【南座・祇園界隈の花街】
今の南座は昭和4年に建てられ現在、耐震補強の工事で閉鎖中。昨年の顔見世興行は先斗町の歌舞練場で行われました。ただ、招きの看板だけは南座に掲げられました。京都に五花街が存在する中で祇園に四花街あります。祇園甲部と宮川町、先斗町、祇園東です。四季折々に各歌舞練場で踊りを披露されますが花街も祇園甲部の歌舞練場が耐震工事でこの春は北白川の春秋座で行われました。今、京都では伝統の建物が耐震工事のラッシュです。
耐震工事中の南座
【仲源寺・めやみ地蔵尊】
祇園には眼病にご利益のある仲源寺さんがあります。仲源寺の創建は1022年平安時代の終わり、仏師の定朝が木をよせて作る寄木作りの手法で地蔵菩薩を作り祀ったことが始まりとされています。鎌倉時代、近くの鴨川が大雨で氾濫しましたが、この地蔵菩薩のお告げで洪水を未然に防げたことから「雨やみ地蔵」と呼ばれるようになりました。そして、“あめやみ”から言葉が転じて“めやみ”とかわりいつしか「眼病(めやみ)地蔵」となったのだそうです。
眼病のご利益がある仲源寺
また、この寺には目にちなむ物語があります。通い信心していた老夫婦の主人の右目が悪くなりました。ある日夢枕に仲源寺の地蔵様が現れて“寺の水で目を洗いなさい”と主人に告げます。翌日老夫婦はお告げ通りに寺の水で目を洗うとその目が治ったそうです。老夫婦は御礼に仲源寺を訪れるとお地蔵様の右目が赤くなっていたそうで、お地蔵様が自ら病の身代わりになって主人の目を救ったという伝説から“めやみ地蔵”のご利益を授かろうとたくさんの人がお参りに来られ、今もお地蔵様の右目は赤く染まり、目の病を患う人の身代わりになっておられるようです。
ご本尊地蔵菩薩
【白川南通沿い】
喧騒の四条通にある仲源寺さんから一筋北へ行くと白川夜船の話でも有名な白川が流れる白川南通があります。昭和20年前後の戦時中、白川南通にある建物が道の拡張により取り壊されたり、疎開させられたりしました。拡張整備前にはこの白川に向かって多くのお茶屋があって、「大友」という有名なお茶屋さんがあり、このお茶屋の女将を慕って文芸、文豪、芸舞妓が集まったのだそうです。その大友のお茶屋があったところに「かにかくに碑」という歌碑がその当時を伝えます。
白川沿いの街並み
“かにかくに 祇園は恋し ねるときも 枕のしたを 水のながるる”
(とにもかくにも祇園が恋しい。寝る時も枕の下を祇園白川の水が流れています)
この歌碑は、お茶屋の大友へ通っていた文豪・吉井勇が祇園の歌をつくり、祇園をこよなく愛していたことがわかる歌です。昭和30年、吉井勇が70歳のときに古希の祝いとして仲間がこの歌碑を建てました。吉井勇が亡くなっても吉井勇を偲ぶ「かにかくに祭」が毎年11月8日に行われます。この日は白川の巽橋あたりにたくさんの芸舞妓さんが吉井勇を偲んで花をたむけます。巽橋は一挙に華やぎ、この風景を見ようとカメラを持った人たちもたくさん集まります。
かにかくに碑
【辰巳大明神】
吉井勇のかにかくに碑の近くにオレンジの玉垣に囲まれた辰巳大明神があります。この大明神には伝説の狸の神様が祀られています。昔、巽橋(白川にかかる小橋)に住んでいた狸が夜になると橋で人を化かしては悪さをしていました。これに困った人たちが狸を祠に祀ったところ悪さは収まったという伝説が残ります。神社の名前は御所から見て南東・辰巳の方角にあることに由来します。
辰巳大明神
【花街・稽古わり表】
祇園界隈を歩くと花街である風景がところどころ顔を出しています。その一つが芸舞妓の“稽古割り表”の掲示板です。芸舞妓さんの三味線、長唄、舞踊、茶道、茶道などを習う授業の時間割表。お師匠さんのお名前があって時間が細かく書かれていて見ていると学校の授業と同じです。しかし、芸舞妓のお稽古は一生涯の学習で70歳、80歳になっても授業を受けられるそうです。五花街の区分なく花見小路通にある“八坂女紅場学園”で芸舞妓さんたちがつね日頃技芸を磨いておられます。
稽古割り表”の掲示板
【祇園切り通し・いづう】
祇園の四条通から北へ100mほど走る“切り通し”という通があります。西から行くと花見小路通の一筋手前になりますが、その切り通しの東側に鯖寿司で有名な「いづう」さんがあります。塩でしめる鯖寿司は京都の代表するお料理の一つです。
昔、京都市内には海がないため海の魚である鯖が、福井の小浜から京都の75㎞という道のりをまる一日かけて運ばれました。まだ、冷凍冷蔵の機能が発達していない頃は腐らないように魚を塩でしめて運びました。ちょうど京都に着くころに塩の塩梅がよくなって塩鯖が美味しくいただけるという段取りになっているから昔の人の知恵は素晴らしいですね。この塩鯖が運ばれた街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都に到着する出町柳の枡形商店街ではやはり鯖寿司のお店があります。
【祇園切り通し・進々堂】
切り通しで有名なお店はもう一軒あります。花街の芸舞妓さんがお稽古ごとの帰りに立ち寄られる喫茶店の「進々堂」さんです。芸舞妓さんがこの進々堂さんへ来られたら店のご主人は機転を利かして一旦お店を閉店にされるそうです。ゆっくり芸舞妓さんへお茶を飲んでもらうための気配りですね。芸舞妓さんに愛される理由はあと二つあって、一つは芸舞妓さんの“おちょぼ口”に合わせて考案された色鮮やかなフルーツゼリーがあること。二つ目はご主人が作っておられる年の瀬の縁起物「福玉」があること。
年の瀬に花街では“事始め”というものがあります。事始めは、芸舞妓さんが12月13日頃に1年の御礼と新年に向けたごあいさつをされる行事で、福玉はあいさつ回りの際にお茶屋さんなどから頂く縁起物です。福玉の中には縁起物の玩具などが入っていて、除夜の鐘を聞いて薬玉を開ける習わしです。この楽しい福玉をご主人が自ら縁起の玩具を見繕って購入し玉の入れ物にいれて作られるそうです。福玉は年の瀬にお店で買えます。
芸舞妓さんご贔屓の進々堂
【一力茶屋】
祇園切り通しから四条通へ出ると赤い弁柄壁の大きなお屋敷が目につきます。それは祇園花街屈指のお茶屋「一力(いちりき)」さんです。一力は京都南座の歌舞伎で演じられる「仮名手本忠臣蔵」にも登場する格式あるお茶屋さんです。仮名手本忠臣蔵とは、江戸城松の廊下で浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を斬りつけた赤穂事件の物語です。一般に“忠臣蔵”という名称は赤穂事件をもとに人形浄瑠璃や歌舞伎用の通称で脚色化されたものです。
江戸時代、人形浄瑠璃や歌舞伎において、起こった事件を忠実に取り上げることは幕府から禁じられていたので、物事の時代や地名、人物名、店名などを違う人物、地名に置き換え、物語を脚色する必要がありました。赤穂事件の歌舞伎の演目もしかりで、家臣の大石内蔵助が主君の浅野内匠頭の仇討をする機会を狙って仇討の日まで人の目をそらすために「萬屋」というお茶屋で豪遊三昧する場面では、歌舞伎で実際の店名が出せないので“萬屋”→“万屋”→“万”(万の上部と下部を離して)→“一力”としたそうです。よって、花見小路の一力さんも「仮名手本忠臣蔵」でのお茶屋さんとなるのだそうです。歌舞伎に出てくる一力さんだけに格式も高く、実際にお店の出入りができる人は限られています。
歌舞伎・仮名手本忠臣蔵の一力茶屋
【八坂神社・疫神社/蘇民将来子孫也】
花見小路の一力さんを後にして一路八坂神社へ。四条通の東の端が八坂神社になり、西楼門に入ると「疫神社」のお社があります。祇園祭にはスポットライトライトをあびる境内の中でも知名度が高く「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいしそんなり)」と書かれた護符にまつわるお社になります。
「蘇民将来」は八坂神社の祭神である素戔嗚尊が旅をされたとき、素戔嗚尊が一夜の宿を請うたところ富豪の弟・巨旦将来(こたんしょうらい)は断り、兄の蘇民将来は貧しいながらも宿を貸して厚くもてなしました。蘇民将来のもてなしに心打たれた素戔嗚尊は「蘇民将来子孫也」と書かれた護符を「この護符を持っていれば疫病が流行ったときに疫病から免れることができる」と言って蘇民将来へ渡します。あるとき疫病が流行ったとき、この護符を持たない巨旦将来の一族は命を落とし、護符を持っていた蘇民将来の一族は命が助かったということです。以後、「蘇民将来子孫也」とは“私たちは蘇民祖将来の子孫(一族)です”と護符で伝えていて、素戔嗚尊が疫病から免れると約束されたお守りとなりました。この故事にちなんで祇園祭では必ず「蘇民将来子孫也」と記した護符を身に付けます。また家の玄関に祀る“粽”にも「蘇民将来子孫也」の護符がついていて無病息災を願います。
7月31日にはこの八坂神社境内にある疫神社において「夏越祭」が行われ、茅の輪くぐりをして、7月から始まった祇園祭の幕を閉じることになります。
疫神社・蘇民将来子孫也
【八坂神社・祇園祭】
祇園祭は疫病が流行り疫病退散のために始まったお祭りです。疫病などをおこす厄は素戔嗚尊のなせる業でありまた、厄を鎮めるのも素戔嗚尊です。祭神の素戔嗚尊の力でもって疫病退散を行う祭でもあるのです。
はじめは不定期で疫病が流行るたびに行っていました。二条御池の神泉苑の池の水で、鈴のついた剣鋒の先を浄め、京都の町中を剣鋒の鈴音を鳴らして練り歩く御霊会(ごりょうえ)の形で始まりました。これが祇園祭の原型です。それが今や絢爛豪華な装飾品をつけて車輪がついた大きな乗り物の鉾や山と変化したのは驚きです。
祇園祭を詳しく説明すると、祇園祭といえば絢爛豪華な山鉾だけが取り上げられがちですが、町衆が支える山鉾と神事を行う神輿があるのです。それぞれの役割は山鉾巡行で神輿が通る道を浄め、浄められた道を八坂神社の祭神(素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神)を乗せたお神輿三基が町中を渡御するというお祭です。山鉾は京都のメイン通で呉服商が集まった室町、新町の町衆が支えていたため、呉服商の財力でもって山鉾に絢爛豪華な装飾品をつけて華やかになっていきました。一方、お神輿の渡御は変わることなく粛々と神事が執り行われてきました。しかしながら神事も力強い男子がお神輿を三基担いで練り歩き、四条東大路・祇園石段下で三基出合う荘厳さを見せつける様は、山鉾巡行と同じくらいの注目を集め賑わいを見せるようになっています。
7月17日 午前:先祭り山鉾巡行、午後:神幸祭(神輿で神様を迎える)
7月24日 午前:後祭り山鉾巡航、午後:還幸祭(神輿で神様が帰る)
八坂神社境内
【八坂神社について】
八坂神社の祭神は仏教でいうと“牛頭天皇”、神道でいうと“素戔嗚尊”になり、明治の神仏分離令までは神仏混合で同じ性格を持つ二つの神様が崇められていました。八坂神社の創建は656年、歴史の中で仏教の祇園精舎から由来する“祇園感神院(ぎおんかんじんいん)”とも呼ばれており四条通に面している門も“西楼門”の仏教様式建築が仏教の歴史を物語っています。今でも八坂神社でなく、仏教の呼び名の“祇園さん”と呼ぶ人は少なくありません。八坂神社の名前は神仏分離から、この地が渡来人(朝鮮半島)の豪族である八坂氏の里であったことから名づけられました。当時、朝鮮半島の人々が多く日本へ渡来しました。力と能力を発揮して京都の都づくりに貢献されたようです。朝鮮半島、中国は日本より先進国で平安京は渡来人の協力のもと構築されていきました。
拝殿の祭神は三柱あります。素戔嗚尊は八岐大蛇を退治するときに櫛稲田姫を助け後に二人は夫婦になり、そして八人の子供を授かったことから、夫の素戔嗚尊、妻の櫛稲田姫命と八人の子供を総称した八柱御子神の三柱を祭神として祀っています。
八坂神社の拝殿は「祇園造(ぎおんつくり)」といって八坂神社特有の形式の建造物です。拝殿正面の妻入に向拝という庇を持つ「春日造(かすがつくり)」が一般に多いなか、祇園造は拝殿内部に異なった二つの建物(本殿と礼堂)が一つの屋根で覆われているのが特徴で、寺院建築に近い神社建築様式と言われています。
八坂神社本殿と拝殿
【八坂神社・忠盛燈籠】
拝殿の東側に「忠盛燈籠」があります。この燈籠には物語があります。ある五月雨の夜、白河法皇は直近の平忠盛(平清盛の父)を連れて祇園女御のもとへと歩いていました。白河法皇の一行が八坂神社の境内に差しかかると前に怪しい者(鬼のような者)がいました。白河法皇は忠盛にその怪しい者を即、成敗するよう命令します。忠盛は正体を見定めた後に成敗しようと様子をうかがっていたところ、それは境内の燈籠に燈明を灯すお坊様でした。雨除けに着ていた蓑に雨水が滴った上に、燈明の灯りがお坊様を異様に照らして鬼のような姿に映しだしていたのでした。忠盛の見定めの機転により罪もないお坊様を殺生することなく終わったことに白河法皇は大そう喜び、忠盛の評価は上がり、この燈籠が出世の糸口となったのだそうです。この時代あたりから政権が天皇から武家へかわるとっかかりとなり、政権は明治時代まで武家が握ることになります。
忠盛燈籠
【琵琶湖疏水】
八坂神社をあとにして、東に向かうと明治19年に造られた京都市で最も古い公園の円山公園があります。七代目・小川治兵衛が作庭した池泉回遊式日本庭園です。池泉回遊式庭園の池は琵琶湖疏水から水を引いて作られ、円山公園から東山山麓を北へ琵琶湖疏水が通っています。明治、大正時代と琵琶湖の水を疏水(琵琶湖疏水)を作り水を北進させ蹴上の標高、落差を利用して蹴上発電所、西本願寺防火用水、御所、神社仏閣、庭園用水などに活用されました。京都では盆地であるために川は北から南へ流れますが、蹴上から哲学の道を歩くと水が北進(北から南へ流れるのではなく)して流れているので大変珍しい川(水路)として知られてきました。
円山公園の池(琵琶湖疏水の水)
【大雲院・祇園閣】
浄土宗の単立寺院で、本尊は阿弥陀如来。天正年間(1573〜92)織田信長、信忠親子の菩提を弔うため、貞安上人が、信忠の院号・法名の大雲院と名づけ二条烏丸に創建しました。のちに豊臣秀吉の命令により寺町四条(高島屋の南側)に移転しましたが、天明・元治の大火で焼失、明治初期に復興。1973年(昭和48年)に高島屋京都店の増床にともない、東山区の大倉喜八郎旧の別荘であった現在地に移転しました。本堂の背後に山鉾を模した祇園閣(銅閣)がそびえ立ち、京都のシンボルの一つになっています。ちなみに、祇園閣は銅閣と呼ばれ京都の三閣(金閣寺、銀閣寺、祇園閣が金、銀、銅にあたる)に入っています。信長父子の供養塔があるのと、石川五右衛門の処刑で市中引き回しされ大雲院門前にきたとき、貞安が仏道・浄土へ導く引導をしたご縁で石川五右衛門の墓があります。
大雲院の祇園閣が見える
【ねねの道】
大雲院を後にして一路は高台寺に続く「ねねの道」と歩きます。高台寺は豊臣秀吉の妻、ねねが秀吉の霊を弔うために建立されました。ねねは高台寺の前の圓徳院に住まいし、毎朝高台寺に行き来して秀吉にお参りしていました。この道がねねの道となったのは近年になってからです。
ねねの道
【三面大黒】
ねねの道を挟んで高台寺の向かいに豊臣秀吉の妻ねねさんが晩年住まわれた圓徳院があります。その圓徳院の飛び地に豊臣秀吉が福徳信仰の象徴として肌身離さず持っていた念持仏の“三面大黒尊天”が祀られています。三面大黒尊天とは、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の霊像で、秀吉は天下を取るために現世利益の強力な天部が三体合体した仏様を信仰したのでしょうか。
三面大黒天
祈願のお札
【法観寺】
法観寺は臨済宗建仁寺塔頭の一つで、592年に聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立されたと伝わります。五重塔は仏舎利供養の建物で仏舎利三粒を収めて法観寺とされました。現在の建物は1440年に足利義教の援助により再建されたもので、高さ46m、四方6mの大きさで東寺に次ぐ高さを持っています。今は清水寺に隣接して八坂通にそびえ立つ五重塔として通称「八坂の搭」と呼ばれています。境内には木曾義仲の首塚と伝わる石塔もあるそうです。
法観寺五重塔
【八坂庚申堂】
正式名は大黒山金剛寺八坂庚申堂といいます。日本三庚申の一つでご本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)で、当時の土地の豪族である秦氏・秦河勝が秦氏の守り本尊として持ち込んだものと伝わります。そのご本尊を一般の人々にもお参りできるようにと960年の平安時代に天台宗の浄蔵貴所(じょうぞうきしょう)が建立したお寺が八坂庚申堂です。
境内には手足が一つにくくられた猿の人形がいっぱい飾られていて「くくり猿」と呼ばれています。くくり猿は人間の欲の抑制や戒めを意味し、手足をくくられて動けない姿をあらわにしています。猿は人間とおなじように欲のままに動き回って落ち着かない。庚申さんによって手足をくくられ心をコントロールされた状態がこのくくり猿というわけです。
カラフルなくくり猿
庚申についてお話すると、庚申の日は干支の庚(かのえ)申(さる)の日で60日に一回めぐることになります。この庚申の日に人間の体内にいる三尺(さんし)の虫が寝ているときに体から脱け出して、寿命を司る神の天帝(てんてい)へ人間の悪口(欲)を告げに行きます。悪口を聞かされた天帝はその人間の寿命を縮めるのだそうです。それで三尺の虫を出さないようにと庚申の日は寝ないで徹夜をする「庚申待ち」という庚申講の信仰が広がりました。ご本尊の青面金剛はこの三尺の虫を食べるということで、いつしか庚申待ちにはこの青面金剛のご本尊を拝むようになったそうです。
話はお寺を建立した浄蔵貴所に戻ります。浄蔵貴所には不思議な物語が残っています。まず一つは、浄蔵が熊野に詣でたとき父が亡くなり、葬儀に戻る途中、一条の橋で父の亡骸と出会います。浄蔵が父の亡骸の前で一心不乱に祈願すると父がひと時、蘇生したのだそうです。その時からこの橋が”戻り橋”と呼ばれるようになったとか。今の一条戻橋の由縁の物語です。二つ目は、八坂の搭が傾きかけたとき浄蔵が念力で傾きを戻したというお話です。これは、土木技術に優れたこの地の豪族・秦氏が立て直したのではないかと推測されます。秦氏は伏見稲荷大社創建にも影響を与えているとされています。
庚申堂境内
【禅居庵】
最後の訪問地は八坂の搭から西へ歩いたところにある禅居庵です。禅居庵は臨済宗建仁寺の塔頭の一つです。中国の僧・大鑑清拙正澄禅師(だいかんせいせつしょうちょう)(1274〜1339)が開祖でご本尊は摩利支天です。摩利支天は陽炎が神格化した古代インドの女神マーリーチで創造神プラフマー(梵天)の子と言われています。陽炎には実体が無いので、捕らえられて傷つけられることが無い。害されることが無いところから戦国武将の間にこの摩利支天信仰が広がったようです。楠木正成や前田利家は兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したと言われています。
禅居庵
禅居庵の摩利支天はじめ日本で祀られている摩利支天の多くに眷属(けんぞく/従えるもの)として猪が登場します。これは「大摩里支菩薩経」などの経典で”猪車に乗りて立つこと舞踏の如し”と記されていることによるものです。禅居庵の摩利支天は仏の三尊が正面、左右の脇侍が合体した三位一体安置形式で足元に七頭の猪がおさまっています。ご本尊に仕える動物として猪が眷属としてお祀りされています。他に猪が眷属となっている護王神社も有名です。和気清麻呂が九州へ行くときに猪が和気清麻呂を助けたことから足腰の御利益があるとして祀られています。
眷属の猪
後半の散歩は建仁寺の飛び地境内になる塔頭をまわりましたが、今は点在する寺などももとは大きな敷地を有したことが実際に歩くことで、歴史を紐解くことになり体感できます。地図をもとにブラブラと歩きたいと思います。今回は祇園エリアを満喫するコースでした。