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京都の歴史・神社仏閣

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またまた、京都の散策でご報告遅れています。5月の新緑に京都の上高野エリアから三宅八幡宮さんを歩きました。ほんとに季節がずれていますが…レポートです。
【崇道神社】
大原へと続く鯖街道(現・国道367号線)の道中に八瀬という地域があって、この道沿いに京都の三大怨霊人物の一人にあげられる早良親王の神社があり、早良親王の霊を慰めるために創建(貞観年間859年〜877年)された崇道神社です。境内社として近隣の三社(出雲高野神社/出雲系農耕守護神、伊多太神社/上高野最古の神社、小野神社/小野一族)の祭神、玉依姫命・伊多太大神・小野妹子、小野毛人も祀られています。
崇道神社
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 崇道神社の崇道は早良親王の天皇の名前ですが、実は天皇に即位されておらず、亡くなられてから「崇道天皇」の名前をつけられました。早良親王の天皇名の由来には恐ろしい怨霊の伝説があるのです。早良親王(崇道天皇)の兄は平安京を造った桓武天皇です。桓武天皇は奈良で即位してから天皇中心の都を作りましたが、当時都であった奈良では寺の勢力が次第に強くなり政治にも影響を及ぼしてきたので寺に左右されない政治を新たに作ろうと、京都の長岡京に来て都の造営にあたります。ところが延暦4年の785年に長岡京造営の官使であった桓武天皇側近の藤原種継が何者かに暗殺されるという大事件がおこります。この時、桓武天皇と何かと対立していた弟の早良親王が犯人にされてしまいます。早良親王は長岡京市の乙訓寺に幽閉され無実を訴えるために断食を行いますが認められず、淡路島に配流される途中に餓死して亡くなります。
崇道神社境内
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 早良親王が亡くなったあと、安殿親王(あでしんのう)の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次いだので、これは無念の死をとげた早良親王の祟りであるとして早良親王の怨霊鎮魂の儀式が幾度となく執り行われました。儀式のほかに天皇の称号を与えることで災いを鎮めようと“崇道/すどう”という天皇の名前をつけて早良親王を崇めました。
 崇(あが)めるの“崇”の特別な最上級の字を名前の中に入れて作られた人物は、他に崇徳天皇の名前があがります。この方も無念の死を遂げておられます。祟(たた)り“祟”の字は“崇”の字体とよく似ており表裏一体怨霊を崇めて霊を鎮めたと思われます。怨霊の力が大きい分、強い力があるということでその力にあやかりたいと思うときもあるでしょう、偶然か崇道神社は京の鬼門に位置するエリア(左京区上高野)にあって、強い力で鬼門封じの役割を果たしているようです。
神社本殿
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 また、この崇道神社の近くの山から国宝の飛鳥時代の官僚・小野毛人(おののけみし)の墓誌が発見されています。銅板の墓誌の表には「飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」、裏面には「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と記されて、小野毛人が天武朝の元で太政官をつとめ、刑部大卿を兼務しており、冠位は大錦上であったと書かれ、表には小野毛人が天武朝に仕え、納言の職にあって後の刑部卿で正四位に相当する地位にあったことを記しています。かの遣隋使小野妹子の子でもあることと、飛鳥・奈良時代のもので、しっかりと記された史料であることから国宝に指定されています。
小野毛人朝臣之墓
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京都市の説明
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【蓮華寺】池泉鑑賞式庭園
 崇道神社から少し歩くと池泉観賞式庭園の蓮華寺があります。もとは七条塩小路(京都駅近く)にあった西来院という時宗の寺でしたが、応仁の乱で焼失、江戸時代初期の1662年に加賀前田藩の家臣・今枝近義が再建しました。近義によって実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたので比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺として時宗から天台宗に属する寺院に変わりました。
蓮花寺
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 蓮華寺に入ると書院に通され、すぐに庭園が目に入ってきます。庭園の造園者は不明ですが書院から見て、池の対岸に浄土の世界を描く浄土宗的な形式に造られた池泉観賞式の庭園です。蓮華寺のご住職は寺の庭園は拝観の第一歩であり、仏教の教えを考えるものであるとおっしゃっていました
池泉鑑賞式庭園
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≪ご住職よりお庭の説明・聞き取ったので正確ではないかもしれませんが…≫
秋の紅い紅葉の庭が良いと思われるかもしれませんが、赤は人間の心をざわつかせます。反対に今の季節の緑の紅葉は心が落ち着き、お庭を見て仏の教えを考えるには今日のような新緑のお庭を見る方が良いかもしれません。お寺に造られているお庭はあくまで信仰を意味しています。教えの表現方法はいろいろありますが意味なく庭を作りあげているのではないのでお庭をゆっくり眺めながら仏の教えを考えてください。
新緑の庭園・仏教の教えを表現
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お釈迦さまは人里はなれた原野に黙々と歩き続けて修行をおこない悟りを開き仏教を伝えた方です。釈迦の説法を聞き見習い、観察して釈迦の死後に釈迦の弟子たちが集まり各々聞いたお釈迦さまの説法を確認して文字で残したのが今日よまれている「お経」です。お釈迦さまの修行を文字にしたのが「お教」ならば、人物化したのが「仏像」、教えの情景や環境を表現したのが「お庭」です。お庭も仏の教えを表現しています。
 蓮華寺のお庭を見られたらお庭が仏壇、それを見る私たちは仏間にいると考えてください。庭の左奥には仏教の浄土思想にもとづく蓬莱山の岩組み、灯りをともす灯台に例えた燈籠、池の右手前には舟を現している舟石が配され、鶴と亀の世界を組み合わせた亀島と鶴石など浄土の世界を石で表現しているのです。庭を見て心の中で舟に乗り彼岸(仏の世界)または此岸(この世)で浄土の世界へ行くのです。
 
…ご住職のお庭の説明でこれから拝観するお庭の見方が変わるような気がしました。庭園に「蓮華寺形灯籠」と呼ばれる石灯籠があって、江戸時代には茶人たちに好まれ、茶席の庭によく使われたと伝えられています。また、山門を入ってすぐに、市電工事のとき河原町通りより発掘された石像がこのお寺に安置されています。
玄関からのお庭もきれい
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【三宅八幡宮】
 蓮華寺から北へ歩くと三宅八幡宮があります。7世紀前半から平安中期まで活躍した氏族の小野氏(滋賀県大津市内周辺を本拠地)がこの京都市左京区上高野(山城国愛宕郡小野郷)地域に移り住み八幡神をお祀りしたことに始まります。小野氏の小野妹子が聖徳太子に遣隋使を命じられ中国の隋に赴く道中の九州(大阪→九州→中国・隋)で病にかかります。小野妹子は近くの宇佐八幡宮へ平癒祈願するとまたたくまに全快して中国に渡り、無事日本へ帰ることができました。その後小野妹子はこの京都上高野の地に移り住み八瀬のエリアを統括して、遣隋使の道中の病平癒の恩に報いるために宇佐八幡宮を勧請して八幡神をお祀りしたのだそうです。そして南朝の忠臣であった、「備後三郎三宅高徳」がこの地に移り住んで大神を崇敬したことから、いつしか「三宅八幡宮」と称するようになったといわれています。
三宅八幡宮鳥居前
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 御祭神は第十五代天皇の応神天皇(八幡大神)です。応神天皇の母・神功皇后はお腹に子供を妊娠したまま九州の玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵し、戦いの後日本へ戻り無事お産をしたという伝説が残るほか、渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたという伝説があるなど気丈な女性像と応神天皇を出産されたことにちなんで子育ての神様としても崇められ、三宅八幡宮では子どものお守りを授けておられます。ちなみに月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われています。
可愛い鳩のマーク
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 また、宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際に、道案内をした白い鳩八幡宮の神様の使いとされたことから、この三宅八幡宮でも鳩を八幡神のお使いとしてお祀りし、鳥居前に狛犬ならぬ「狛鳩」をはじめ、拝殿の幕や石灯籠、瓦、手水舎などあちらこちらに鳩を目にすることができます。眷属(けんぞく/神様の使い)としての鳩の他に「神鳩」(しんばと)と名物の「鳩餅」があります。神鳩とはお宮参りの際に、「神鳩」という、土製のつがいの鳩を授けてもらい、子供が無事成長した折にお礼にお返しにくるというならわしです。鳩餅は鳩をかたどったお餅で、三宅八幡宮でしか頂くことができない門前的存在のお餅です。米の粉を蒸したもので、白、ニッキ、抹茶の三種類、神社鳥居前の茶店で頂く事ができます。むっちりとした口さわりの、素朴な味のお菓子です。ご参拝のついでに茶店で一息どうぞ。
神様のお使い眷属の鳩がお菓子になって
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緑深まる京都の散策でした。マイナスイオンをいっぱいあびました。
京都散策の報告が遅れています。豊臣秀吉ゆかりの地東山七条エリアの散策です。

【方広寺と豊国神社】

豊臣秀吉は天下をとった後、奈良の大仏を上回る巨大な大仏(盧舎那仏を作り安置するために1586年から十年あまりかけて方広寺(ほうこうじ・天台宗)を建てました。南北88m、東西54m、高さ49mの巨大な大仏殿が完成(1595年)し、高さ約19メートルの木製金漆塗座像が安置されましたが、翌年の1596年に慶長伏見大地震で大仏は崩れ伏見城も崩れました。大仏が地震で崩れたとき秀吉が京の町を守るを忘れ、うぬがまっ先に倒れるとは、この慌て者が」と大仏に向かって叱ったとか。秀吉は大仏の完成開眼を見ずに1598年に無くなり方広寺近くの阿弥陀が峰の豊国廟にねむりました。

豊国神社

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その後大仏は秀吉の子供である秀頼に再建され秀吉が作った木製金漆塗座像の大仏にかわって金銅で大仏を作りますが、仏殿の中で金銅を溶かして作業を行っていたため、仏殿で火災をおこし、また大仏は焼失。その後大仏殿と大仏は焼失と再建を繰り返し完成することはありませんでした。現在は大きな石垣が残るのみとなっています。

大仏殿跡石碑

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大仏殿石垣

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石垣の上に樹木がある

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方広寺の形として大きく存在を残しているのは秀頼により作られた大梵鐘です。奈良の東大寺、京都の知恩院の大梵鐘とともに日本三大梵鐘に数えられますが、もっとも有名なのは豊臣家滅亡の引金となった梵鐘として世に知られていることです。徳川家康は秀吉亡き後、大阪城にねむっている黄金の財産を使わそうと、お金のかかる事業を秀頼へどんどん懇願します。その中の一つが方広寺の大梵鐘でした。

方広寺大鐘楼

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秀頼が作った梵鐘

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 1614年に大きさを誇る大梵鐘は完成しますが、梵鐘に刻まれた銘文(東福寺と南禅寺に住した禅僧の文英清韓/ぶんえいせいかん)の中の「国家安康」「君臣豊楽」の文字に徳川家康が難くせをつけます。「国家安康」は国が安定に治まる、「君臣豊楽」は君主から家臣まで皆豊かに暮らすという意味があったと思われますが、徳川家康は「国家安康」の文字に名前の“家康”の文字が入っていて文中で“家”と“康”を分断している、「君臣豊楽」では“豊楽”を豊臣家が君主と仰いで徳川家を滅ぼそうとしていると言いがかりをつけます。この鐘銘問題が発端で大阪の陣へと突き進み豊臣家が滅亡することになりました。

 徳川家康はこれまでの武力、権謀による強圧して進める武断政治に対して、礼儀、法制、教化などの整備充実を通じて社会秩序の安定を維持するための文治政治を行おうとしていたので、秀吉の政治を変えるきっかけを常に伺っていたところに鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字はうってつけの材料になったわけです。徳川家康は、豊臣家が滅亡した後はことごとく豊臣家ゆかりの神社仏閣を取り壊していきます、方広寺もほとんどの建物が壊される中、皮肉にもこの大鐘楼は豊臣家の滅亡を象徴、示すかのように残されたのです。

事件に関係なく大鐘楼の天井画は優雅

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 しかし、明治時代になって明治天皇は天皇家にいろいろ支援をした豊臣秀吉のために方広寺の横に豊国神社を建立しました。豊国神社の門は伏見城から遺構した唐門で国宝です。

国宝の唐門・伏見城から遺構された

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秀吉のトレードマーク千なり瓢箪

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秀吉にちなむわらじの形をした絵馬

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【南座・祇園界隈の花街】
今の南座は昭和4年に建てられ現在、耐震補強の工事で閉鎖中。昨年の顔見世興行は先斗町の歌舞練場で行われました。ただ、招きの看板だけは南座に掲げられました。京都に五花街が存在する中で祇園に四花街あります。祇園甲部と宮川町、先斗町、祇園東です。四季折々に各歌舞練場で踊りを披露されますが花街も祇園甲部の歌舞練場が耐震工事でこの春は北白川の春秋座で行われました。今、京都では伝統の建物が耐震工事のラッシュです。
耐震工事中の南座
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【仲源寺・めやみ地蔵尊】
祇園には眼病にご利益のある仲源寺さんがあります。仲源寺の創建は1022年平安時代の終わり、仏師の定朝が木をよせて作る寄木作りの手法で地蔵菩薩を作り祀ったことが始まりとされています。鎌倉時代、近くの鴨川が大雨で氾濫しましたが、この地蔵菩薩のお告げで洪水を未然に防げたことから「雨やみ地蔵」と呼ばれるようになりました。そして、“あめやみ”から言葉が転じて“めやみ”とかわりいつしか「眼病(めやみ)地蔵」となったのだそうです。
眼病のご利益がある仲源寺
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また、この寺には目にちなむ物語があります。通い信心していた老夫婦の主人の右目が悪くなりました。ある日夢枕に仲源寺の地蔵様が現れて“寺の水で目を洗いなさい”と主人に告げます。翌日老夫婦はお告げ通りに寺の水で目を洗うとその目が治ったそうです。老夫婦は御礼に仲源寺を訪れるとお地蔵様の右目が赤くなっていたそうで、お地蔵様が自ら病の身代わりになって主人の目を救ったという伝説から“めやみ地蔵”のご利益を授かろうとたくさんの人がお参りに来られ、今もお地蔵様の右目は赤く染まり、目の病を患う人の身代わりになっておられるようです。
ご本尊地蔵菩薩
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【白川南通沿い】
喧騒の四条通にある仲源寺さんから一筋北へ行くと白川夜船の話でも有名な白川が流れる白川南通があります。昭和20年前後の戦時中、白川南通にある建物が道の拡張により取り壊されたり、疎開させられたりしました。拡張整備前にはこの白川に向かって多くのお茶屋があって、「大友」という有名なお茶屋さんがあり、このお茶屋の女将を慕って文芸、文豪、芸舞妓が集まったのだそうです。その大友のお茶屋があったところに「かにかくに碑」という歌碑がその当時を伝えます。
白川沿いの街並み
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“かにかくに 祇園は恋し ねるときも 枕のしたを 水のながるる”
(とにもかくにも祇園が恋しい。寝る時も枕の下を祇園白川の水が流れています)
 
この歌碑は、お茶屋の大友へ通っていた文豪・吉井勇が祇園の歌をつくり、祇園をこよなく愛していたことがわかる歌です。昭和30年、吉井勇が70歳のときに古希の祝いとして仲間がこの歌碑を建てました。吉井勇が亡くなっても吉井勇を偲ぶ「かにかくに祭」が毎年11月8日に行われます。この日は白川の巽橋あたりにたくさんの芸舞妓さんが吉井勇を偲んで花をたむけます。巽橋は一挙に華やぎ、この風景を見ようとカメラを持った人たちもたくさん集まります。
かにかくに碑
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【辰巳大明神】
吉井勇のかにかくに碑の近くにオレンジの玉垣に囲まれた辰巳大明神があります。この大明神には伝説の狸の神様が祀られています。昔、巽橋(白川にかかる小橋)に住んでいた狸が夜になると橋で人を化かしては悪さをしていました。これに困った人たちが狸を祠に祀ったところ悪さは収まったという伝説が残ります。神社の名前は御所から見て南東・辰巳の方角にあることに由来します。
辰巳大明神
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【花街・稽古わり表】
祇園界隈を歩くと花街である風景がところどころ顔を出しています。その一つが芸舞妓の“稽古割り表”の掲示板です。芸舞妓さんの三味線、長唄、舞踊、茶道、茶道などを習う授業の時間割表。お師匠さんのお名前があって時間が細かく書かれていて見ていると学校の授業と同じです。しかし、芸舞妓のお稽古は一生涯の学習で70歳、80歳になっても授業を受けられるそうです。五花街の区分なく花見小路通にある“八坂女紅場学園”で芸舞妓さんたちがつね日頃技芸を磨いておられます。
稽古割り表”の掲示板
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【祇園切り通し・いづう】
祇園の四条通から北へ100mほど走る“切り通し”という通があります。西から行くと花見小路通の一筋手前になりますが、その切り通しの東側に鯖寿司で有名な「いづう」さんがあります。塩でしめる鯖寿司は京都の代表するお料理の一つです。
 
昔、京都市内には海がないため海の魚である鯖が、福井の小浜から京都の75㎞という道のりをまる一日かけて運ばれました。まだ、冷凍冷蔵の機能が発達していない頃は腐らないように魚を塩でしめて運びました。ちょうど京都に着くころに塩の塩梅がよくなって塩鯖が美味しくいただけるという段取りになっているから昔の人の知恵は素晴らしいですね。この塩鯖が運ばれた街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都に到着する出町柳の枡形商店街ではやはり鯖寿司のお店があります。
 
【祇園切り通し・進々堂】
切り通しで有名なお店はもう一軒あります。花街の芸舞妓さんがお稽古ごとの帰りに立ち寄られる喫茶店の「進々堂」さんです。芸舞妓さんがこの進々堂さんへ来られたら店のご主人は機転を利かして一旦お店を閉店にされるそうです。ゆっくり芸舞妓さんへお茶を飲んでもらうための気配りですね。芸舞妓さんに愛される理由はあと二つあって、一つは芸舞妓さんの“おちょぼ口”に合わせて考案された色鮮やかなフルーツゼリーがあること。二つ目はご主人が作っておられる年の瀬の縁起物「福玉」があること。
 
年の瀬に花街では“事始め”というものがあります。事始めは、芸舞妓さんが12月13日頃に1年の御礼と新年に向けたごあいさつをされる行事で、福玉はあいさつ回りの際にお茶屋さんなどから頂く縁起物です。福玉の中には縁起物の玩具などが入っていて、除夜の鐘を聞いて薬玉を開ける習わしです。この楽しい福玉をご主人が自ら縁起の玩具を見繕って購入し玉の入れ物にいれて作られるそうです。福玉は年の瀬にお店で買えます。
芸舞妓さんご贔屓の進々堂
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【一力茶屋】
祇園切り通しから四条通へ出ると赤い弁柄壁の大きなお屋敷が目につきます。それは祇園花街屈指のお茶屋「一力(いちりき)」さんです。一力は京都南座の歌舞伎で演じられる「仮名手本忠臣蔵」にも登場する格式あるお茶屋さんです。仮名手本忠臣蔵とは、江戸城松の廊下で浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を斬りつけた赤穂事件の物語です。一般に“忠臣蔵”という名称は赤穂事件をもとに人形浄瑠璃や歌舞伎用の通称で脚色化されたものです。
 
江戸時代、人形浄瑠璃や歌舞伎において、起こった事件を忠実に取り上げることは幕府から禁じられていたので、物事の時代や地名、人物名、店名などを違う人物、地名に置き換え、物語を脚色する必要がありました。赤穂事件の歌舞伎の演目もしかりで、家臣の大石内蔵助が主君の浅野内匠頭の仇討をする機会を狙って仇討の日まで人の目をそらすために「萬屋」というお茶屋で豪遊三昧する場面では、歌舞伎で実際の店名が出せないので“萬屋”→“万屋”→“万”(万の上部と下部を離して)→“一力”としたそうです。よって、花見小路の一力さんも「仮名手本忠臣蔵」でのお茶屋さんとなるのだそうです。歌舞伎に出てくる一力さんだけに格式も高く、実際にお店の出入りができる人は限られています。
歌舞伎・仮名手本忠臣蔵の一力茶屋
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【八坂神社・疫神社/蘇民将来子孫也】
花見小路の一力さんを後にして一路八坂神社へ。四条通の東の端が八坂神社になり、西楼門に入ると「疫神社」のお社があります。祇園祭にはスポットライトライトをあびる境内の中でも知名度が高く「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいしそんなり)」と書かれた護符にまつわるお社になります。
 
「蘇民将来」は八坂神社の祭神である素戔嗚尊が旅をされたとき、素戔嗚尊が一夜の宿を請うたところ富豪の弟・巨旦将来(こたんしょうらい)は断り、兄の蘇民将来は貧しいながらも宿を貸して厚くもてなしました。蘇民将来のもてなしに心打たれた素戔嗚尊は「蘇民将来子孫也」と書かれた護符を「この護符を持っていれば疫病が流行ったときに疫病から免れることができる」と言って蘇民将来へ渡します。あるとき疫病が流行ったとき、この護符を持たない巨旦将来の一族は命を落とし、護符を持っていた蘇民将来の一族は命が助かったということです。以後、「蘇民将来子孫也」とは“私たちは蘇民祖将来の子孫(一族)です”と護符で伝えていて、素戔嗚尊が疫病から免れると約束されたお守りとなりました。この故事にちなんで祇園祭では必ず「蘇民将来子孫也」と記した護符を身に付けます。また家の玄関に祀る“粽”にも「蘇民将来子孫也」の護符がついていて無病息災を願います。
 
731にはこの八坂神社境内にある疫神社において「夏越祭」が行われ、茅の輪くぐりをして、7月から始まった祇園祭の幕を閉じることになります。
疫神社・蘇民将来子孫也
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【八坂神社・祇園祭】
祇園祭は疫病が流行り疫病退散のために始まったお祭りです。疫病などをおこす厄は素戔嗚尊のなせる業でありまた、厄を鎮めるのも素戔嗚尊です。祭神の素戔嗚尊の力でもって疫病退散を行う祭でもあるのです。
 
はじめは不定期で疫病が流行るたびに行っていました。二条御池の神泉苑の池の水で、鈴のついた剣鋒の先を浄め、京都の町中を剣鋒の鈴音を鳴らして練り歩く御霊会(ごりょうえ)の形で始まりました。これが祇園祭の原型です。それが今や絢爛豪華な装飾品をつけて車輪がついた大きな乗り物の鉾や山と変化したのは驚きです。
 
祇園祭を詳しく説明すると、祇園祭といえば絢爛豪華な山鉾だけが取り上げられがちですが、町衆が支える山鉾と神事を行う神輿があるのです。それぞれの役割は山鉾巡行で神輿が通る道を浄め、浄められた道を八坂神社の祭神(素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神)を乗せたお神輿三基が町中を渡御するというお祭です。山鉾は京都のメイン通で呉服商が集まった室町、新町の町衆が支えていたため、呉服商の財力でもって山鉾に絢爛豪華な装飾品をつけて華やかになっていきました。一方、お神輿の渡御は変わることなく粛々と神事が執り行われてきました。しかしながら神事も力強い男子がお神輿を三基担いで練り歩き、四条東大路・祇園石段下で三基出合う荘厳さを見せつける様は、山鉾巡行と同じくらいの注目を集め賑わいを見せるようになっています。
 
717日 午前:先祭り山鉾巡行、午後:神幸祭(神輿で神様を迎える)
724日 午前:後祭り山鉾巡航、午後:還幸祭(神輿で神様が帰る)
八坂神社境内
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【八坂神社について】
八坂神社の祭神は仏教でいうと“牛頭天皇”、神道でいうと“素戔嗚尊”になり、明治の神仏分離令までは神仏混合で同じ性格を持つ二つの神様が崇められていました。八坂神社の創建は656年、歴史の中で仏教の祇園精舎から由来する“祇園感神院(ぎおんかんじんいん)”とも呼ばれており四条通に面している門も“西楼門”の仏教様式建築が仏教の歴史を物語っています。今でも八坂神社でなく、仏教の呼び名の“祇園さん”と呼ぶ人は少なくありません。八坂神社の名前は神仏分離から、この地が渡来人(朝鮮半島)の豪族である八坂氏の里であったことから名づけられました。当時、朝鮮半島の人々が多く日本へ渡来しました。力と能力を発揮して京都の都づくりに貢献されたようです。朝鮮半島、中国は日本より先進国で平安京は渡来人の協力のもと構築されていきました。
 
拝殿の祭神は三柱あります。素戔嗚尊は八岐大蛇を退治するときに櫛稲田姫を助け後に二人は夫婦になり、そして八人の子供を授かったことから、夫の素戔嗚尊、妻の櫛稲田姫命と八人の子供を総称した八柱御子神の三柱を祭神として祀っています。
 
八坂神社の拝殿は「祇園造(ぎおんつくり)」といって八坂神社特有の形式の建造物です。拝殿正面の妻入に向拝という庇を持つ「春日造(かすがつくり)」が一般に多いなか、祇園造は拝殿内部に異なった二つの建物(本殿と礼堂)が一つの屋根で覆われているのが特徴で、寺院建築に近い神社建築様式と言われています。
八坂神社本殿と拝殿
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【八坂神社・忠盛燈籠】
拝殿の東側に「忠盛燈籠」があります。この燈籠には物語があります。ある五月雨の夜、白河法皇は直近の平忠盛(平清盛の父)を連れて祇園女御のもとへと歩いていました。白河法皇の一行が八坂神社の境内に差しかかると前に怪しい者(鬼のような者)がいました。白河法皇は忠盛にその怪しい者を即、成敗するよう命令します。忠盛は正体を見定めた後に成敗しようと様子をうかがっていたところ、それは境内の燈籠に燈明を灯すお坊様でした。雨除けに着ていた蓑に雨水が滴った上に、燈明の灯りがお坊様を異様に照らして鬼のような姿に映しだしていたのでした。忠盛の見定めの機転により罪もないお坊様を殺生することなく終わったことに白河法皇は大そう喜び、忠盛の評価は上がり、この燈籠が出世の糸口となったのだそうです。この時代あたりから政権が天皇から武家へかわるとっかかりとなり、政権は明治時代まで武家が握ることになります。
忠盛燈籠
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【琵琶湖疏水】
八坂神社をあとにして、東に向かうと明治19年に造られた京都市で最も古い公園の円山公園があります。七代目・小川治兵衛が作庭した池泉回遊式日本庭園です。池泉回遊式庭園の池は琵琶湖疏水から水を引いて作られ、円山公園から東山山麓を北へ琵琶湖疏水が通っています。明治、大正時代と琵琶湖の水を疏水(琵琶湖疏水)を作り水を北進させ蹴上の標高、落差を利用して蹴上発電所、西本願寺防火用水、御所、神社仏閣、庭園用水などに活用されました。京都では盆地であるために川は北から南へ流れますが、蹴上から哲学の道を歩くと水が北進(北から南へ流れるのではなく)して流れているので大変珍しい川(水路)として知られてきました。
円山公園の池(琵琶湖疏水の水)
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【大雲院・祇園閣】
浄土宗の単立寺院で、本尊は阿弥陀如来。天正年間(157392)織田信長、信忠親子の菩提を弔うため、貞安上人が、信忠の院号・法名の大雲院と名づけ二条烏丸に創建しました。のちに豊臣秀吉の命令により寺町四条(高島屋の南側)に移転しましたが、天明・元治の大火で焼失、明治初期に復興。1973年(昭和48年)に高島屋京都店の増床にともない、東山区の大倉喜八郎旧の別荘であった現在地に移転しました。本堂の背後に山鉾を模した祇園閣(銅閣)がそびえ立ち、京都のシンボルの一つになっています。ちなみに、祇園閣は銅閣と呼ばれ京都の三閣(金閣寺、銀閣寺、祇園閣が金、銀、銅にあたる)に入っています。信長父子の供養塔があるのと、石川五右衛門の処刑で市中引き回しされ大雲院門前にきたとき、貞安が仏道・浄土へ導く引導をしたご縁で石川五右衛門の墓があります。
大雲院の祇園閣が見える
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【ねねの道】
大雲院を後にして一路は高台寺に続く「ねねの道」と歩きます。高台寺は豊臣秀吉の妻、ねねが秀吉の霊を弔うために建立されました。ねねは高台寺の前の圓徳院に住まいし、毎朝高台寺に行き来して秀吉にお参りしていました。この道がねねの道となったのは近年になってからです。
ねねの道
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【三面大黒】
ねねの道を挟んで高台寺の向かいに豊臣秀吉の妻ねねさんが晩年住まわれた圓徳院があります。その圓徳院の飛び地に豊臣秀吉が福徳信仰の象徴として肌身離さず持っていた念持仏の“三面大黒尊天”が祀られています。三面大黒尊天とは、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の霊像で、秀吉は天下を取るために現世利益の強力な天部が三体合体した仏様を信仰したのでしょうか。
三面大黒天
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祈願のお札
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【法観寺】
法観寺は臨済宗建仁寺塔頭の一つで、592年に聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立されたと伝わります。五重塔は仏舎利供養の建物で仏舎利三粒を収めて法観寺とされました。現在の建物は1440年に足利義教の援助により再建されたもので、高さ46m、四方6mの大きさで東寺に次ぐ高さを持っています。今は清水寺に隣接して八坂通にそびえ立つ五重塔として通称「八坂の搭」と呼ばれています。境内には木曾義仲の首塚と伝わる石塔もあるそうです。
法観寺五重塔
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【八坂庚申堂】
正式名は大黒山金剛寺八坂庚申堂といいます。日本三庚申の一つでご本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)で、当時の土地の豪族である秦氏・秦河勝が秦氏の守り本尊として持ち込んだものと伝わります。そのご本尊を一般の人々にもお参りできるようにと960年の平安時代に天台宗の浄蔵貴所(じょうぞうきしょう)が建立したお寺が八坂庚申堂です。
 
境内には手足が一つにくくられた猿の人形がいっぱい飾られていて「くくり猿」と呼ばれています。くくり猿は人間の欲の抑制や戒めを意味し、手足をくくられて動けない姿をあらわにしています。猿は人間とおなじように欲のままに動き回って落ち着かない。庚申さんによって手足をくくられ心をコントロールされた状態がこのくくり猿というわけです。
カラフルなくくり猿
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庚申についてお話すると、庚申の日は干支の庚(かのえ)申(さる)の日で60日に一回めぐることになります。この庚申の日に人間の体内にいる三尺(さんし)の虫が寝ているときに体から脱け出して、寿命を司る神の天帝(てんてい)へ人間の悪口(欲)を告げに行きます。悪口を聞かされた天帝はその人間の寿命を縮めるのだそうです。それで三尺の虫を出さないようにと庚申の日は寝ないで徹夜をする「庚申待ち」という庚申講の信仰が広がりました。ご本尊の青面金剛はこの三尺の虫を食べるということで、いつしか庚申待ちにはこの青面金剛のご本尊を拝むようになったそうです。
 
話はお寺を建立した浄蔵貴所に戻ります。浄蔵貴所には不思議な物語が残っています。まず一つは、浄蔵が熊野に詣でたとき父が亡くなり、葬儀に戻る途中、一条の橋で父の亡骸と出会います。浄蔵が父の亡骸の前で一心不乱に祈願すると父がひと時、蘇生したのだそうです。その時からこの橋が”戻り橋”と呼ばれるようになったとか。今の一条戻橋の由縁の物語です。二つ目は、八坂の搭が傾きかけたとき浄蔵が念力で傾きを戻したというお話です。これは、土木技術に優れたこの地の豪族・秦氏が立て直したのではないかと推測されます。秦氏は伏見稲荷大社創建にも影響を与えているとされています。
庚申堂境内
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【禅居庵】
最後の訪問地は八坂の搭から西へ歩いたところにある禅居庵です。禅居庵は臨済宗建仁寺の塔頭の一つです。中国の僧・大鑑清拙正澄禅師(だいかんせいせつしょうちょう)(12741339)が開祖でご本尊は摩利支天です。摩利支天は陽炎が神格化した古代インドの女神マーリーチで創造神プラフマー(梵天)の子と言われています。陽炎には実体が無いので、捕らえられて傷つけられることが無い。害されることが無いところから戦国武将の間にこの摩利支天信仰が広がったようです。楠木正成や前田利家は兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したと言われています。
禅居庵
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禅居庵の摩利支天はじめ日本で祀られている摩利支天の多くに眷属(けんぞく/従えるもの)として猪が登場します。これは「大摩里支菩薩経」などの経典で”猪車に乗りて立つこと舞踏の如し”と記されていることによるものです。禅居庵の摩利支天は仏の三尊が正面、左右の脇侍が合体した三位一体安置形式で足元に七頭の猪がおさまっています。ご本尊に仕える動物として猪が眷属としてお祀りされています。他に猪が眷属となっている護王神社も有名です。和気清麻呂が九州へ行くときに猪が和気清麻呂を助けたことから足腰の御利益があるとして祀られています。
眷属の猪
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後半の散歩は建仁寺の飛び地境内になる塔頭をまわりましたが、今は点在する寺などももとは大きな敷地を有したことが実際に歩くことで、歴史を紐解くことになり体感できます。地図をもとにブラブラと歩きたいと思います。今回は祇園エリアを満喫するコースでした。
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かつて音を立てて洪水を知らせた伝説の鳴滝を探しながら、桜の季節の御室仁和寺から出発しました。今は梅雨ですが、桜の日の散策を思い出してブログにアップしました。
【仁和寺界隈】
仁和寺のエリアは造園家が多く桜がたくさん植えられていますが、遅咲きの桜の名所としても知られている仁和寺は、888年宇多天皇が、父・光孝天皇の遺志を継いで造られたお寺です。天皇はふつう譲位後上皇になりますが、宇多天皇は仏道に熱かったことから出家(899年)してしまいます。東寺で受戒しお寺に入られたのち法皇になって仁和寺に住まわれたので仁和寺は「御室御所」とも呼ばれました。仁和寺は天皇が出家して入る門跡寺院最初のお寺となりました。

ノスタルジックな御室仁和寺駅舎
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桜の花と電車
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 仁和寺は当時、広沢の池まで境内だったそうですが、応仁の乱で戦場となり境内は縮小。檀家もなくなり長く復興されませんでしたが、江戸時代(1624年〜1644年)に入り徳川幕府が優先的に仁和寺を援助して復興されました。徳川家光は御所内裏の紫宸殿(1613年造営)を移築して金堂を作り、このほか内裏の遺構(御所の古材や移築)で御影堂と本坊表門などが作られています。仁和寺は御所の要素を持つ御所風の寺と言っても過言ではありません。仁和寺の宝物館では888年創建時の仏像として国宝・阿弥陀三尊像が春と秋に一般公開されています。仁和寺エリアには天皇陵も多く存在し、さまざまな歴史が残ります。

仁和寺
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仁和寺境内へ
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 仁和寺は少し高台にあるので入口の三門からは双ヶ丘の山が見えます。双ヶ丘は三つの丘(北から一の丘、二の丘、三の丘)が並んで、歴史が深く古墳群があります。鎌倉時代から南北朝時代に活躍し、徒然草を書いたことで有名な吉田兼好(吉田神社の社家の卜部家に生まれ、後二条天皇に仕えて出家)が晩年に住んだ場所が二の丘です。徒然草にはよく仁和寺が登場します。

三つの丘が並ぶ双ヶ丘
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 【御室界隈】
仁和寺を出て少し歩くと仁和寺境内の西側(仁和寺の西門付近)にそびえる標高236メートルの成就山を整備して作られた「御室八十八ヵ所霊場」と呼ばれる巡拝コースがあります。四国八十八ヵ所霊場の京都版になり、霊場の歴史は下記の通りです。
(仁和寺ホームページ抜粋)
文政10年(1827)当時は本四国(四国八十八ヶ所)への巡拝が困難であった為、時の仁和寺29世門跡済仁法親王の御本願により四国八十八ヶ所霊場のお砂を持ち帰り、仁和寺の裏山に埋め、その上にお堂を建てたのが御室八十八ヶ所霊場の始まりです。

仁和寺の西門付近
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 コースは約3キロメートルの2時間コース。歩く道中に岩場や池、小鳥のさえずり、四季折々の花々などの自然が目を楽しませてくれる楽しいウォーキングコースになっています。山道に札所のお堂が点在して忠実に作られた八十八ヵ所のご本尊が祀られているのだそうです。年五回、この巡拝「八十八ヶ所ウォーク」のスタンプラリーが開催されます。

御室八十八ヶ所霊場
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 【光孝天皇御陵】
御室エリアにたくさん存在する造園家の庭を見ながら宇多野馬場町へ行くと宇多天皇の父にあたる第58代の光孝天皇陵があります。後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)と治定され、小松山陵(こまつやまのみささぎ)とも呼ばれています。光孝天皇は53歳で即位。とても遠慮がちな方だったそうですが知識、経験が豊富で優秀な天皇と伝わります。その証拠に宮中行事の鷹狩りを復活させ、相撲の奨励などユニークな政策をしたことでも有名です。また、自分の子供、親戚を降下させるなど子孫に皇位を伝えない意向をアピールして絶対権力を持っていた藤原氏(藤原基経)とも平和な関係を保てた天皇だったようです。  

造園家の庭から桜を見る
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造園家の庭の桜が満開
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光孝天皇陵
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 【福王子神社】
光孝天皇御陵から少し歩くと周山街道の分岐点北側に鎮座する福王子神社があります。この神社は光孝天皇の后、宇多天皇の母である班子女王(はんしじょうおう)を祀り宇多天皇が創建した仁和寺の鎮守社です。この神社の前身は深川神社と言い、1468年の応仁の乱で焼失しましたが、江戸時代の1644年に徳川家光が一間社春日造(いちげんしゃかすがづくり)の神社を再建しました。班子女王の陵墓が近くにあったので皇后を祀り、班子女王がたくさんの子宝を授かったことから福王子神社の名になったと言われています。神社拝殿正面に掲げられている額は鳴滝砥石で作られており一見の価値があります。
福王子神社
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鳴滝砥石の額
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本殿
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 本殿の横に別の末社があり夫荒神を祀る夫荒神社(松尾大明神)があります。これはこの福王子の地が、京都の丹波丹後の入り口・要所で丹波国の氷室から宮中へ氷を運ぶ人たちの道でもあり、道の途中で氷が溶けて命を落とす人がたくさんあったことから、息途絶えた役夫の霊を慰めるお社が造られたのだそうです。
息途絶えた役夫の霊を慰める夫荒神社
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 また、この付近一帯は鳴滝と言い、鳴滝の地名の由来はこの地域にある小さな滝がごうごうと音をたてて洪水を知らせたことから、“ごうごうと鳴る滝”として「鳴滝」となったと伝わります。洪水は度々起こったと記録されなぜか“洪水”という苗字の家が何軒かあるそうです。その証拠に境内には神社賛助会員(氏子)の名前が入った掲示板があり、その掲示板にも“洪水”という名前がありました。
洪水という苗字がある掲示板
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 鳴滝は幕末、近衛家や薩摩藩ゆかりの名士の家、また維新の女傑・村岡局が一時期隠れ住んだ造園業の田辺家などがあって人里離れた地域であるため、幕末の密議が行われたエリアでもありました。鳴滝本町に田辺家が守っておられる鳴滝延命地蔵尊の祠が今も建っています。この地蔵尊には田辺家ゆかりの逸話が残っているそうです。

田辺家が守る鳴滝延命地蔵尊
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【了徳寺】
鳴滝延命地蔵尊の祠から少し歩くと、中風除けの大根焚で有名な了徳寺があります。大根焚は毎年12月9日と10日に行われ延べ1万人が訪れるそうです。1252年に親鸞聖人が愛宕山の月輪寺へ修行した帰り道にこのお寺に寄られてありがたい説法をされた。そのお礼に村人がおもてなしに出したのが大根を塩で煮た“大根焚(だいこたき)”でした。親鸞聖人は大変喜ばれておもてなしに応えて、すすきの穂を束ねた筆を作り、鍋の残り煤で「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」という十字の名号を書いてそのお礼として残されたそうです。この故事に因んで行われる報恩講の通称が「大根焚」になります。ご本尊は、聖徳太子自ら桂の木を彫って作ったとされる阿弥陀如来像があります。

大根焚で有名な了徳寺
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親鸞聖人の銅像がある境内
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大根焚のかまど
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 【鳴滝】
鳴滝は前文でも述べましたが、小滝がごうごうと音を立てて洪水を知らせたことからその地域一帯を鳴滝と呼ぶようになったのですが、その小滝の場所は昔、豪商三井家の一族・三井秋風(みついしゅうふ)の山荘「花林園」がありました。三井秋風は北村季吟の門下でよく文人墨客を招き、松尾芭蕉もその山荘をに招かれたようです。芭蕉は貞享元年(1684年)8月から翌年の4月にかけて旅をした俳諧紀行文「野ざらし紀行」で貞享22月に鳴滝の三井秋風の山荘を訪ねて下記の句を詠んでいます。
 
芭蕉:「梅白し昨日や鶴を盗まれし」(梅の咲き誇る立派な山荘庭園には必ず鶴がいると思って来てみましたが、鶴は居ませんね。きっと昨日盗まれたのでしょう)
 
秋風:「杉菜に身擦る牛二ツ馬一ツ」(そのような鶴などおりませんが、杉菜に体を擦り付けている牛が2頭と馬が1頭おりますよ)
 
これは、芭蕉が友の三井秋風の立派な山荘にも梅林があり鶴がいると想定して詠んだ句で、梅を妻として鶴を子どもとして生活していた中国宗の詩人林和靖の暮らしになぞらえて、秋風の山荘の句を詠んだものでした。芭蕉の奥深い知識とユーモアを含んだ句です。これに対して三井秋風も謙遜な句を返しています。松尾芭蕉は奥の細道を旅する前に落柿舎や金福寺、伏見などの京都を訪ねています。
芭蕉ゆかりの鳴滝
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 【三宝寺】
大根焚で有名な三宝寺があります。後水尾天皇が帰依していた日護上人ゆかりのお寺で、日蓮上人が寒さ対策に柚子を好んで食べていたことから炊いた大根と柚子のご飯を出しておられるそうです。セットで1500円するそうですが、京都の大根焚の中で一番美味しいという方も多いとか。このほかに、豊臣秀頼、淀君、国松丸の供養塔があります。

三宝寺前
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 【平岡八幡宮】
三宝寺から国道沿いをしばらく歩くと平岡八幡宮がありま。ここまで来るとほんとうに京都にあって人里離れたところだなと思います。地域は鳴滝より北の“梅ケ畑”という地域になります。歴史は、高雄山神護寺の鎮守として空海が大分県の宇佐神宮から勧請したと伝わり、応神天皇を祭神とするお宮さんです。1407年焼失後には足利義光が再建しました。

平岡八幡宮
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 本殿は1826年の造営で、天井に四十四面描かれた花の絵は「花の天井」としても知られています。絵は江戸末期の綾戸鐘次郎という絵師が極彩色豊かに描いています。天井の花は“葡萄草、ケシ、ザクロ、枳殻(からたちの花)、山桜、高雄紅葉、ソケ(ジャスミン)”などが描かれ、当時珍しかった花々も描かれていて興味深く見ることができます。

四十四面描かれた花の絵「花の天井」
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 境内には多種多色の椿が11月から春まで咲き続ける神社としても有名です。宮司いわく、椿はとかく冬の花に思われがちですが、実は春の花であるとおっしゃっていました。また、椿の花は花ごと落ちることから験が悪い花として扱われているけれど、これは江戸時代からの風潮でそれ以前は験の良い花の存在であったそうです。神様や仏様の前に上げる榊の代わりに椿の葉も使われれていた(今も使える)という話を宮司がしてくださいました。椿では願い事をすると白玉椿が一夜で咲いて願いが叶ったと伝わる「白玉椿」があり、たくさんの人が願いをかけて帰られるそうです。
宮司からお話を聞く
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白玉椿
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 今回は京都の北、高雄の手前まで歩き疲れましたが、平岡八幡宮の宮司が自ら漬けられた梅と結び昆布が入った大福茶をいただき元気になって一路洛中へと帰りました。ちょっとしたピクニック気分で今回は歴史を探訪しました。
大福茶
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2017年の桜の季節に法然上人ゆかりの寺・知恩院をたずねました。
【明智光秀・首塚】
1582年、本能寺で明智光秀は主君の織田信長を急襲しましたが、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と山崎(天王寺)の戦いに敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われ自刃しました。光秀は家来に自分の首を知恩院で灰にしてほしいと告げたので家来は身元が分からない夜の間に首を知恩院へ届けようとしましたが夜明けてしまい、知恩院一歩手前の三条白川橋を下がった場所で首を埋めたと伝えられています。因みに光秀の胴は山科の勧修寺に埋葬され石碑が立っているそうです。
明智光秀首塚
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【得浄明院(とくじょうみょういん)】
明智光秀の首塚から知恩院へいく道のりに信州善光寺大本願の京都別院の尼寺として、明治27年(1894)9月に建立された得浄明院があります。全国各地に善光寺会の支部のお寺が100か所あり、信州の善光寺さんへお参りできなくてもここへお参りすれば善光寺さん同様に戒壇巡りができるそうです。五月初旬に咲くイチハツのお花で有名です。
【知恩院】
知恩院の開祖は法然上人で、全国に八千の末寺を有する浄土宗総本山です。1175年に法然上人は、貴族だけの仏教に疑問をいだき専修念佛を信じて比叡山を下りました。そして、民衆のための仏教を広めようと、吉い水がこんこんと湧き出でる吉水の地(現在の知恩院の地)に草庵を結びました。それが吉水草庵です。法然上人の専修念佛とは、法然上人が詠まれた「月かげ」の歌から知ることができます。下記のとおりです。
知恩院・黒門前
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≪浄土宗総本山・知恩院ホームページ抜粋≫
“月影の いたらぬ里はなけれども ながむる人の 心にぞすむ”
月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味です。
【知恩院と徳川家康】
法然上人が吉水草庵で専修念佛を布教したのは約30年。後に旧仏教徒からの弾圧で讃岐に流されますが、布教の間たくさんの人が理解、支持し「南無阿弥陀仏」と念佛を唱えました。法然上人は、大きなお寺を構えることなく“念佛の響き(唱える)あるところがお堂である。念佛を唱えた所・そこがお堂になりお寺になる”と大きなお寺を建てずに吉水草庵で布教を続けました。今日ある大きな建物の知恩院は徳川家康の支援以後だそうです。
徳川家の庇護のもと大きくなる知恩院
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徳川家康はこの知恩院と1603年に建てた二条城を京都の拠点とし、知恩院黒門の前にある知恩院七不思議の一つ“瓜生石”の下に地下道があってその道は二条城につながっているという伝説があります。それは、二条城が徳川家の政治的な拠点になっていたからかもしれません。
知恩院七不思議の一つ“瓜生石”
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知恩院を訪ねるとまずは本堂や御影堂を参拝に行かれることは多いですが、今回はもう少し山手の方に足を伸ばして、知恩院の中でも神聖な勢至堂を目指しました。御影堂から勢至堂へ行く間に千姫の供養塔と、濡髪大明神(ぬれがみだいみょうじん)があります。
【知恩院・千姫の供養塔】
千姫は、二代将軍・徳川秀忠の長女(15981664)です。幼い頃に豊臣秀吉の息子秀頼のいいなづけとなり嫁ぎました。大阪夏の陣で、姻戚関係にありながらも徳川と豊臣の戦いが始まり、秀頼は母の淀君と自害する中、千姫は徳川家に助けられその後姫路城主の本田忠政の嫡男のもとへ嫁ぐことになります。以後、嫡男の病死により、千姫の弟で知恩院の御影堂を1639年に再建した三代将軍・徳川家光を頼り徳川家へ戻りました。千姫は最後、江戸で余生を過ごされお墓は東京にありますが、悲運な生涯をおくられた千姫様の供養を知恩院でも行おうと供養塔が建てられました。
千姫の供養塔
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【知恩院・濡髪大明神】
千姫の供養塔の後ろに鎮座する”濡髪祠”と掲げられた鳥居があります。「濡髪大明神(ぬれがみだいみょうじん)」と言います。まだ知恩院の御影堂が建った頃の江戸時代初期のある日、知恩院第32世霊巖上人の夢に、雨に濡れた子供がシクシクとすすり泣く姿で現れます。その濡れ姿の子どもは古くから御影堂の土地に住んでいた白狐。御影堂が建って白狐の住む家が無くなったので困り果てて人間の子供の姿になって夢に現れたようです。これを哀れに思った霊巖上人は子どものために住む場所を作ったところ、後日再び霊巖上人の夢に現れ“知恩院を火災から守る”と誓い御影堂の軒下に水を意味する傘を置いていきました。
濡髪大明神
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その後、霊巖上人はその子どもを「濡髪童子」と名付けて祠にお祀りしたのが濡髪大明神の始まりです。御影堂の軒下に置かれた傘は“知恩院七不思議”の一つ「忘れ傘」(当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説もある)になっています。当初は“傘イコール水”をイメージして建物を火から守る“火災除けの神様”としてお祀りされていましたが、“濡髪”が艶やかな女性の姿もイメージされることから花街のきれいどころの信仰を集め今日では縁結びの神様「濡髪さん」と呼ばれ親しまれているそうです。
【知恩院・勢至堂】
濡髪神社を後にして、知恩院の聖地でもある勢至堂へ行きました。境内の中でもいちばん山裾に近く、傾斜がきつい階段などもあり歩くには少しだけ足がつらいですが、本堂、御影堂がある場所とまた違った静穏な雰囲気もあるお念仏発祥の地に足を伸ばしてもらいたい場所の一つです。
勢至堂へ続く階段
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勢至堂の名前の由来は法然上人の幼名・勢至丸(せいしまる)からきています。法然上人は880年の平安末期(1133年)に岡山県美作国に生まれ、父・時国が地方の役人で裕福な生活を送っていました。法然上人が9歳のときに水の権利の争いで父は夜襲に遭い亡くなります。父の死の間際に法然上人が「私は武士の子、父の恨みをはらす」と言うと、父は「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」(敵討ちすれば一時的な望みは叶うが、以後連続して恨みが続き消えない。広い心を持ってお坊様になってほしい)と言葉を残しました。
幼名・勢至丸 法然上人
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法然上人は父の言葉の通り比叡山に登り仏教の修行をしましが、当時の仏教は位の高い人のための物であったため、これではたくさんの人は救えないと30年の修行ののち比叡山を下りました。そして今の安養寺のあたりの吉水で庵(吉水草庵)を結んで専修念仏を広めます。法然上人の専修念仏はたくさんの人に広まり弟子もできましたが、当時の権力者にとって脅威だったに違いありません。法然上人をよく思わない旧仏教から弾圧を受け法然上人75歳の時に四国へ流罪になりました。79歳で都へ戻り80歳で亡くなりましたが亡くなる二日前に法然上人は、専修念仏の教えが後に衰退したり、間違った解釈になったりしてはいけないので遺言を弟子の源智に授けました。それが法然上人御遺訓「一枚起請文」(一枚起請文は金戒光明寺にあります)です。よって勢至堂はお念仏を広めそして終焉を迎えた大事な聖地となりました。
一枚起請文

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 現在の勢至堂は1530年に建てられたもので現存する知恩院最古の建造物です。ご本尊は法然上人の御影でしたが現在の御影堂が建立された折に勢至堂から移されました。移された後は勢至菩薩像(重要文化財)が代わってお祀りされお堂の名前の由来にもなりました。
知恩院最古の建造物・勢至堂
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勢至堂の上には法然上人の遺骨を奉安する廟堂があります。法然上人入滅(1212年)後に弟子が建てました。現在の廟堂は1613年に改築されたものです。廟堂の手前にお参りのための拝殿があり、部屋の中にはたくさんの木魚が置かれていて“ポクポクポク”と自由に叩いてお参りができるようになっています。法然上人と対面したいときは心静かに木魚を叩いてお参りするのもいいものです。
法然上人御廟
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木魚を叩きましょう
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【知恩院・大鐘楼】
知恩院といえばたくさんの見る建物がありますが、鐘楼も大きくて京都の方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として有名です。大きさは高さ3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トンです。1636年知恩院第32世雄誉霊巌上人のときに鋳造、この大鐘を支える鐘楼は1678年、知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されたもので、国内最大級の大鐘を支えています。皆さんがこの大鐘楼をよく目にされるのは大晦日の除夜の鐘のときではないでしょうか。大きさが大きさだけに70トンという重さを動かし撞くのには相当の力がいります。ましてや一人では撞けません。大晦日の日には、親綱1人、子綱17人で一同に息を合わせて撞く様が大鐘の大きさのみならず有名で京都の大晦日の風物詩となっています。
国内最大級の大鐘・鐘楼
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大晦日は人でいっぱいになる
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【法垂の窟(ほうたるのいわや)】
知恩院の鐘楼上の山道を経て将軍塚行く途中(青蓮院の飛地境内)に、仏法が滴る窟屋と書いて「法垂の窟(ほうたるのいわや)」という場所があります。そこは、法然上人が夢で、崇拝する中国・隋の時代(613〜681)の僧・善導に対面したという伝承が残る大切な場所です。
山道にある法垂の窟(ほうたるのいわや)
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善導と法然が夢で出会った場所
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善導上人は613年から681年にかけて仏教を布教し、法然上人よりも昔に“声を出す念佛により往生するという中国浄土教”を大成した僧です。法然上人は同じ念佛往生の思想を持つ善導と夢の中で出会いました。腰から上は僧の形相、腰から下が金色の仏僧で現れた善導は法然上人に専修念佛の道を説いて法然を励ましたのだそうです。その夢の中の出会いの場所が昔、真葛や萩、薄、茅などが生い茂る真葛ケ原と呼ばれる原野で“法垂の窟”です。法然上人は善導大師の説く念佛の教えこそ今の時代に合うものだと確信して浄土宗の基礎を築きました
中国の僧・善導
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法然上人
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雑学ではありますが、真葛ケ原の中央に位地する円山公園。円山公園の名称は、法然上人が草庵を結んだ吉水草庵の慈円山安養寺の円山から取って名づけられました。
【天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)】
散策をした4月8日はお釈迦様がお生まれになった日でもあり、訪ねるお寺ではお釈迦さまの誕生日・花まつりを行っておられました。右手を挙げて立つ高さ30センチほどのお釈迦様の像をお花などで囲い飾って、お釈迦様に甘茶をかけてお釈迦様の誕生をお祝いする行事です。
お釈迦様のお誕生日・花まつり
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お釈迦様がお生まれになったとき、すぐに歩かれ一方の手を天に向けて指し、もう一方の手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えられたそうです。天上天下唯我独尊とは“天上天下にも私という存在は一人。私が尊いように皆も尊い存在である”を意味するのだそうです。「唯」はお釈迦様本人の意味ではなくそれぞれ個々人を意味しているのだとか。文字だけをみていると、私が一番偉いととりがちですね…。
今回は桜のもっとも良い日で、お釈迦様の誕生日に訪ねた散策でした。
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