砲撃し、薩摩兵800人という少ない兵ではあったものの、戦力では刀槍を中心に戦っていた旧幕府軍に対して銃砲兵器を使った新政府軍が有利で、旧幕府軍は撤退を余儀なくされました。

集中砲撃された伏見奉行所跡
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御香宮神社付近での戦闘は、相当激しかったようで町はほとんど焼失しました。この戦いの歴史を物語る歴史ある料亭の魚三楼(いおさぶろう)では羽伏見の戦いで刻まれた弾痕が残っています。

京都老舗料亭・魚三楼
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生々しい弾痕が残る
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鋭い切り込み跡
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江戸時代から明治時代へ変わる節目にはこれまでの歴史にはあまりなかった外国・アメリカが日本に開国を迫るという背景も重なって、日本国内の人々がいろんな考えで国を守ろうと右往左往していることがわかります。後の時代に生まれた私はこの幕末の時代は諸藩が引っ付いたり離れたり、坂本龍馬はどこの味方?などややこしくて覚えられないというのが本音です。しかし、今回の散策では、そんな複雑な人の心移りの真骨頂のようなものが見えたような気がします。
 
御香宮は徳川家の援助をうけながらも、鳥羽伏見の戦いでは徳川家・旧幕府軍の敵である薩摩藩の新政府軍の陣地になりました。御香宮は、旧幕府軍の陣地になった伏見奉行所より高い位置にあり攻めるのに有利な陣地でした。一旦は“徳川氏本陣”の木札が掲げられたようですが、時の神主の意向により“薩摩屯所”の木札に変わったようです。もしかしたら、陣地が違えば旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いでは勝利をおさめていたかもしれませんね。

平和を願います
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幕末の歴史は少しずつ学んでいきたいと思います。

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