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2015.11.26 曇り一時雨 昨夜の痛飲を後悔しながら朝湯にザブン! チョット凝った朝食を頂いてホテルを出発したのは午前9時前。 でもインバウンドが多い、と言うか、日本人がほとんど目につかないのにびっくり! 井上靖著『天平の甍(いらか)』の作中では中心人物の1人、栄叡(ようえい)の住していた寺です。 この寺院は1350年近い歴史が有りながらも明治初期の廃仏毀釈運動で多大な被害を受けた寺の一つです。伽藍を取り巻く塀が無いのはこの時に取り壊されたことによります。伽藍というにはガランとしている印象を与えるのはこのためなのですネ。又、この五重塔もわずかな金額(250円,但し諸説有り)で売却され燃やされる直前で中止になったという話も残っているようです。 この運動は熊野地方も例外ではなく、一例をあげれば現在世界遺産に指定されている熊野三山も那智の観音堂を除いてはことごとく仏教系の建物、仏像等が破壊、棄却の憂き目にあっており、本宮大社では江戸時代に仏教系堂宇が300余りもあったと言われていますが現在ただの一棟も残っていません。 但し、那智大社では観音堂が残されたお陰で後年、運動が収まった後に再建されて現在の姿になっています。 国宝館では阿修羅立像がひときわ明るい照明の中に佇立しています。今は照明をLEDに変えたことによってガラス越しではなく直に対面できるようになっています。 南方熊楠は「宦官がモデルだ」と言い、司馬遼太郎は「無垢の困惑」と表現したその表情や肢体は、静謐の中に秘めた無言の抵抗さえ感じ取れる気がします。 律宗総本山唐招提寺の金堂です。屋根の両端に据えられ鴟尾(しび)や柱が特徴的で天平建築の代表的なものとなっています。 『天平の甍』の最終章に 「遣渤海使小野国田守の帰朝は、普照に業行のことを諦めさせたばかりでなく、普照のためにもう一つの役割を持っていた。それは彼が、一個の甍を普照のために持って帰国したことであった。(中略) 甍は寺の大棟(おおむね)に載せる鴟尾(しび)であった」 「鴟尾は長い間、東大寺の普照の住む寺坊の入口に置かれてあったが、(中略)唐招提寺の工事の司(つかさ)である藤原高房のもとに差し出された。(中略) 普照は唐招提寺の境内に入ると、そのたびにいつも金堂の屋根を仰いだ。そこの大棟の両端に自分が差し出した唐様の鴟尾の形がそのまま使われてあったからである。」 もっともこの段は井上靖の創作だと言われているようですが… 唐招提寺を辞し、鑑真和上や普照、業行などに思いをはせながら帰途につきました。
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名所・旧跡
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2015.11.25 曇り後雨 久しぶりの連休を利用して『天平の甍』と『太平記』巡りに車で一泊二日の旅へ。 ついでに紅葉も楽しめるかな、と思いつつ和歌山県田辺市を出発し阪和道、西名阪道路を乗り継いで奈良県斑鳩の竜田を目指します。 天気予報は曇り後雨なので本日最後の笠置の山登りはちょっと心配なのですが。 現在、竜田山と言う山は有りませんが、古い時代には平城京と難波の往還によく使われた『竜田道』の一つがあったといわれます。 井上靖の『天平の甍』には 天平五年(733年)の第9次(10次とも)遣唐使船に乗るために作中の中心人物である普照や栄叡は 「四月二日早暁、広成等は憶良の歌にある難波津へ向けて、奈良の都を発った。(中略) 道は大和平野を突切って、真直ぐに北西へ伸びている。一行は王子を経て竜田山を越え、この日は国府で泊り、翌日国府を発って、午少し前に難波の旧都へはいった。」 とあり、 そして20年後の帰途には、彼らの招聘によって渡朝を決めた鑑真和上に随行して 「翌四日、一行は河内の国府を発し、竜田を越え、大和の平原へ降って平群の駅に至った。」 と記されています。 また、ここより北、竜田川の上流は平群(へぐり)と言い、古代に武威を誇った豪族である紀伊国造(くにのみやつこ、こくそう)の祖である紀氏(きうじ)の本貫の地であるとも言われています(異論も有り)。この家系は現在にも続き和歌山市の日前(ひのくま)、国縣(くにかかす)神社の神官として天皇家に次ぐ古い家系の一つとして血脈を保っています。 この神社は古くには名草の宮ともいわれ、かの伊勢神宮の神体である八咫鏡の先に鋳られた日像鏡、日矛鏡をそれぞれ神体として祀られ、伊勢と同じく格の付けられない破格の神社として中央の尊崇を受けていたといわれていますが、秀吉の紀州討伐のおり神領没収、破却の憂き目にあいました。その後江戸時代に徳川頼宣により再建されましたが数分の一のスケールに縮小されて今に至っています。 この後は信貴生駒スカイラインを経て『太平記』の一舞台である京都府相楽郡笠置町の笠置寺へ向かいます。 笠置橋を渡り県道から急傾斜の狭隘で離合困難な道路を1.6キロ、標高差150mを登りきるとやっと駐車場にたどり着きます。 雨のそぼ降る中をさらに徒歩で登り、山門を入り本堂で拝観料を払おうとすると 「今日は雨で足元が悪いですからどうぞ、そのままお入りください」 「えっ、拝観料は? 二人とも?」 「ええ結構でございます」 「有難うございま〜す <m(__)m>」 60うん年生きていますが有料拝観の社寺仏閣で無料拝観できたのは初めてで、貴重な経験をさせて頂きました。 南北朝時代の初めに鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇は京都の皇居を脱出して かの『太平記』には 「笠置臨幸の事 1 元弘元年八月二十七日、主上(後醍醐天皇)、笠置へ臨幸なりて、本堂を皇居となさる。(中略) されども、未だ名ある武士の、手勢百騎、二百騎とも打たせる大名は、一人も参らず。 この勢ばかりにては、皇居の警固いかがあるべからんと、主上、思し召し煩はせ給いて、少し御まどろみありける御夢に・・・」 この後に楠正成との出会いの予知夢の段が続きます。 京を脱出した後醍醐天皇が篭った理由が分かる気がします。笠置山は標高300mに満たない山でありながらも独立峰になっており、三方を急峻な地形に守られた天然の要害となっています。 太平記にも 「笠置軍事付陶山(すやま)小見山夜討の事 かの笠置の城と申すは、山高くして、一片の白雲を埋み、谷深くして、万仞(ばんじん)の青巌(せいがん)路を遮(さえぎ)れり。」 と記されています。 さらに 「陶山、皇居の様を見すまして、今はかうと思ひければ、鎮守の前にて一礼を致し、本堂の上なる峰へ上がって、人のなき房のありけるに火を懸けて・・・」 そして 「笠置没落の事 さる程に、類火東西よりより吹いて、余煙皇居に懸かりければ、主上を始めまゐらせて、 (中略) いづくを指すともなく、足に任せて落ちたまふ。」 というように全山炎上、消失してしまったと言う事になっています。 この後、後醍醐天皇は幕府方に捕縛されて隠岐に流されてしまいますネ。 なかなか綺麗でした。(「本堂の上なる峰」か?) 後醍醐天皇の行宮跡 本日の行程はこれにて終了。一路奈良市のホテルへ。 夕食は奈良駅前にある十津川村出身のご夫婦が切り盛りしている居酒屋さんで盛り上がりました。朝起きると痛飲のおかげで途中の記憶が飛んでましたわ。 明日は『天平の甍』の最終舞台である興福寺と唐招提寺です。 (注) ★マークの付いている画像はオリンパスOM−D E−M10のポップアートカラーフィルターで撮影しています。
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2014.11.21 晴れ 昨夜の夜更かしがたたって出発が午前九時をまわってしまいました。 快晴のもと、紅葉に染まる(多分?)大和国へ。 行先は決めていませんが、取り敢えず大神(おおみわ)神社を目指します。勿論ここでの紅葉は望むすべもありませんが…神体山登山が目的です。と言うのも大神神社へは2度訪れたことがあるのですが時間の都合で未だ登山の機会が有りませんでした。 大神神社の拝殿です。この奥に三ツ鳥居(三輪鳥居とも言い国の重要文化財に指定)が有りますが、本殿はありません。この裏にある神奈備としての三輪山を神体としています。 この鳥居を見るためにはちょっとした手続きや儀式(お祓い他)がありますが希望者は拝観できるようになっています。但し撮影禁止になっている関係で写真を見ることはごく稀です。 ここから5分ほどで三輪山の登山口である狭井神社に到着。登拝料を払い、自前で『祓』をして登り始めますが当然ながら撮影禁止、飲食禁止となっています。 45分程で山頂到着、磐座見学後下山、往復90分でした。 山内の情報は他の人に話さないのがマナーになっているようなのでここには記しません。 三輪山を辞して次は談山神社です。 談山神社遠景 談山(566m)を臨む。 言わずと知れた中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿誅殺の謀(はかりごと)を巡らした所といわれています。ここでの談合が乙巳の変となり大化の改新に繋がっていったと思うと1300余年の歴史がそう遠くないように思われます。 結局、今日の散歩は大神神社と談山神社の二か所のみとなってしまいました。
この後、吉野に下り南海道から和歌山インターを経て田辺市に帰りつきました。 |
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2010.11.6 晴れ 小春日和 少し時間が出来ました。 タッタカターッ! と護摩壇山へ。 |
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2010.01.24 晴 決して火事のために放水している訳ではなくて、行った日がたまたま年に一度の放水訓練(出初式)だったと言うわけです。 地元の国宝を消失させると言う事は地元消防署や消防団にとって不名誉な事であり、人類共有の文化遺産を守るという観点からも各地の文化財には自衛の為の消化機器や防災組織、そして消化栓などの設置が当たり前になってきています。 もっともここ丹生都比売神社の国宝は東京国立博物館に、一部の重文は県立博物館などに保管されていますが、建造物は移築保存するわけにはいきませんので防災対策に神経を使わ無ければならないのは致し方の無い事ですが。 もっとも防火施設に関しては今に始まった事ではなく、古くから工夫されていたようです。 丹生都比売神社(にゅうつひめじんじゃ)はここ和歌山県かつらぎ町天野(あまの)の地に鎮座しており、日本全国の丹生都比売神を祀る神社の総本社で、高野山と関係の深い神社であり、2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されました。
国宝1点を含む多くの国指定重要文化財が現在まで守られてきました。
「丹(に)」は辰砂(別名丹砂、朱砂、水銀朱etc−朱色の硫化水銀)のことで、その鉱脈のある所のことを「丹生」といい、特に中央構造線付近に多く存在しています。ここ天野や三重県の丹生鉱山、徳島県の若杉山遺跡などいずれもこの構造線上、もしくは近縁に位置しています。古代においては、水銀や辰砂(鮮血色をしている)はその特性や外見から不死の薬として珍重されてきたといわれ、現代のように毒と認知されたのは中世以降だといわれており、始皇帝など多くの権力者がこれによって命を落としたといわれています。また、日本の飛鳥時代の女帝、持統天皇も若さと美しさを保つ為に飲んでいたとされます。ちなみにこの持統さんは紀の湯(牟婁の湯−現在の白浜温泉の湯崎と比定)で湯治されたことがあるようですヨ。 また辰砂はそのまま朱色の顔料となり、神社の社や鳥居の塗料として使われてきましたし、アマルガムとして仏像の金メッキ用に使用されたりしましたので古代から大変有用な鉱物だったのです。 丹生都比売大神は、辰砂(朱砂)を採掘する一族が祀る神であると考えられているようです。 鳥居から太鼓橋を見る 参道 楼門(重要文化財) 楼門とは2階建てで屋根の付いた門のことです。ちなみに1階部分にも屋根の付いたものは二重門とよびます。 神殿(重要文化財)−第一殿から第四殿まであります。 現在は神社ですが明治の初めまでは神仏習合の形を色濃く残し、寺社や堂宇が建ち並んでいました。しかし神仏分離令の後の廃仏毀釈運動により仏教色の建物は全て棄却されてしまい現在の姿となりました。 神仏分離以前の姿をご覧になりたい方は丹生都比売神社の公式ホームページをどうぞ。 出初式の始まりです。 |




