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またまた、京都の散策でご報告遅れています。5月の新緑に京都の上高野エリアから三宅八幡宮さんを歩きました。ほんとに季節がずれていますが…レポートです。
【崇道神社】
大原へと続く鯖街道(現・国道367号線)の道中に八瀬という地域があって、この道沿いに京都の三大怨霊人物の一人にあげられる早良親王の神社があり、早良親王の霊を慰めるために創建(貞観年間859年〜877年)された崇道神社です。境内社として近隣の三社(出雲高野神社/出雲系農耕守護神、伊多太神社/上高野最古の神社、小野神社/小野一族)の祭神、玉依姫命・伊多太大神・小野妹子、小野毛人も祀られています。
崇道神社
崇道神社の崇道は早良親王の天皇の名前ですが、実は天皇に即位されておらず、亡くなられてから「崇道天皇」の名前をつけられました。早良親王の天皇名の由来には恐ろしい怨霊の伝説があるのです。早良親王(崇道天皇)の兄は平安京を造った桓武天皇です。桓武天皇は奈良で即位してから天皇中心の都を作りましたが、当時都であった奈良では寺の勢力が次第に強くなり政治にも影響を及ぼしてきたので寺に左右されない政治を新たに作ろうと、京都の長岡京に来て都の造営にあたります。ところが延暦4年の785年に長岡京造営の官使であった桓武天皇側近の藤原種継が何者かに暗殺されるという大事件がおこります。この時、桓武天皇と何かと対立していた弟の早良親王が犯人にされてしまいます。早良親王は長岡京市の乙訓寺に幽閉され無実を訴えるために断食を行いますが認められず、淡路島に配流される途中に餓死して亡くなります。
崇道神社境内
早良親王が亡くなったあと、安殿親王(あでしんのう)の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次いだので、これは無念の死をとげた早良親王の祟りであるとして早良親王の怨霊鎮魂の儀式が幾度となく執り行われました。儀式のほかに天皇の称号を与えることで災いを鎮めようと“崇道/すどう”という天皇の名前をつけて早良親王を崇めました。
崇(あが)めるの“崇”の特別な最上級の字を名前の中に入れて作られた人物は、他に崇徳天皇の名前があがります。この方も無念の死を遂げておられます。祟(たた)り“祟”の字は“崇”の字体とよく似ており表裏一体、怨霊を崇めて霊を鎮めたと思われます。怨霊の力が大きい分、強い力があるということでその力にあやかりたいと思うときもあるでしょう、偶然か崇道神社は京の鬼門に位置するエリア(左京区上高野)にあって、強い力で鬼門封じの役割を果たしているようです。
神社本殿
また、この崇道神社の近くの山から国宝の飛鳥時代の官僚・小野毛人(おののけみし)の墓誌が発見されています。銅板の墓誌の表には「飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」、裏面には「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と記されて、小野毛人が天武朝の元で太政官をつとめ、刑部大卿を兼務しており、冠位は大錦上であったと書かれ、表には小野毛人が天武朝に仕え、納言の職にあって後の刑部卿で正四位に相当する地位にあったことを記しています。かの遣隋使小野妹子の子でもあることと、飛鳥・奈良時代のもので、しっかりと記された史料であることから国宝に指定されています。
小野毛人朝臣之墓
京都市の説明
【蓮華寺】池泉鑑賞式庭園
崇道神社から少し歩くと池泉観賞式庭園の蓮華寺があります。もとは七条塩小路(京都駅近く)にあった西来院という時宗の寺でしたが、応仁の乱で焼失、江戸時代初期の1662年に加賀前田藩の家臣・今枝近義が再建しました。近義によって実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたので比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺として時宗から天台宗に属する寺院に変わりました。
蓮花寺
蓮華寺に入ると書院に通され、すぐに庭園が目に入ってきます。庭園の造園者は不明ですが書院から見て、池の対岸に浄土の世界を描く浄土宗的な形式に造られた池泉観賞式の庭園です。蓮華寺のご住職は寺の庭園は拝観の第一歩であり、仏教の教えを考えるものであるとおっしゃっていました。
池泉鑑賞式庭園
≪ご住職よりお庭の説明・聞き取ったので正確ではないかもしれませんが…≫
秋の紅い紅葉の庭が良いと思われるかもしれませんが、赤は人間の心をざわつかせます。反対に今の季節の緑の紅葉は心が落ち着き、お庭を見て仏の教えを考えるには今日のような新緑のお庭を見る方が良いかもしれません。お寺に造られているお庭はあくまで信仰を意味しています。教えの表現方法はいろいろありますが意味なく庭を作りあげているのではないのでお庭をゆっくり眺めながら仏の教えを考えてください。
新緑の庭園・仏教の教えを表現
お釈迦さまは人里はなれた原野に黙々と歩き続けて修行をおこない悟りを開き仏教を伝えた方です。釈迦の説法を聞き見習い、観察して釈迦の死後に釈迦の弟子たちが集まり各々聞いたお釈迦さまの説法を確認して文字で残したのが今日よまれている「お経」です。お釈迦さまの修行を文字にしたのが「お教」ならば、人物化したのが「仏像」、教えの情景や環境を表現したのが「お庭」です。お庭も仏の教えを表現しています。
蓮華寺のお庭を見られたらお庭が仏壇、それを見る私たちは仏間にいると考えてください。庭の左奥には仏教の浄土思想にもとづく蓬莱山の岩組み、灯りをともす灯台に例えた燈籠、池の右手前には舟を現している舟石が配され、鶴と亀の世界を組み合わせた亀島と鶴石など浄土の世界を石で表現しているのです。庭を見て心の中で舟に乗り彼岸(仏の世界)または此岸(この世)で浄土の世界へ行くのです。
…ご住職のお庭の説明でこれから拝観するお庭の見方が変わるような気がしました。庭園に「蓮華寺形灯籠」と呼ばれる石灯籠があって、江戸時代には茶人たちに好まれ、茶席の庭によく使われたと伝えられています。また、山門を入ってすぐに、市電工事のとき河原町通りより発掘された石像がこのお寺に安置されています。
玄関からのお庭もきれい
【三宅八幡宮】
蓮華寺から北へ歩くと三宅八幡宮があります。7世紀前半から平安中期まで活躍した氏族の小野氏(滋賀県大津市内周辺を本拠地)がこの京都市左京区上高野(山城国愛宕郡小野郷)地域に移り住み八幡神をお祀りしたことに始まります。小野氏の小野妹子が聖徳太子に遣隋使を命じられ中国の隋に赴く道中の九州(大阪→九州→中国・隋)で病にかかります。小野妹子は近くの宇佐八幡宮へ平癒祈願するとまたたくまに全快して中国に渡り、無事日本へ帰ることができました。その後小野妹子はこの京都上高野の地に移り住み八瀬のエリアを統括して、遣隋使の道中の病平癒の恩に報いるために宇佐八幡宮を勧請して八幡神をお祀りしたのだそうです。そして南朝の忠臣であった、「備後三郎三宅高徳」がこの地に移り住んで大神を崇敬したことから、いつしか「三宅八幡宮」と称するようになったといわれています。
三宅八幡宮鳥居前
御祭神は第十五代天皇の応神天皇(八幡大神)です。応神天皇の母・神功皇后はお腹に子供を妊娠したまま九州の玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵し、戦いの後日本へ戻り無事お産をしたという伝説が残るほか、渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたという伝説があるなど気丈な女性像と応神天皇を出産されたことにちなんで子育ての神様としても崇められ、三宅八幡宮では子どものお守りを授けておられます。ちなみに月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われています。
可愛い鳩のマーク
また、宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際に、道案内をした白い鳩が八幡宮の神様の使いとされたことから、この三宅八幡宮でも鳩を八幡神のお使いとしてお祀りし、鳥居前に狛犬ならぬ「狛鳩」をはじめ、拝殿の幕や石灯籠、瓦、手水舎などあちらこちらに鳩を目にすることができます。眷属(けんぞく/神様の使い)としての鳩の他に「神鳩」(しんばと)と名物の「鳩餅」があります。神鳩とはお宮参りの際に、「神鳩」という、土製のつがいの鳩を授けてもらい、子供が無事成長した折にお礼にお返しにくるというならわしです。鳩餅は鳩をかたどったお餅で、三宅八幡宮でしか頂くことができない門前的存在のお餅です。米の粉を蒸したもので、白、ニッキ、抹茶の三種類、神社鳥居前の茶店で頂く事ができます。むっちりとした口さわりの、素朴な味のお菓子です。ご参拝のついでに茶店で一息どうぞ。
神様のお使い眷属の鳩がお菓子になって
緑深まる京都の散策でした。マイナスイオンをいっぱいあびました。
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