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http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php

「この男こそ 人類の究極の実話だ」
ぼくのSBR(『ジョジョの奇妙な冒険』第7部)のジャイロ・ツェペリをご存じ?
実を言うとこの''サンソン''が、彼のモデルなんです。   ---荒木飛呂彦


@ジョジョさんのサイトでも紹介されていた作品。ジャイロの立場など、元ネタになった事は間違いないので、深く知るために読んでみた。



はじめに恋があった



パリの死刑執行人。通称「ムッシュー・ド・パリ」。
フランス死刑執行人の頂点に立つこの地位に、世襲により6代にわたって務めていたサンソン家がある。

この本は、特に有名なルイ16世の首を刎ねた男である、4代目のシャルル=アンリが主役であるが、最初にサンソン家を死刑執行人にした人物が一代目のシャルル・サンソン・ド・ロヴェルである。


ごく普通の青年であり、軍隊に所属していたシャルルの運命を変えたのは、

つまり人々から忌み嫌われ、子孫の末代まで呪われるといわれた死刑執行人(当時は世襲が当たり前)としての人生を決意させたのは、死刑執行人の娘に恋をしたのが始まりだった。


なにやら、血統への大事、人間賛歌を感じさせる。


そもそも死刑執行人は、裁かれて死刑とされた人間を様々な処刑方法で、国王の名の下に、人間としての尊厳も保ってあげつつ、しかも確実に処刑しなければならない。

首斬りなどの処刑をスマートに行う事がいかに困難かは、数々の失敗例や、日本でも腕や体を押さえる助手がいても失敗している事実などを考えても、よくわかる。


相当な技量を求められる事や、その瞬間の体調や決心など精神的なものによっても、結果が決定的に違ってくる。

そのため、人間の身体への高い理解は、副業としての医療に役立ち、後々まで収入の面でも(政情不安によりしばしば王からの主収入は途絶えた)名誉の面でも(貧しい人には無料でも見た。)、サンソン家を救う事になる。
人を殺す事に苦悩している処刑人にとって、人の命を救うという事は、かなり精神的に救われただろう。

これも、SBRのツェペリ家と一緒だ。


死刑執行人は、犯罪者とはいえ、人の命を冷徹に絶つという死刑を執行するが故に、世間からは忌み嫌われている。

生活はほぼ貴族と同水準。しかし街ゆく人からは避けられ、貴族からも誰からも尊敬される事はない。

高額なお金を払ってでもものを売ってくれる店はまれであり、そんな噂が広まろうものならば、その店は店じまいをしなければならない。

教育環境としても、貴族の子弟と同じく学校に通わせる事はできない。すぐにいじめに遭ってしまうからで、こっそり教えてくれる家庭教師を探すが、身元を隠して地方の寄宿舎に入れるかしかない。

違う職業に就こうにも、想像の通り身元がばれれば身の破滅だから、世襲による仕事を継ぐしかない。
結婚なども、同業のネットワークで行われていたようである。

こんな境遇を見ていると、SBRの中でも父グレゴリオがウェカピポから「呪われた犬どもめ」と結構非道くののしられていた理由がわかるような気がする。



そんななかで主人公格のシャルル=アンリは、敬虔なクリスチャンでもあり、国王からの命を聖なるものとして受け止めていが、死刑を執行しつつ、自分の信仰との折り合いに苦労し葛藤する。

聖書にもあるように「汝、人を殺すなかれ」という言葉と、自分自身のしている事が矛盾するからだ。

いつも命令書を受け取りつつ、重苦しさを感じしてしまう。


時代が転換して、フランス革命となり、人権思想が蔓延する頃には死刑は廃止され、自分も祖先からの流れに背くことなく、自然に処刑から離れる事ができるようになると考えていたが、結局は期待を裏切られる事になる。


「人権により、人が平等になった以上は、平等に人道的に処刑されなければならない」という事で、人道的な「ギロチン」が発明されてしまった。

「ギロチン」は今でこそ残虐なようにも見えるが、以前からの八つ裂き刑や車轢き刑に比べれば、苦痛もほんの一瞬にして、速やかに安らかな死に送る事ができる。しかも確実性が高い。
よって人道的な処刑方法という事になる。


結果としては、
人道的なギロチンは、国王も公開処刑もする事で、たがが外れたように処刑者を増やしていった。
以前からの斬首であれば、一日にそんなに処刑できるものではないのに、ギロチンならば一時間で50人はあの世に送ることが可能である。

シャルル=アンリも、何が何だかわからなくなり、最後には息子や一族に助けて貰いつつ、ギロチンが廃止されるテルミドールのクーデターまで何とかムッシュー・ド・パリをやり遂げる。


最後は、「死刑は廃止されなければならない」で結んでいる。

このへん、フランスで死刑にされたのが150年以上経った後だと書かれているが、それに較べると日本は・・・ということが裏でいいたいのだろうと思う。


自分自身の血統(祖先)や、信条(人権思想・革命支持)、信仰(敬虔なカトリック)、仕事への誇り、国王への誇り、などで葛藤しつつ、時代の流れの中で答えを見つけ出そうとしていた男の生き様だった。


ちなみに、どう考えても無実の少女をギロチンにかけなければならないエピソードや、美人の被告に油断して暴れられたエビソードなどもあり、そのへんは確かに荒木飛呂彦氏のスティール・ボール・ランの元ネタっぽかった。


でもモデルって言う割には、年齢的にはジャイロよりグレゴリオ(父)の方だよな。やっぱり。


SBRでもグレゴリオ自身の苦悩や、その昇華などももっと出てくるのではないかと思う。
他にも、「呪われた一族」と呼ばれ続けた苦悩なんかも、今まで本編ではそのような描写がないので、改めて出てくるかも知れない。

そんな「呪われた一族」が、聖人の遺体を集めるというのも・・・・。奇妙な縁を感じる。



最後に、

「あとがき」を読んで、ちょっとびっくりした。

あとがき
(中略)この本は、集英社新書編集長の椛島良介氏の励ましがあって、なんとか書き上げることができたようなものである。この場を借りて氏に感謝の意を表しておきたいと思う。
2003年11月    安達正勝


ん?


ジョジョの奇妙な冒険28巻あとがき
編集・担当(週刊少年ジャンプ編集部)  椛島良介

当然のことだがあえて   ----氏に特に感謝の意を表す。
氏の言葉には一言一言 勇気をわかせる力がある。
『ジョジョの奇妙な冒険』はしなくしては存在しない作品である。
荒木飛呂彦 & LUCKYLAND COMMUNICATIONS.

まさか同じ編集者とは!

運命を感じるね(笑)



<a href="http://atmarkjojo.org/archives/2007/2007-11-17-001510.html"; target="_blank">『この男こそ人類の究極の実話だ』 「死刑執行人サンソン」の広告に、荒木先生のイラスト付き書評が掲載!</a>(<a href="http://atmarkjojo.org/"; target="_blank">@JOJO</a>)

http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
湯浅健二さんの主張の集大成といった感じ。

HPでも、主要な試合毎にレポートしてくれていた内容、細切れの主張を、自身がドイツ留学してサッカーチームに参加していた経験や、在独哲学者との対談を元に、わかりやすく解説してくれている。


サッカーには、ボールのない所での動きが、非常に大事である。

いわゆる

クリエイティブな無駄走り


である。
無駄になる可能性が高くても、つまり結果的にプレーに絡まなければ無駄になってしまうような動きであっても、チャンスに絡む可能性があるのであればそこにトライしないとゲームが有機的に動かない。


それはシュートチャンスにもいえて、
不確実性が伴う足で扱うスポーツでの、不確実性の頂点に位置するのがシュートである。


リスクチャレンジしているつもりでも、どうしてもシュートに及び腰になってしまう場合も多い。


日本代表の試合だけでなくJリーグやそれに類する試合でも、よく「何でそこでシュートを打たないんだよ」と思う人は多いと思う。

確かに現在では、シュートを打つ事によって責任を一手に引き受けるような行為を無意識に避けてしまう事が多い。

特にFWよりも、本来シュートにそこまで絡まないMFの方がより得点し、シュートも積極的にしていっている姿も多く見られる。

これは得点を決めてなんぼのFWより心理的に「より」楽なMFの方が、落ち着いてシュートを打てるからであろう。

しかしながら、そんな事言ってリスクを避けていては、いつまでたってもシュートを決める技術や本物の心理的プレッシャーに打ち勝つ事はできないと著者は言う。

試合中の極限の緊張感の仲で状況判断し、落ち着いてシュートを打たなければならない。


この辺の責任を避ける心理や言い訳、反省など、著者自身の留学での体験エピソードからも、よりわかりやすく説明してくれている。
(・・・ややくどくて長い感もあるが・・)



興味深いのは、著者はこういった心理的な葛藤などを、きちんと仲間や監督とディスカッションする事で自身の仲で昇華している事である。

ここがサッカー文化、ひいてはネーションそのもののバックグランドの違いであろうか。


シュートを打たなければならない状況において、それにチャレンジし、仮に失敗したとしても、
実はそれはそんなに責められるべき事ではない。

寧ろ責められるべきは、組織サッカーの的においては、そのようなチャンスで失敗を恐れてシュートにチャレンジしない事である。


もちろん、組織プレーとエゴイスティックなプレーとのバランスも大事である。

そちらについても、チーム内の才能のある選手を例に、組織プレーと個人技のバランスを取る事で、いかに武器でもある個人技が更に有効的になるかを、語ってくれている。


このドイツ留学中の体験談は、ほとんどディスカッションする事で、著者自身深い理解になっていっているだけでなく、仲間内内でも意識が共有されていっている点で興味深い。


日本のチームでは、ここまでではないにせよ、選手間や・監督スタッフ等も交えて内部でサッカーについてディスカッションする事がどれだけあるのだろうか。

この辺の意思疎通から始めるだけでも大きく変わるような気がする。


ちなみに、日本人は責任を負いたがらない話の例として、丸山眞男の『無限責任=無責任』をもちだしていた。ある人が責任を一部負い残りを次へ(上へ)ずらしていく、そして次の人も少しずらしていく、そうすることで、誰もが応分の責任があるけれども、誰もが無責任になってしまうという「無責任の体系」。

丸山は戦前の体制を批判するためにこのような例を用いたが、これが現代サッカー(だけじゃなくて社会的にも)当てはまるというのは、確かにその通りだと思う。

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