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今回は、高校の現代文の教科書にも取り上げられたりするような内容で、丸山としては比較的ライトな感じ。でも今読むとまた違って読めて、非常に面白かった。是非お勧めします。 以下、要約 (「長い」という批判は甘んじてウケマス笑 仕事で忙しいハズなのになに読んでるの?!という批判も・・・それは勘弁してください) 「権利の上にねむる者」 地位に安住するのではなく、権利の行使が必要で、それがなければ権利を失ってしまう場合がある e.g.時効時の債権者と不心得者の例、憲法12条にも同じ精神 e.g.自由はそこにあるのではなく、日々自由になろうとすることによって、初めて自由であり得る 近代社会における制度の考え方 自分の偏向性を見つめている者の方が、そうでない者よりより相対的に自由になれるのと同様に、民主主義も定義や結論よりも、その過程を重視することでかろうじて民主主義である。 徳川時代を例にとると その時代は「である」価値、「である」関係だった。身分的な属性により規定された。 e.g.侍は侍など 「である」社会と「である」道徳 徳川時代では、相手が何者「である」かによって討議手続きが決まるので、公共道徳は発達しない。 「する」組織の社会的擡頭 産業の発展や社会の進展などにより、人間自身が多様な関係の中におかれ、丸ごとの人間関係ではなく役割関係に変っていく。 業績本位という意味 産業の発展により何かをする目的限りの関係や制度が発達していき、その中では「である」ことから発する偉さではなく、業績本位という考えが出てくる。またこういった考えの浸透はその社会毎に違い、様々なヴァリエーションをつくる。 経済の世界では 経済の領域では業績判断が一般的であるように、政治の領域でも指導者の業績で判断をしてみてはどうか。 制度の建前だけからの判断 制度の現実的な働きを考えないでそれ自体で善悪を決めてしまうのは危険である。 理想状態の神聖化 民主主義を「である」ものとして捉えた場合(「状態」として捉えた場合)、これを乱すような「する」ということは反民主的といわれる。この考えの中にはある「状態(である)」を神聖化する精神がある。民主主義は批判によって鍛えられるべきであり、「である」建前論は昔の国体のように危険。 政治についての考え方 「である」思考は、政治行動や経済活動などの区別は人間の区別にしてしまう。そうなると政治活動は政治家の専有物になる。民主主義は誠司を特定身分から解放する運動として発展したので、この精神に反する。 市民生活と政治 政治と他のものとを切り離す論理こそが「である」論理であり、政治は政治家のものという「である」政治観である →それが打破されない限りは政治に対して関与したりまったくしなかったりと、all or nothingになる 日本の急激な「近代化」 日本は「する」価値へと変換したが他方で「である」価値が根を張り、その上で「する」原理を建前とする組織が、しばしば「である」社会の道徳で固定化されている。 「する」価値と「である」価値との倒錯 今厄介なのは「前近代性」の根強さではなく、必要なところで欠けているのに、見直されているところでは強力な組織化が起きていることである。 e.g.レジャーの効率化・計画化、教授の終身雇用制度の見直し 学問や芸術における価値の意味 政学問や芸術はそれ自体価値があり多数決などの価値基準のようなものはない。政治はそのようなものはなく、徹頭徹尾、結果責任である。文化的精神活動では休止も価値があり、進歩とかよりも価値の蓄積が大事である。 価値倒錯を再転倒するために 「政治化」した現代では、文化の立場からする政治への発言と行動により、価値倒錯を再転倒する道が開かれる。(文化人の)指導的力と、大衆による民主化運動の内面的な結合が必要である。 要は権利の上に眠るのではなく、常に活用したりしないと盲目になるし、権利自体失われる事にもなる。 (近年の投票率の低さと政治的判断の質の低下を想起せよ) 別の例で極端に言えば、サッカーでも(例えその時は失敗しても)チャレンジしないと(つまり「する」)得点能力は身につかないし、既に身についていても(「である」であっても)維持できない。 最終的には、監督の力や戦術にたよるのではなく(リーダーシップのみではなく)、選手たち自身の相互理解(大衆での民主化運動)だけでもなく、それぞれのバランスを取る事が大事だ、って感じだろうか!? どーでもよいが、運命に対して「眠れる奴隷」であっても、時には敢えてそれに立ち向かっていくという強さが魅力的だと思う(某漫画の話)。
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2008年08月25日
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