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久々のエルムの杜でちょいと読んだ本の書評(挨拶)


あまりに面白いので、論文を控えた友との話にも熱が入る(っていうか俺は何をしに行ったんだ苦笑)


【要約】
ノージックのいうユートピアとは、「ユートピアのための枠」、即ち「メタ・ユートピア」である。
そもそもユートピアには3種類あり、一つ目が帝国主義的、二つ目が宣教的、三つ目が実存的、ユートピアである。ノージックの想定しているのは三番目。メタ・ユートピアは内部にあらゆるユートピアを存立させる枠であり、その内部の多様なコミュニティーはそれぞれ、簡単に構成員が外に出たり新たに加わったりすることを許すような緩やかなものだからである。それゆえ、他人に自身の善を押しつけたり、逆に押しつけられたりすることのない場所なのであり、善だけでなく権利についても同様のことが言える。


更にこの内部のユートピア群(≒共同体群)は、この「枠」内でそれぞれ他のユートピアと対峙する。それは構成員に移動の自由を許しているからで、最終的に押しつけた人一人になってしまうようなユートピアは淘汰される(濾過)。従って国家イメージも「様々なコミュニティーの総体」としての国家である。恐らく(この辺は読みとれなかったが)このユートピア間の競争が社会全体としての発展に繋がるのだと思われる。


最後にこれまでのユートピア論との違いを述べ、未来についての見通しはわからないというところで終わっている。


【感想】
まず疑問に思うのが、コミュニティー(ユートピア)間の自由な移動についてである。
コミュニタリアンの言説に従うならば、人はその共同体に属することで初めて人らしくあれる。そのようなポリス的動物である人間が容易に自分の馴染んだ共同体を離れられるかという問題もあるし、受け入れ共同体も排除せずにすんなり受け入れることが出来るかは疑問である。恐らく「庇護権」はメタ・ユートピアである「枠」によって体現されているのであろうから、受け入れ先がないという事はなくとも、違ったところの内部に入って以前の場所よりも馴染めるとはあまり想像出来ない。

それに対して、もし「共同体ものかとの競争に勝たなくてはいけないからそんなに移動が厳しいわけではない」という市場原理的な反論が可能であっても、それでもまだ不満である。
市場モデルで労働力移転の例に例えてみても、例えば肉体労働者がすぐにIT関係の技師のように働くことが出来ないように、社会はある意味その地位などに固定的である。ある共同体の構成員にとって、そのおかれている地位の拘束力は強いように思われる。肉体労働者にしても好きで肉体労働をやっているのではなく「そうせざるを得ないから」やっているといった方が適切であろう。勿論本当に好きで生き甲斐を感じている人もいるだろうが、実際状況に流されて嫌々やらざるを得ない人の方が多いのであろうし。ブルーカラーが「机に座った事務仕事は嫌だ」とかいうのも別に本当に嫌で、尚かつ自分の仕事に誇りに思っているからというよりは、状況的に仕方なく、そう思わないとやっていけないという面の方が強いのではないかと思われる。そういうブルーカラーの人だって、自分の息子とかが勉強していい大学に入って管理職になるのを嫌がる人はあまりいないだろう。


話は逸れたが、各ユートピア間を個人の趣向で移動するのは難しいと思えるし、それに対してユートピア間の競争原理を持ち出したとしても同様である。それどころか、競争原理の導入は別の問題を引き起こすと言えるかもしれない。


例えば、ユートピア間の角逐として競争を捉えた場合、メタ・ユートピアを枠として市場原理を導入するので、実際の市場のように単一の「善き生」のみを体現したような共同体のみが生き残り内部を覆うというディストピアとなる可能性も考えられる。
勿論そうならないよう期待されるのがメタ・ユートピアなのであろうが、実際のマーケットの動きなどはグローバル化の動き等からも想起されるように単一的なものの創造に働きがちである。


例えとしてはあまりよくないが、テロ後のアメリカなども「テロとその支援国家を叩くべし」という風に一気に一つの価値観に支配され、「そうでなければ非国民」というように他者に対しても押しつけがちになってしまっていた。これは確かに共同体間の話ではないが、人々の価値観が一気に一つの流れに取って代わってしまう例であるように思う。


このようにノージックに対して、共同体主義的、多文化主義的反論を試みてみた。
が、ここで少し個人的に不思議だった点は、ノージックの「ユートピアのための枠」論は、多様な集団(共同体)の共存と全体の発展を説く点で、多文化主義の議論に近いような印象を受けることである。

確かにノージックは個人レベルでの共同体観の移動の自由を唱えており、その点は単なる多文化主義ではないのである事はわかる。しかし自由な個人でもある共同体の中に属しそれに一定の効用を認めている(?)のだから、集団・共同体の公用をまるっきり無視しているわけでもないのではないかと思われる。
しかし類似性を認めつつどうしても両者が違うと思うのは、同質性を前提としているかどうかという点に尽きるのではないかと思う。どういうことかというと、ノージックのメタ・ユートピア観はある種の前提の元での、その内部での集団・共同体間の競争という感じがどうしてもするからである。P503で本当にたくさんの雑多な人の名前を挙げ、これらの人全てに共通する善の社会はないといっているが、共同体間での自由な移動を挙げている時点で、そのような移動しやすさの根底というのは何らかの同質性を前提とした議論であることは明白であるように思う。


それに対して多文化主義は同質的な国民から成る国家という枠組みを否定するところから出てきているので、根本の所でノージックのメタ・ユートピア観とは違うといえるだろう。

ん〜思うがままに述べていったが、いささかまとまってないな〜。。。(まさにノージックのように!?w) 友人と議論としているときにはわかった気になっていたのだが(^^;
それはやはり同好の友の効用というところか。。。
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php

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びやん
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