mamingの休日

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2017年の桜の季節に法然上人ゆかりの寺・知恩院をたずねました。
【明智光秀・首塚】
1582年、本能寺で明智光秀は主君の織田信長を急襲しましたが、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と山崎(天王寺)の戦いに敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われ自刃しました。光秀は家来に自分の首を知恩院で灰にしてほしいと告げたので家来は身元が分からない夜の間に首を知恩院へ届けようとしましたが夜明けてしまい、知恩院一歩手前の三条白川橋を下がった場所で首を埋めたと伝えられています。因みに光秀の胴は山科の勧修寺に埋葬され石碑が立っているそうです。
明智光秀首塚
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【得浄明院(とくじょうみょういん)】
明智光秀の首塚から知恩院へいく道のりに信州善光寺大本願の京都別院の尼寺として、明治27年(1894)9月に建立された得浄明院があります。全国各地に善光寺会の支部のお寺が100か所あり、信州の善光寺さんへお参りできなくてもここへお参りすれば善光寺さん同様に戒壇巡りができるそうです。五月初旬に咲くイチハツのお花で有名です。
【知恩院】
知恩院の開祖は法然上人で、全国に八千の末寺を有する浄土宗総本山です。1175年に法然上人は、貴族だけの仏教に疑問をいだき専修念佛を信じて比叡山を下りました。そして、民衆のための仏教を広めようと、吉い水がこんこんと湧き出でる吉水の地(現在の知恩院の地)に草庵を結びました。それが吉水草庵です。法然上人の専修念佛とは、法然上人が詠まれた「月かげ」の歌から知ることができます。下記のとおりです。
知恩院・黒門前
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≪浄土宗総本山・知恩院ホームページ抜粋≫
“月影の いたらぬ里はなけれども ながむる人の 心にぞすむ”
月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味です。
【知恩院と徳川家康】
法然上人が吉水草庵で専修念佛を布教したのは約30年。後に旧仏教徒からの弾圧で讃岐に流されますが、布教の間たくさんの人が理解、支持し「南無阿弥陀仏」と念佛を唱えました。法然上人は、大きなお寺を構えることなく“念佛の響き(唱える)あるところがお堂である。念佛を唱えた所・そこがお堂になりお寺になる”と大きなお寺を建てずに吉水草庵で布教を続けました。今日ある大きな建物の知恩院は徳川家康の支援以後だそうです。
徳川家の庇護のもと大きくなる知恩院
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徳川家康はこの知恩院と1603年に建てた二条城を京都の拠点とし、知恩院黒門の前にある知恩院七不思議の一つ“瓜生石”の下に地下道があってその道は二条城につながっているという伝説があります。それは、二条城が徳川家の政治的な拠点になっていたからかもしれません。
知恩院七不思議の一つ“瓜生石”
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知恩院を訪ねるとまずは本堂や御影堂を参拝に行かれることは多いですが、今回はもう少し山手の方に足を伸ばして、知恩院の中でも神聖な勢至堂を目指しました。御影堂から勢至堂へ行く間に千姫の供養塔と、濡髪大明神(ぬれがみだいみょうじん)があります。
【知恩院・千姫の供養塔】
千姫は、二代将軍・徳川秀忠の長女(15981664)です。幼い頃に豊臣秀吉の息子秀頼のいいなづけとなり嫁ぎました。大阪夏の陣で、姻戚関係にありながらも徳川と豊臣の戦いが始まり、秀頼は母の淀君と自害する中、千姫は徳川家に助けられその後姫路城主の本田忠政の嫡男のもとへ嫁ぐことになります。以後、嫡男の病死により、千姫の弟で知恩院の御影堂を1639年に再建した三代将軍・徳川家光を頼り徳川家へ戻りました。千姫は最後、江戸で余生を過ごされお墓は東京にありますが、悲運な生涯をおくられた千姫様の供養を知恩院でも行おうと供養塔が建てられました。
千姫の供養塔
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【知恩院・濡髪大明神】
千姫の供養塔の後ろに鎮座する”濡髪祠”と掲げられた鳥居があります。「濡髪大明神(ぬれがみだいみょうじん)」と言います。まだ知恩院の御影堂が建った頃の江戸時代初期のある日、知恩院第32世霊巖上人の夢に、雨に濡れた子供がシクシクとすすり泣く姿で現れます。その濡れ姿の子どもは古くから御影堂の土地に住んでいた白狐。御影堂が建って白狐の住む家が無くなったので困り果てて人間の子供の姿になって夢に現れたようです。これを哀れに思った霊巖上人は子どものために住む場所を作ったところ、後日再び霊巖上人の夢に現れ“知恩院を火災から守る”と誓い御影堂の軒下に水を意味する傘を置いていきました。
濡髪大明神
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その後、霊巖上人はその子どもを「濡髪童子」と名付けて祠にお祀りしたのが濡髪大明神の始まりです。御影堂の軒下に置かれた傘は“知恩院七不思議”の一つ「忘れ傘」(当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説もある)になっています。当初は“傘イコール水”をイメージして建物を火から守る“火災除けの神様”としてお祀りされていましたが、“濡髪”が艶やかな女性の姿もイメージされることから花街のきれいどころの信仰を集め今日では縁結びの神様「濡髪さん」と呼ばれ親しまれているそうです。
【知恩院・勢至堂】
濡髪神社を後にして、知恩院の聖地でもある勢至堂へ行きました。境内の中でもいちばん山裾に近く、傾斜がきつい階段などもあり歩くには少しだけ足がつらいですが、本堂、御影堂がある場所とまた違った静穏な雰囲気もあるお念仏発祥の地に足を伸ばしてもらいたい場所の一つです。
勢至堂へ続く階段
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勢至堂の名前の由来は法然上人の幼名・勢至丸(せいしまる)からきています。法然上人は880年の平安末期(1133年)に岡山県美作国に生まれ、父・時国が地方の役人で裕福な生活を送っていました。法然上人が9歳のときに水の権利の争いで父は夜襲に遭い亡くなります。父の死の間際に法然上人が「私は武士の子、父の恨みをはらす」と言うと、父は「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」(敵討ちすれば一時的な望みは叶うが、以後連続して恨みが続き消えない。広い心を持ってお坊様になってほしい)と言葉を残しました。
幼名・勢至丸 法然上人
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法然上人は父の言葉の通り比叡山に登り仏教の修行をしましが、当時の仏教は位の高い人のための物であったため、これではたくさんの人は救えないと30年の修行ののち比叡山を下りました。そして今の安養寺のあたりの吉水で庵(吉水草庵)を結んで専修念仏を広めます。法然上人の専修念仏はたくさんの人に広まり弟子もできましたが、当時の権力者にとって脅威だったに違いありません。法然上人をよく思わない旧仏教から弾圧を受け法然上人75歳の時に四国へ流罪になりました。79歳で都へ戻り80歳で亡くなりましたが亡くなる二日前に法然上人は、専修念仏の教えが後に衰退したり、間違った解釈になったりしてはいけないので遺言を弟子の源智に授けました。それが法然上人御遺訓「一枚起請文」(一枚起請文は金戒光明寺にあります)です。よって勢至堂はお念仏を広めそして終焉を迎えた大事な聖地となりました。
一枚起請文

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 現在の勢至堂は1530年に建てられたもので現存する知恩院最古の建造物です。ご本尊は法然上人の御影でしたが現在の御影堂が建立された折に勢至堂から移されました。移された後は勢至菩薩像(重要文化財)が代わってお祀りされお堂の名前の由来にもなりました。
知恩院最古の建造物・勢至堂
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勢至堂の上には法然上人の遺骨を奉安する廟堂があります。法然上人入滅(1212年)後に弟子が建てました。現在の廟堂は1613年に改築されたものです。廟堂の手前にお参りのための拝殿があり、部屋の中にはたくさんの木魚が置かれていて“ポクポクポク”と自由に叩いてお参りができるようになっています。法然上人と対面したいときは心静かに木魚を叩いてお参りするのもいいものです。
法然上人御廟
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木魚を叩きましょう
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【知恩院・大鐘楼】
知恩院といえばたくさんの見る建物がありますが、鐘楼も大きくて京都の方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として有名です。大きさは高さ3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トンです。1636年知恩院第32世雄誉霊巌上人のときに鋳造、この大鐘を支える鐘楼は1678年、知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されたもので、国内最大級の大鐘を支えています。皆さんがこの大鐘楼をよく目にされるのは大晦日の除夜の鐘のときではないでしょうか。大きさが大きさだけに70トンという重さを動かし撞くのには相当の力がいります。ましてや一人では撞けません。大晦日の日には、親綱1人、子綱17人で一同に息を合わせて撞く様が大鐘の大きさのみならず有名で京都の大晦日の風物詩となっています。
国内最大級の大鐘・鐘楼
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大晦日は人でいっぱいになる
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【法垂の窟(ほうたるのいわや)】
知恩院の鐘楼上の山道を経て将軍塚行く途中(青蓮院の飛地境内)に、仏法が滴る窟屋と書いて「法垂の窟(ほうたるのいわや)」という場所があります。そこは、法然上人が夢で、崇拝する中国・隋の時代(613〜681)の僧・善導に対面したという伝承が残る大切な場所です。
山道にある法垂の窟(ほうたるのいわや)
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善導と法然が夢で出会った場所
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善導上人は613年から681年にかけて仏教を布教し、法然上人よりも昔に“声を出す念佛により往生するという中国浄土教”を大成した僧です。法然上人は同じ念佛往生の思想を持つ善導と夢の中で出会いました。腰から上は僧の形相、腰から下が金色の仏僧で現れた善導は法然上人に専修念佛の道を説いて法然を励ましたのだそうです。その夢の中の出会いの場所が昔、真葛や萩、薄、茅などが生い茂る真葛ケ原と呼ばれる原野で“法垂の窟”です。法然上人は善導大師の説く念佛の教えこそ今の時代に合うものだと確信して浄土宗の基礎を築きました
中国の僧・善導
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法然上人
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雑学ではありますが、真葛ケ原の中央に位地する円山公園。円山公園の名称は、法然上人が草庵を結んだ吉水草庵の慈円山安養寺の円山から取って名づけられました。
【天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)】
散策をした4月8日はお釈迦様がお生まれになった日でもあり、訪ねるお寺ではお釈迦さまの誕生日・花まつりを行っておられました。右手を挙げて立つ高さ30センチほどのお釈迦様の像をお花などで囲い飾って、お釈迦様に甘茶をかけてお釈迦様の誕生をお祝いする行事です。
お釈迦様のお誕生日・花まつり
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お釈迦様がお生まれになったとき、すぐに歩かれ一方の手を天に向けて指し、もう一方の手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えられたそうです。天上天下唯我独尊とは“天上天下にも私という存在は一人。私が尊いように皆も尊い存在である”を意味するのだそうです。「唯」はお釈迦様本人の意味ではなくそれぞれ個々人を意味しているのだとか。文字だけをみていると、私が一番偉いととりがちですね…。
今回は桜のもっとも良い日で、お釈迦様の誕生日に訪ねた散策でした。
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