|
清水幾太郎は、戦前の教育を受け、終戦直後に左派の論客となり、その後「総括」し右派に転向した思想家である。右も左も経験した、良心的な保守論者の愛国心を参照する意味は大きい。 要約
全体的な清水の意図としては、「戦前の愛国心は右翼のみが語ることを許されており、それを今後同様に悪用されない為に自分が平和的なものに定義し直す(愛国心の近代化)」という側面があるように思われる(清水1950:p165-6)。そして右翼が独占しているその愛国心の原始的側面を緩和するものとして、個の確立や世界的視野を持つことにより「寛容」を養い、その手段として民主主義を導入する必要があると述べられている(清水1950:p98,l2-7)。 つまり、どの民族も愛国心と付き合っていかねばならず、であるならばそれとうまく付合っていく為の提案をしてると解釈出来る。 では清水の個人の確立や世界的視野に関する見解はどのようなものなのか。 まず清水は民主主義による愛国心の緩和には個人と世界の確立が大きく関与しているとしている(清水1950:p91,l12)。その上で、「個人」は民族と同じく商品経済の発展に関係して生まれてきたものであり、それにより社会的紐帯が切れ、圧政も・保護もない個人が事実として生まれる。その個人はgive and takeなどの利益との関係において国家の内部を透明化し深く関係する。故に国家が自然と愛情の対象になる。また自己責任の観念が生じ、何者にも屈しないという覚悟を持っていることで、愛国心の危険な原始性を緩和する(清水1950:p92-5)。 次に世界(的視野)の実現である。 まず大航海時代により未開文明の発見と同時に世界の現実感が生じる(清水1950:p95,l7-9)。そしてその(西洋から見た)未開人をキリスト教の原理である平等を通してみることで、ホモサピエンスとしてではなく「人間」としてみることができ、世界市民観(コスモポリタニズム)が現実的な意味を持ってくる。その結果、多民族や国家を最初から排斥するという態度が自然に困難であることに気づく(清水1950:p96-7)。 なお、この個人(の確立)と世界(的視野)は一つのセットであり、あらゆる集団から解放され確立した個人によって支えられているのが世界(観)の立場である(清水1950:p97,l11-)。そしてこの一つ乃至は二つによって、民主主義による愛国心の合理化(清水1950:p117,l2-3)につながる。もっといえば、愛国心を飼い慣らしていくことが可能になる。 このような議論構造になっている。(チャートは下部参照) : 現代の保守派論客にも影響を与えているだけに、なかなか興味深い主張構造である。 若干、現代でも右翼が愛国心を独占しているような気がするのは、何も彼から学んでないのかという気にもさせられるが。 現代でも自分たちの言っていることのみが愛国心だと勘違いしている人は多い。e.g.「そんな事言う奴は日本人じゃない」、「社会党・共産党は北朝鮮の政党」、「朝日は平壌新聞」などなどの言説。別に内容がいいか悪いかは別として、「真に愛国的だからこそ、北方領土を手放した方が日本の国益の為だ」という主張も当然愛国的と言うことができる。いいか悪いかは別としてね、あくまで。 その辺、先達の議論と苦悩との上に今日の愛国心を考える意味でも、単純な右派は参考にして欲しい。 次に、その世界(観)と確立した個人の一体化の中に、原始的な愛国心の土壌があるのではないかと思われる。つまり愛国心を近代化たらしめる構造の中に、実は、本質的にエスノセントリズム(自民族中心主義)が生じる構造が強固に存在するのではないかという疑問である。 清水によれば、国家への帰属を通してのみホモサピエンスは「個人」となり、まっとうな「人」になれる。また国家への帰属を通してのみ人は世界へと帰属することができる。これは、特定の国家に所属しているものにとっては、自分の国家が「人間」、乃至は「世界」として現れる側面が強くなることは避けられない。故に合理化された愛国心においても、自分たちだけが人間であるかのような、自国が世界の全てであるかのような主張がなされるのである。 そのため、合理化された愛国心といえども、対外的イントレランスや対内的イントレランス(清水1950:p114-143)が生じる可能性は高くなる。確かに著者のいうように(議論チャート参照)対外的・対内的イントレランスには、国家的利益・国家的恐怖、人種差別、国内不満を逸らす目的、内部最適化などの要因も大きいであろう。が、しかし根本的な問題として「合理化していた」と思っていたものが、実は巧みに「原始化させていた」、少なくとも原始化させる要素があった、といえるのではないかと思う。 ちなみに、まだ私自身の煮詰められていない議論であるが、この愛国心論を現代アメリカに当てはめてみるとおもしろいかもしれない。 ブッシュJr登場以来、何かと日本の若者にアメリカ嫌いが増加したが、国際社会でのアメリカの立ち振る舞いは愛国心とは無縁ではないだろう。とりわけ愛国心が強い国として―この点は論証する必要がないと仮定して―有名なアメリカは、上記の議論からいくと少なからず「アメリカ国民である」という事と、世界の事も考える「世界市民である」ことをかなり重なっていると考えられる。故に世界市民として、世界の警察も自認し、人道や人権を持ち出し普遍的な発言・行動―少なくとも当人達の中では―を続けている。しかし如何に普遍主義的な言葉を発していても、国家である以上、国益に反した行動は出来ない。その為「やるべき事」をやらず、「やるべきでない事」をやるという二重基準的な対応をする事になってしまう。にもかかわらず、当人達の中では世界と一緒になって貢献したという意識があるのである。この辺の意識は別にアメリカだけでなく、多かれ少なかれどこの国にも存在するものではないであろうか。閉じられた領域=国家での愛国心の限界にも近いかもしれない。 本当は愛国心法案との関係で書きたかったが、この手の話は長くなりそうなんで こんな感じで 本書のチャート 愛国心は共同体への自然に抱く感情であり、近代ではいろいろな経緯を経て民族国家に受け継がれてきている。 ↓ 愛国心は危険な側面(原始的側面)を持つ ↓ 愛国心は民主主義によって棘が抜かれるp77,l8 ※民主主義は平和的方法と平等p73,l1 w:寛容という前提があるから その寛容を涵養するのが個人と世界 個人:商業等の発達によって、事実としての個人の誕生p92,l2- 自己責任があるから集団に埋没しないp93,l1-8 世界:≒コスモポリタニズム。大航海時代に発見された未開人に、キリスト教的平等を持ち込むことで、個人としてみることができた。P95,l5- →世界と個人は一つになる w:一切の手段から自己を解放し尽くした人間の性質や願望によって直接支えられるのが世界の立場である。P97,l11- →合理化された愛国心 合理化されたとは、個人と民族と世界とがバランスを取っている状態p117,l2-3 ↓ しかし、その合理化された愛国心も野蛮な可能性があるp142,l1-3 w:対外的不寛容と、対内的不寛容が出てくるから 日本−愛国心が合理化されていない 対外的不寛容 国家的利益と国家的恐怖、つまり資本主義と主権的民族国家により、当の民族には美徳でありながら多民族には犯罪である愛国心が出てくるp121,l8- 人種への偏見は容易に民主主義の押さえを越えていくp123,l5- 国家内部にも階級対立が生じ、分裂傾向が生まれる。 w:欧州人のアジア人に対する偏見が国内に適応され、階級分裂が激しくなるp125,l11- →国が崩壊するくらいになるので、敵意を逸らす為に外部の敵を作り出し、愛国心に訴えるp127,l5-, p128,l3 対内的不寛容 一種の浄化、均質化である。 ↓ 現代ではまた違った流れがある 民族国家が社会生活の単位の拡大の流れのうちに飲み込まれようとしている 戦争が問題解決の方法として意義を失いつつある ↓ ではどうしたらよいのか? より民主主義を徹底させることで「個人と民族と世界とがバランスを取っている状態p117,l2-3」である合理化された愛国心にしていくしかない その為に 自由主義的な民主主義(アメリカ的):他者を認める平和的な方法を持つ 実質的平等の民主主義(ロシア的):経済的社会的不平等の解消により平等である この二つをもって相高め合っていくことが重要p153-4 w:そもそも※民主主義は平和的方法と平等p73,l1であるため →永久革命としての民主主義!? ↓ 以上の議論を受けて日本の愛国者の条件 1.同胞に対する素直な感情 2.寛容の精神 3.戦争が問題を解決しないことの確認 4.民族国家の意味喪失 具体的には、身近な問題を解決することで、寛容などを養い、愛国心を制御していこうp163,l9-, p164,l3-, p165,l3- |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用



