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2015.11.25 曇り後雨 久しぶりの連休を利用して『天平の甍』と『太平記』巡りに車で一泊二日の旅へ。 ついでに紅葉も楽しめるかな、と思いつつ和歌山県田辺市を出発し阪和道、西名阪道路を乗り継いで奈良県斑鳩の竜田を目指します。 天気予報は曇り後雨なので本日最後の笠置の山登りはちょっと心配なのですが。 現在、竜田山と言う山は有りませんが、古い時代には平城京と難波の往還によく使われた『竜田道』の一つがあったといわれます。 井上靖の『天平の甍』には 天平五年(733年)の第9次(10次とも)遣唐使船に乗るために作中の中心人物である普照や栄叡は 「四月二日早暁、広成等は憶良の歌にある難波津へ向けて、奈良の都を発った。(中略) 道は大和平野を突切って、真直ぐに北西へ伸びている。一行は王子を経て竜田山を越え、この日は国府で泊り、翌日国府を発って、午少し前に難波の旧都へはいった。」 とあり、 そして20年後の帰途には、彼らの招聘によって渡朝を決めた鑑真和上に随行して 「翌四日、一行は河内の国府を発し、竜田を越え、大和の平原へ降って平群の駅に至った。」 と記されています。 また、ここより北、竜田川の上流は平群(へぐり)と言い、古代に武威を誇った豪族である紀伊国造(くにのみやつこ、こくそう)の祖である紀氏(きうじ)の本貫の地であるとも言われています(異論も有り)。この家系は現在にも続き和歌山市の日前(ひのくま)、国縣(くにかかす)神社の神官として天皇家に次ぐ古い家系の一つとして血脈を保っています。 この神社は古くには名草の宮ともいわれ、かの伊勢神宮の神体である八咫鏡の先に鋳られた日像鏡、日矛鏡をそれぞれ神体として祀られ、伊勢と同じく格の付けられない破格の神社として中央の尊崇を受けていたといわれていますが、秀吉の紀州討伐のおり神領没収、破却の憂き目にあいました。その後江戸時代に徳川頼宣により再建されましたが数分の一のスケールに縮小されて今に至っています。 この後は信貴生駒スカイラインを経て『太平記』の一舞台である京都府相楽郡笠置町の笠置寺へ向かいます。 笠置橋を渡り県道から急傾斜の狭隘で離合困難な道路を1.6キロ、標高差150mを登りきるとやっと駐車場にたどり着きます。 雨のそぼ降る中をさらに徒歩で登り、山門を入り本堂で拝観料を払おうとすると 「今日は雨で足元が悪いですからどうぞ、そのままお入りください」 「えっ、拝観料は? 二人とも?」 「ええ結構でございます」 「有難うございま〜す <m(__)m>」 60うん年生きていますが有料拝観の社寺仏閣で無料拝観できたのは初めてで、貴重な経験をさせて頂きました。 南北朝時代の初めに鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇は京都の皇居を脱出して かの『太平記』には 「笠置臨幸の事 1 元弘元年八月二十七日、主上(後醍醐天皇)、笠置へ臨幸なりて、本堂を皇居となさる。(中略) されども、未だ名ある武士の、手勢百騎、二百騎とも打たせる大名は、一人も参らず。 この勢ばかりにては、皇居の警固いかがあるべからんと、主上、思し召し煩はせ給いて、少し御まどろみありける御夢に・・・」 この後に楠正成との出会いの予知夢の段が続きます。 京を脱出した後醍醐天皇が篭った理由が分かる気がします。笠置山は標高300mに満たない山でありながらも独立峰になっており、三方を急峻な地形に守られた天然の要害となっています。 太平記にも 「笠置軍事付陶山(すやま)小見山夜討の事 かの笠置の城と申すは、山高くして、一片の白雲を埋み、谷深くして、万仞(ばんじん)の青巌(せいがん)路を遮(さえぎ)れり。」 と記されています。 さらに 「陶山、皇居の様を見すまして、今はかうと思ひければ、鎮守の前にて一礼を致し、本堂の上なる峰へ上がって、人のなき房のありけるに火を懸けて・・・」 そして 「笠置没落の事 さる程に、類火東西よりより吹いて、余煙皇居に懸かりければ、主上を始めまゐらせて、 (中略) いづくを指すともなく、足に任せて落ちたまふ。」 というように全山炎上、消失してしまったと言う事になっています。 この後、後醍醐天皇は幕府方に捕縛されて隠岐に流されてしまいますネ。 なかなか綺麗でした。(「本堂の上なる峰」か?) 後醍醐天皇の行宮跡 本日の行程はこれにて終了。一路奈良市のホテルへ。 夕食は奈良駅前にある十津川村出身のご夫婦が切り盛りしている居酒屋さんで盛り上がりました。朝起きると痛飲のおかげで途中の記憶が飛んでましたわ。 明日は『天平の甍』の最終舞台である興福寺と唐招提寺です。 (注) ★マークの付いている画像はオリンパスOM−D E−M10のポップアートカラーフィルターで撮影しています。
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