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http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php この内容は1990年代中頃に法政大学法学部政治学科で開講されていた杉田敦ゼミの記録です。ゼミの先輩がHPとして作成していただいたものを私が編集して「記録」としてここにアップしています。従って内容についての責任などは私、村上にあります。ご意見・ご要望などありましたらコメント欄やメールにていただければ幸いです。 「メディア変容と電子の文化」〜吉見俊哉著 文責:H田(3年) S:ではいつもどおり内容の要約と問題点の整理から。 A:まず最初に、活字の時代から電子の時代へという、メディアの方法の変化が文化の変容をもたらしたということ。例としてP17上段のマクルーハンによる、電子メディアは同時的、多層的、もしくは包括的、接触的コミュニケーションであるということ。 S:筆者はつまり、マクルーハンは変化の大きさを主張しているといってるんだね。 K:続けて、筆者は、電子メディアは空間の意味を消失させるといっています。論点としてはP20に三つあげています。一つ目は、電子メディアは空間の意味を消失させ再構成するが、それは結合という方向と解体、分離という二つの方向がある。二つ目は、空間の再構成を捉えるにはメディアが存在し、構成をしている社会についての分析が必要。三つ目は、電子メディアによって媒介される社会と、実際の社会とには質的な差異が存在するということ。 S:それでは筆者は空間の無意味化についてどう考えているだろうか。たとえば最近の電話を使ったコミュニケーションで対面状況だとかえってコミュニケーションが成り立たないなんていう状況は筆者はどう考えるのだろう。 H:私は前回読んだ、J・B・エルシュテインの『裁かれる民主主義』との関連でこれを読んだのですが、P22のメディアは個人の考え、行動様式を変化させ、社会を変化させる、すなわちメディアは社会を規定するということは、逆のことについてもいえるのではないでしょうか。すなわち、社会はその社会に属する個人の考え、行動様式、メディアを規定するということ。そう考えると、エルシュテインのいっている、市民社会とは公のことについて成り立っている社会だから私を持ち込んではいけないという主張がよくわかる。 S:なるほど、そうするとそれではメディアと公共圏という問題について話題にしてみようか。古典でいえばアレントやハーバーマスは言葉による公共性というものを考えていた。そして、彼らはこの言葉は公共圏を形づくるために使われるものとして、今回のテキストとの関係でいうと新しい言葉のメディアである、ポケベルや携帯電話で交わされる無意味に近い言語コミュニケーションというものを想定してなかった。 H:そうすると、無意味なコミュニケーションと公共圏をつくるコミュニケーションはどこが違うのか、どう区別をつけるのかということが問題になってきますね。 K:でも、今の意見に対して、無意味なコミュニケ−ション、すなわち人々がつながるということから公共圏は生まれるのではないでしょうか。区別を付けるのは難しいと思います。 N:今の話題は一段落したのかな。テキストの本文に沿った話をしましょう。本文では電子メディアは匿名性のコミュニケーションだとありますが、これは特筆すべきことでは無いように思います。なぜなら、現代社会、特に都市とは匿名の個人の集まりであるといえるからです。 S:P26の図1、「メディア変容と電子の文化」について考えてみよう。この図はメディア変容を西洋文明の文脈で捉えている。この図によると、電子メディアは非文字的メディアであり、それは野蛮への回帰であると受け取れる。 H:しかし、電子メディアが非文字的とは無理がありませんか。パソコン通信やインターネットの情報は文字情報ばっかりだし。 S:それについては私もそう思う。この図について説明してみると、メディアの発展段階に従って、口承という段階では、あるテキストについて最初から順を追って話さないとテキストがわからない。書記、活字、電子という段階では途中から読んでもわかる。つまりアクセス性が全然違うから、口承と電子メディアは違うといえる。あとP25,電話のコミュニケーションの変容について、かつて電話は家の玄関先におかれていた。家の中にありながら、家族で交わされるコミュニケーションとは違った外に開かれたコミュニケーション手段だったわけだ。だが、今の携帯電話などの電話コミュニケーションは積極的に外で行われるようになってきた。この違いをみんなはどのように考えるだろうか。時間がもう無いから、最後のまとめとしての問題提起をして終わろう。結局のところ電子メディアというものは公共圏の形成に役に立つものなのであろうか。以前読んだ、金子郁容氏の『ボランティア もう一つの情報社会』では役に立つと書いてあったけどね。 (注)この文章は授業内の討論の要約であり、議論されたことを逐一報告したものではありません。尚、本文中の発言の頭につく、Sは教師、その他は学生の発言です。 7月4日
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http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php この内容は1990年代中頃に法政大学法学部政治学科で開講されていた杉田敦ゼミの記録です。ゼミの先輩がHPとして作成していただいたものを私が編集して「記録」としてここにアップしています。従って内容についての責任などは私、村上にあります。ご意見・ご要望などありましたらコメント欄やメールにていただければ幸いです。 「ボランティア」3 文責:Y本(四年) ・贈与論、ジェンダーを巡って A:今日はこの著作「ボランティア」については、最後の議論です。そこで残りの部分と併せて、今までの総括的なことも取り入れてみたいと思います。 B:1、2で大体の話しが出てきたと思いますが、今回の範囲では新しく企業ボランティア、「自立生活」、それに極簡単な贈与論(文化人類学的観点で)、ジェンダーについての話しが出てきてますね。 C:僕は、この贈与論、それにイリイチからのジェンダーについての議論と”ボランティア”との関連性がいまいち分かりにくかったなぁ。 C:同じく。 A:では、その辺から。 D:贈与論は資本主義に於ける貨幣媒介の商品関係ではない、あげた→ だから貰う→そしたらまたあげる・・・、みたいな関係の事を言うんで、そこに人と人との心の交流みたいなものを著者としては見出して、ボランティアの後者のような側面を強調したかったように思う。 E:”ジェンダー”に関しては、その関連性はもっと分かりにくいよ。私の勝手な解釈として喋らせて貰うなら、著者がここで言いたかったのは、現代の男女の関係、特にその社会的地位の様なものは、永遠不変じゃなくて、歴史的産物でしかないっていう所だと思うんです。だから現代社会のシステムを相対化して、その裂け目からボランティア的可能性を見出そう!!って訳なんじゃない? A:ふんふん。 B:でもだよ、今D君が言ったことに関してなんだけれど、贈与論のそうした面を持ち出すことは少し危険が伴わないかい? D:と言うと? B:つまり、そういった親密な人間関係をクローズアップしすぎると、日本みたいな閉じられた共同体内での伝統を賛美してしまうことになりかねないんじゃないかぁ。 C:著者はそういった考えを持っていることはなさそうだから、ここでこういうことを書くのは、つまり日本を頭に置いて述べてはいない、そうなるかい? D:じゃあ、何処見てんだ? E:一つにはユートピア、それは無いとして、そうなると欧米って事になるね。 F:私は、アメリカなんかではボランティア的なことをしても、直接の御礼なりを期待しないって事を聞いたことがあります。それはつまり、その行為が狭い空間で閉じてしまっているのではなく、もう少し広い、社会とか国単位での貢献として捉えられているからなのかも。 A:欧米、特にアメリカって言ゃあ、資本主義の本場だろ。経済とは距離を置くボランティアがそこに根付いているのは何か面白いね。 B:うんうん。考えとしては近代化が良くも悪くも行き着いた果てに、その副産物としてひょっこり出ていたっていう考え方と、そうじゃあなくて、もともと西洋的価値観にはそういう要素が含まれてたという考え方があるだろうね。 C:キリスト教のことを考えると、後者の側面が強いのではないかい。そうなるとその伝統のない日本のような国ではボランティアが難しいって事になる。これは困っちゃうし、著者も困る、でもそこら辺は触れてませんね。 D:あと、ジェンダーについてですが。 E:これまた「問題有り」っだね。 F:そこんとこ、少し詳しく。 E:ここでイリイチを出してきて、言ってんのは、さっき誰かが言ってたような、”歴史性”なんだろうけど、イリイチの引用からでは「昔々、男の人と女の人とにはそれぞれ社会的に決まった役割がありました。しかし経済社会になるにつれてその分担構造が崩れてしまい、女性の立場は経済の論理で流動化し、従って今みたいな状態になってしまいました」こういう話しになって、これは一部のフェミニストには受け入れがたい。後者は暴力的な線引きに反対しているのに、今の話しでは嘗ての線の復活によって問題は解消されると考えている。 F:何だか難しいや。 A:フェニミズムについては次回から少しやる予定ですのでその辺として、まぁ、今回でこのテキストについては終わりです。ここまで様々な意見が出ましたが、最初のテキストのテーマ「システムと生活世界」とも関連して、学ぶところが多かったのではないでしょうか。 B:僕は「バルネラブル」の可能性が新鮮だった。何処もシステムで、ボランティアすらそれとは決して無縁ではあり得ない、だから脆弱でありバルネラブルなんだけど、でもどこかそれと違う所、その違いをネットワークで繋いでいく、こういう著者の姿勢には確かに共感できる点が多いです。 B:そうだね、だからこの本は”ボランティア”が主題だけど、より守備範囲を広くして(そこがウィークポイントでもあるが)、私たちのゼミの今年の「市民社会」の問題と繋がって来るんだね。そこで出てくるのはシステムを引き受けて、それから這いあがってくるラディカルなボランティア的市民。これもまた、重要なとこだね。 C:じゃあ、今日はこれでおしまいにしましょうか。では皆さん、また来週お目にかかりましょう。さよなら、さよなら、さよなら。(淀川長治さんw) 6月6日
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http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php この内容は1990年代中頃に法政大学法学部政治学科で開講されていた杉田敦ゼミの記録です。ゼミの先輩がHPとして作成していただいたものを私が編集して「記録」としてここにアップしています。従って内容についての責任などは私、村上にあります。ご意見・ご要望などありましたらコメント欄やメールにていただければ幸いです。 『ボランティア』2 範囲:(3章ー2)〜(4章ー1) 文責:Y本(四年) ・ネットワーク論 A:著者はネットワークの可能性と”ボランティア”なるもの繋がりを重視しているけれど,そこん所はどうなのかなぁ? B:良くはわかんないけど、関係有りと言われればあるかも。 C:あと、「バルネラブル」ってことも言っている。 D:つまり、著者の言うところの「弱さの強さ」ってやつでしょ。 E:こういう考え方は最近結構見かけますよ。 F:僕はこの「静的情報」、「動的情報」も見逃せないと思う。 A:そこんとこ、どうなの? B:予め決まっていて、いわば固定的イメージを持つのが前者であろうと思う。後者は著者もそういう風に展開しているけど「ネットワーク」と関わっている気がする。 C:後者に関してはつまり、関係性の中で形成されていく情報、だからいつも暫定的だし、オープンな関係からのみ生まれてくる、ボランティアも従ってこういう触れあい関係的なものにこそ魅力がある。こう繋げているのかなぁ。 D:そんな感じだろうね。異質なものとの接触→既成価値の動揺→新たな広がり、関係性の可能性、こういう訳なんだろう。でも、注意しとかなくっちゃいけないのは、ネットワークのオープン性というのは両刃の剣だってこと。インターネットでも話題になりつつあるけど,「ハッカー」とか「ウィルス」を持ち込むような連中にも無差別にオープンにしとくと、えらいことになりかねない。アメリカとかじゃ、それで規制するのしないのでかなり揉めているようだしね。 E:両刃の剣、うーん、正にそうなんだろうなぁー。 F:でも、一口に言って「ネットワーク」と言っても、その内実なり概念には多義的なものが含まれていると思う。”触れあい”的関係性をも含むんなら、著者が例に引いてる障害者の「自立生活」なるもの、困ってるとき声を掛けて手伝って貰う時に形成されるほんの数秒の「関係」っていうのは、感じとしてネットワークの理想型なのかも知れない。 A:そこでの僅かの経験が、さっき出たネットワークの可能性に繋がる、これは確かに理想かもね。 B:しかし、ネットワークとボランティアを関連づけて、より広い、新しい活動のあり方を探っていくとなると、やっぱりそういう短時間・狭空間なものでは力にはならない。ボランティアも或程度以上のエキスパーシティを求められた場合に問題がないとは言い切れない。そこで、或程度、”制度的”なるものとの接点を探っていくと、やっぱりさっきの「両刃の剣」的ディレンマに直面せざるを得ないだろう。 ・システムとネットワーク C:そこで制度、より広義に捉えるために”システム”と”ネットワーク”との関係が必然的に問われなくてはいけないと。 D:そうなるね。この問題は前にやったハーバーマスの「生活世界とシステム」の問題とも関連してそうだしね。 E:システム(制度)とネットワークが出会ったらどうなるんだろう。 F:面白いことになるって言うと軽率だけど、これは相当やっかいでしょう。ピラミッド型VS水平型の構図はかみ合わせが全然悪い。だから両者のインターフェイスが求められるんだけど、そのいわば「規格」争いには、現状の力関係が出やすい。何しろネットワーク的なるものが大きく注目されるようになったのはそう古くはないから、国家はおろか企業に対しても不利な立場にあると言える。 A:そうなるとネットワークの担い手達がシステムと同一線上に乗らざるを得なくなる。この展開の可能性はさっきの「両刃の刃」に繋がっている、そうなるね。ネットワーク上の有害物は何も猥褻情報を流したりしてる奴だけじゃあない、それどころか紳士然としてる奴ほど怪しい、と。その典型は企業だろうけどね。 B:しかし、この世界にはシステムなるものにのってこない、純粋無菌の「生活世界」あるのかいな、と思いたくなるね。 C:でもだよ、高齢化なんかが進んで、きちっとしたサポート体制が欠かせなくなっていて今の日本(大方他の先進国も同じだろう)なんかでは、やっぱり行政組織にたよらなきゃやっていけない面がある。この本の著者は「V切符制度」なんかで別の活路を探ろうとしているけどね。 D:最近話題の介護保険とかNPO法案なんかは、みんな今の議論と関係しているとこだよなぁ。 E:まぁ、とにかく、「日本型福祉社会」論的な先祖帰りの夢見語りだけは避けたいと。そんなとこかな。 五月三十日
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帰りは京王線を利用したので府中駅下車でそのまま家に帰るのも勿体ない気がしたので府中の二郎に行ってみました! これで二郎はトータル10回は行ったかな(^ω^) 店舗は国際通り?の少し脇道に入った所にあり、ちょっと見つけにくい場所にある。 多少捜し回ったかな(←そうまでして行きたいのかとか言わないようにw) 頼んだのは 豚入りラーメンと玉子で、トッピングはニンニク少なめ野菜増し んで…あっさり完食! 美味しくいただけました(笑) ちょい麺が硬めだったから最初はビビったものの、普通に黒烏龍茶とともに味わって食しました。 蜷川先輩とが「残した」と聞いていたのでどんなものがでてくるのかとかなり心配していたんですが、二郎は普通に二郎でした。 キャベツもたっぷりだったから意外とヘルシーだと思うし、無駄に大量に烏龍茶を飲んだ感じがするけども… まぁお腹もいっぱいになったので、明日からも頑張ろう(o^o^o) message de manabu |
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夜の宿泊では抱腹絶倒のエピソードがあったわけなんだが、それは内緒にしておこう(苦笑) この上越国際はスキーを十年ぶり位に再開した記念すべきスキー場(o^∀^o) ただ傾斜がゆるいのとリフトがちょい遅いのが難点かな。 滑ってる時間よりリフトの時間がかなり長く感じられる。 そのため今回連れてってくれた「友達に光る」さんは「これは阿部ちゃん(志賀で初っぱなに尻餅を着いて、ビール三昧の休暇を過ごしていた後輩)にピッタリなゲレンデだな!これからここを阿部ゲレと呼ぼうか」といってたな…(^^; いやはや、 でも眺めはディモールト素晴らしい! 写真は微妙なものしかないけど実際はもっと素晴らしい光景です(笑) で昼御飯は「ホルン」でホルンセットを食べる。 これがスープがあたたくて野菜がしっかり食べれて、パゲットの食感よく、チーズも濃厚でベネでした(^ω^) 「サンモリッツ」という休憩所ではジョジョネタをやろうとしたけれども猫も居ないしサーモンの燻製も無かったので諦めました… とにかく 帰りは関越道で50キロの渋滞の中で帰ってきましたが、車中は世田谷ベースや沖縄ベースのDVDが流れてたので何気なく見入っているとあっさり東京に帰れました。 こんな気楽なスキーならいいなぁ♪ message de manabu |



