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「在る法」と「在るべき法」の区分という、功利主義の伝統に根付く区分を支持しているハートとしては、「悪法といえども法である」という考えを否定するようになったラートブルフとは法と道徳の分離という点で共通点があるように思える。 しかしハートはラートブルフを批判する。「悪法といえども法である」という事を否定して道徳と法を接近させるよりも、法である事を認めつつも道徳的に問題であるとした方が批判しやすいと、ハートはいうのである。 ではこの違いは何から生まれたのか。 共通性を持ちつつも差違性が何故生まれたのか。 思うに、これは客観的なるものへの信頼の違いではないかと思う。 つまり、完全に客観的に「在る法」と「在るべき法」を区別出来たならば、法と道徳は混同されることはない。 これをラートブルフ論に当てはめるならば、法と道徳はかなり接近するものの相変わらず区別はきちんとしており、したがって法に対する批判も可能になる。 翻って、あまり客観的に「在る法」と「在るべき法」との区別が出来ないならば、容易に法と道徳は混同される故に、法を批判する事は道徳的な問題を引き起こす。 ハートの論に立つならば、ならばいっそのこと法と道徳はまったく違ったものとすることで、法を道徳的に批判する事が可能になるだろう。 もちろんハートのラートブルフ批判はもっともだと思われるが、仮に完全に法と道徳は分離したものだとしたならば、法の中に含まれている道徳にかなった要素の重要性までもが否定されているような印象も受ける。 ならば、法と道徳を接近させる事は一つのやり方であるようにも思う。 とりあえず、客観性への信頼が高ければラートブルフに近づき、やや懐疑的であればハートに近づくんだろうな、と
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読書日記
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