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一言で言うならば、「決定の作法」とでも言おうか。。。 確かに多様な価値が存在し、その中での優劣がつけられない状況の中で、ある一つの決定をしなければならないということでは、葛藤が生じる。 著者の言うように、価値そのものの比較というのは単一の尺度に乗せるなどしない限り困難である。 功利主義は単一の尺度としてある程度は機能しようが、それにも限界はある。 しかしだからといって何らかの「決定をしない」という事もまた問題である。 「決定しない」事による、特定の立場・価値へ寄っているという事が考えられるからである(何もしないことによる、ある立場への関与) 単純に決められないものの中に敢えて決めなければならない困難さ、そこに決定についての葛藤が生じる。 著者は法廷システムを模倣し現実適用を模索することでその葛藤に向き合っていこうとしている。 自分としては取りあえず、判断や決定に際して悩み、悩んだ中から取り敢えず括弧付きで(保留付きで)決定するということが大事なのではないかと考える。(検証可能性や柔軟性) というのもその時その時でどのような決定が適切かというのは、後にならないとわからないことも多い。 人によってもかなり分かれるところであるからである。 そのような中で、強固に一つの決定を絶対化し守り続けるのもよいが、 それは誤った際に極端から極端にぶれることになるし、リスクがあまりにも大きすぎると思われる。 だから決めるにしてもはじめから献身的価値「これまでやってきたんだから、今までのが無駄になるから」や或いは功利主義的価値「」のように決めつけてしまうことが問題なのだと思われる。 最初からそのように振る舞うべき事を決められてしまえば、それに反するものは当然排除、或いは「敵」として認定される。 最初から特定の価値を重要視する立場はこのように個人の内面においても抑圧的であることが要求されるのである。 決めるにしても取り敢えず括弧付きで認めることで、逆の立場の反論にも応えていると考えられるし、判断力・決定力を鍛えていくことにつながるのではないかと思われる。 個人の中に価値の優劣があるのは仕方がないとして、それを他者との関わり合いでどう主張していけるか。(社会性の中での価値の調整?) 取り敢ず「決定」しないと、その一番高いと自分では思っている価値すらも失ってしまうため そのために内面的には他の価値への抑圧も仕方ない面があるのではないか。 その「内面での他の価値への配慮」は、括弧付きでの価値判断で幾分かは緩和出来るように考える。 取りあえず、こうしたことから葛藤を緩和していくんじゃないかな、と。 |
読書日記
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